北辺の星辰 73 (完結)

 ――さて、最後の大舞台だ。
 歳三は、躍る胸を抱えながら、軍装を整えた。
 時刻は午前四時を過ぎたところ、東の空は徐々に明るくなってきている。
 稜堡に囲まれた五稜郭庁舎からでは、市街や湾内の戦いの様子を見ることはできなかったが、耳を聾する砲撃の轟きが、その攻撃の凄まじさをはっきりと伝えてきている。
 孤立した弁天台場を救うために出陣したい、と云えば、榎本は一も二もなく頷いて、出撃の許可を与えてきた。
「土方君に任せれば安心だ。是非とも弁天台場を救ってくれたまえ!」
 手を握ってそう云われ、苦笑をこぼさないで頷くのに苦労した。
 榎本は、本当に信じているのだろうか――歳三が率いて出るのは額兵隊の四十人ばかり、その人数で、箱館市街を奪還し得るのだと?
 そんなはずはない、二股口の場合には、地の利があった。南軍は、山間の狭い道を隊列を細長くして進まねばならず、迎え撃つこちらとしては、蛇の頭のようなその先頭を、ただ狙い撃てばよかったのだ。
 だが、箱館は、同じように細長くとも、両側にあるのは海ばかり。航行可能な軍艦が蟠龍一隻である以上、制海権は南軍にこそあり、挟撃されるのはこちらとなる。はじめから、勝利など見こめぬ戦いだった。
 仮にも幕府陸軍奉行を務めたことのある松平太郎は、そのことに気づいたのだろう。苦々しい表情で、無邪気に喜ぶ榎本を見つめていた。
 一軍の大将としてはやや楽観的に過ぎるとは思ったが、その能天気さが、今の歳三にはありがたかった。出陣せず、五稜郭で籠城せよと云われる方が、現実的ではあるかも知れなかったが、よほどありがたくない。幕軍をきれいに敗北させるには、まず自分が死んで先鞭をつけることが必要だったからだ。
 黒の軍服の上にはおる陣羽織は、迷うことなく赤にした。黄と赤の楓葉を小さく一面に散らしたもので、夏至を迎えるこの時期では、まったく季節外れとしか云いようがなかったが――しかし、他は紫紺や臙脂で鮮やかさに欠け、戦場で存在を際立たせるためには足りなかったからだ。
「それをお召しになるのですか」
 安富才助は、歳三の軍装を見るなり、顔をしかめてそう云ってきた。
「何てェ面しやがる、俺がこれから死にに行くとでも云うみてェに」
 そう云ってやると、安富はますます渋面になる。
 歳三は思わず笑いをこぼした。
「――そんな面ァすんじゃねェよ。おめェだって知ってるだろう、俺ァ赤が好きなんだ。ただのげん担ぎってェやつさ」
「ですが……」
 なおも食い下がってくる。まるで、歳三の胸の裡を見透かしているかのように。
「やはり、他のものをお召しになった方が宜しいのではございませぬか」
「俺が赤を好んでいるのァ、皆知ってることだろう」
 何食わぬ顔で、歳三は応えた。
「この陣羽織を見りゃあ、俺が戦場にいるってェのァ瞭然だ。そうとなりゃあ、兵卒の士気も上がるってェもんじゃねェか」
 何しろ、退けば斬る、の新撰組副長だ、斬られたくなければ、無理矢理にでも士気を上げ、ひたすら前進するよりない。
「それは確かにそのとおりでございましょうが……」
 そう云う声は、まだ不満げだ。
 また苦笑がこぼれ落ちた。
「おめェも、だんだん島田に似てきやがったなァ。まったく、心配が過ぎるぜ」
「……わかりました」
 ようやく、安富が折れた。
「その代わり、あまり突出なさらないで下さいよ。敵方にそのお姿で突っこんでいかれるおつもりなら、私が鞍から引きずり下ろしてさし上げますから」
 じろりと睨んでくるのに、
「おお、剣呑剣呑」
 と肩をすくめ。
 そうして五稜郭を発ったのは午前五時ごろ、それから千代ヶ岱を経て、一本木関門へと向かう。
 ここは千代ヶ岱と箱館市街の間に立てられた柵に設けられている関門で、もともとは通行料と称して木戸銭を徴収するためのものだった。そのため、市街から五稜郭へ抜けるには、この門を通るより他ないようにされている。ここを閉ざせば南軍を防ぐこともできる――実際には、銃砲があるためにその限りではない――だろうが、逆に云えば、ここを取られれば、市中にいる箱館府のものたちは、五稜郭に逃げこむこともできなくなる。弁天台場が孤立している今、ふどうしても押さえておきたい要所だった。
 途中で拾った大野右仲――弁天台場から救援を求めてきた――とともに一本木関門にさしかかると、向こうから、顔一面を血で染めた男がくるのに行きあった。軍装は味方のもの――伝習士官隊の滝川だった。
「滝川君!」
「奉行」
 滝川は、目ばかりをぎらぎらと光らせて、馬を寄せてきた。
「戦局はどうだ」
「駄目です。七面山あたりで戦っていたのですが、保ちこたえることができず……」
 そう云う間にも、血がその顔を流れ落ちる。
「君の怪我は」
「頭と、肩をやられました――私はとても戦えませんので、士官隊は奉行にお預けしても宜しゅうございますか」
 そう云う滝川の顔は、血に染まっているにも拘らず青白く、よほどの怪我であることを窺わせた。
 歳三は頷いた。
「わかった。君はともかくも千代ヶ岱まで退け。……大野君」
「は」
 大野右仲が進み出る。
「君に士官隊を任せる。改めて隊を組み直し、額兵隊とともに攻勢に転じるぞ!」
「はっ!!」
「……それでは、私はこれにて」
 滝川が云って、馬の脇腹に一蹴りいれた。その姿は、馬上でかすかにふらつきながら、徐々に小さくなってゆく。
「奉行はいかがなされますか」
「俺は、一本木関門を守りつつ、君らが逃げようとしたら斬るために、ここに留まるさ」
「それは……」
「云っておくが、本当にやるぞ。実際俺は、宇都宮線の時には、逃亡兵を斬ったこともあるからな」
 そう云うと、大野、そして星の表情が引き締まった。
「さァて、行け! 退くものは、俺の刀の錆にしてくれるぞ!!」
 歳三が叫ぶと、額兵隊、そして伝習士官隊の兵たちは、やや緊張した声で、
「「「「「応!!」」」」」
 と叫び返してきた。
「行け!!」
 その声とともに、ぞろりと隊列が動き出す。
 歳三は、安富や、同じく陸軍奉行添役の大島寅雄などとともに、一本木関門のところに留まった。立川主税など、数名の新撰組隊士――元、とつけるべきかもしれぬ――も同様に残留した。
 と、背後を見れば、沖合の回天から小船が下ろされ、海軍士官と思しき人影が。次々とそれに乗りこむのが見えた。
 大砲の音は絶え間なく続いているが、そのうちの一発が命中した、と云うわけでもないことは、回天が大破しているわけでも、あるいは船体を傾けているわけでもないことからわかる。何が起こったのかと思っていると、甲板の一角から火の手が上がった。砲弾が尽きたのかどうか、何らかの理由で戦闘続行不能になった回天を、荒井が放棄すると決定し、せめて敵の手には渡すまいと火を放ったものと見えた。
 小船は幾艘か、波に揺られながら浜を目指して進んでくる。
 が、その向こう、七里浜方面から、南軍の兵が侵攻してくるのが目に入った。
「いかん!!」
 叫ぶなり、馬首を返して上陸地点へ向かう。
「荒井さん!」
「おお、土方さん!」
 船首に立って喜色を見せた荒井郁之助は、しかし、迫りくる南軍兵卒の姿を見ると、狼狽をあらわにした。
「早く! 上陸して下さい!!」
 歳三の声に、海軍士官は慌てて船を浜に寄せた。
「来るぞ!!」
 誰かが叫ぶ、その声とほぼ同時に、銃声が響きわたった。南軍からの銃撃だ。
 すかさず、背後からも銃声。歳三の馬まわりのものたちが、南軍に向かって発砲したのだ。そして、こちらの様子に気づいた伝習士官隊の幾たりかからも。
 南軍兵は一瞬怯んだかに見えた。が、多寡の差は明らかだ。とにかく荒井たちを無事に逃れさせ、自分たちの戦いに専念できるようにしなくては。
 と、いきなり轟音が響き、沖の方で敵艦・朝陽が粉々に弾け飛んだのが見えた。
「蟠龍だ!!」
 どうやら蟠龍が、朝陽に砲撃を加えて撃沈せしめたものらしい。高く上がった波が、傾いた朝陽を揺らしながら、ゆっくりと呑みこんでいこうとする。
 ――好機だ。
 南軍は、沖合を呆然と見やり、自軍の軍艦が波間に沈んでいく様を眺めている。他の艦船も、よもや僚艦が沈むとは思いもしなかったのだろう、砲撃が止んでいた。
 かれらが我に返る前にこちらが攻勢に転じ、荒井たち海軍組を、何とか五稜郭まで逃れさせなくては。
「この機を逃すな!」
 歳三は声を張り上げ、関門の向こうで攻めあぐねている伝習士官隊、額兵隊の両隊に向かって叫んだ。
「逃げようとするものは俺が斬る! 前を向け、進め、進め!!」
「「「応!!」」」
 敗北を経験したばかりの兵は御し難かろうが、しかし、勢いがつけば動けるようになるだろう。朝陽を蟠龍が撃沈した今ならば、伝習士官隊もうまく動ける可能性はある。
「進め、進め!!」
 大野右仲が馬上で叫び、伝習士官隊はゆっくりとだが、着実に歩を進めていった。
「土方さん!!」
 荒井が叫ぶ。南軍の銃口が、海軍士官たちを捕えようとしているのだ。
「いかん、撃て!!」
 銃声が響く。あたりはしなかったようだが、敵の足許に着弾し、かれらが一瞬怯む様子を見せた。
 それだけでも充分だった。
「今のうちに!!」
「かたじけないっ!」
 次の銃口が向けられる前に、荒井たちは千代ヶ岱へ続く道を走り去っていった。
「おめェらの敵はこっちだぜ!!」
 白刃を抜き放って叫ぶ。幾たびも死線をともにした和泉守兼定が、朝の光を眩しくはじく。
 背後で、安富たちが同じように刀を抜くのがわかった。
「斬りこめ!!」
 応える怒号。まるで京にあったころのよう、鉄砲に狙われぬように、南軍の懐深くまでもぐりこむ。
 案の定、味方に当たることをおそれてか、敵の銃撃の手が止まる。
「やれ、やれ!!」
 馬上で白刃を振りかざしながら、声を上げる。
 安定しない鞍の上で刀を振るい、幾たりかを斬り伏せる。
 安富や立川も、そこここで斬り結んでいる。新撰組だとは名乗らないが、それでも太刀筋でおぼえることがあるのだろう、南軍の兵士たちは、銃を撃ちかけてきた時ほどの気迫はない。接近戦で、新撰組に勝るものなどないのだ。
 そうしながら、
 ――まだか。
 まだ、己を殺すものは現れないか――この絶好の機会と云うのに。
 落馬して無様を晒す前に、誰か、早く、早く――!
 と。
 乾いた音とともに、みぞおちの横を衝撃が貫いた。一瞬身体が硬直し、次いでどっと地面に投げ出される。撃たれた、と思ったのは、頬にあたる砂利の感触をおぼえてからだった。
「奉行!!」
 安富の声がする。
 馬鹿、敵軍の真ん中で、俺のことなど構うなよ――そう云おうとするが、身体が痺れたように動かない。
「奉行――土方先生!!」
 抱き起こされたか、上体が浮き上がるような感覚。だが、それもひどく遠い。
「――……すまねェ、な……」
 使命のためとは云え、こんなところまで連れ回し、挙句にすべてを投げ出して。
 だが終わる、すべて終わる。
 この自分の死をもって、歳三は戦いを終わらせる。その先には敗北と、苦いが確かな生があるはずだ。その礎にこの生命がなるのであれば、何を惜しむことがあるだろう。
 ――果たしだぜ。
 誇らしい思いが胸を満たすが、それとともに、すべての感覚が遠くなってゆく。
 やがて戦場の喧騒がすっかり遠ざかり、あたりがまったき闇に閉ざされた、その時。
 ――土方さん。
 懐かしい声が云った。
 ――遅いですぜ、俺ァすっかり待ちくたびれちまいましたよ。
 からかうような、飄々とした声。
 青黒い大きな手が、闇の中から伸ばされる。病み窶れたあとなどない、筋張った手――新撰組一、二を争う剣の遣い手の。
 ――うるせェや。
 かつてのようにそう応え。
 歳三はその手を掴み、闇から一足で抜け出した。


† † † † †


はい、鬼の話、最後。
not司馬遼テイストをお愉しみ戴ければこれ幸い。



正直、この章の最初の一文書きたさにこの話書いてた、と云っても過言ではございません。
つか、書こうと思った時には、ここのこの一文が思い浮かんだので、そこへ至るためのアレコレを、史実から抜粋してソレコレした、ってカンジですかね。
鬼のこの辺の話って、基本的に皆さん司馬遼に縛られてる感がアレしてまして、そんならせっかくだから、司馬遼ではない鬼のラストを書きたかったのです。
そりゃあさぁ、アレ確かにカッコいいですよ、「新撰組副長、土方歳三参る!」的な感じはね。でもみんなそればっかじゃ、途中どんな話書いてたって司馬遼の亜種に堕しちゃうカンジで、しかも全体の出来は圧倒的に司馬遼の方がいいわけだから、つまり、"この話読む意味あんの?"になっちゃう――って思うのは私だけですかね。
まぁとにかく、司馬遼ではない土方歳三を目指しました。とりあえず、司馬遼ではありえないですね、はは。
企てが成功したかどうかは、まぁ皆様そっと心の中で採点してやって下さいませ……



ちなみに、今回も概ね史実に沿っての進行でございます。
陣羽織云々は、南軍側の兵士の証言か何かがあったはず。首のない死体の陣羽織の裏に"土方"ってあったと云う話だった(はず)ので、そう云うカンジで。まぁ、首云々は今回まったく書いてませんが。薄い本の時に、安富目線でちょろっと書いたなー。
陣羽織は、何かそんなことを、箱館市街戦のカミサマが云ってた+↑の南軍の兵士の証言にもそれ風のがあったので。赤とか楓の柄とかは、お告げ(笑)ですお告げ(笑)。



全然関係ありませんが、いきなりカズオ・イシグロを集中的に読み始めました。
っても、昨今話題の『忘れられた巨人』ではなく、『夜想曲集』とか『充たされざる者』とかのepi文庫の方ですが。
もともと中公の『日の名残り』を読んでた、って云うか映画見たので、アレなんですが、うん、やっぱり自分、英国文学の方が米国文学より親和性があるのだな、と思いましたわ。
『浮世の〜』と『遠い〜』は、まだちょっとそそらないので、とりあえず手に入れた分から――しかし、『充たされざる者』がハヤカワサイズ&京極並の厚み、で、市販のブックカバーでフォローできない……覆っとかないと背表紙から割れそう&カバーがすっぽ抜けそう、なので、ちょっといろいろ考えるか……くそう、ハヤカワサイズめ!!



ってわけで、この話はこれでオシマイ。
次はいよいよ先生の話――になるといいなァ……
あ、こないだやっと、『空海入唐』(日経新聞社)を読み終わったので、それもあって杲隣(この字だっけ)の"修善寺温泉物語"とかいいなぁ、と思っちゃいました。まぁ、やったって短いんですけどね。
あと、ちゃんと書けるか橘逸勢物語、とか。
いずれちゃんと書きたい。阿闍梨の話や観阿弥の話もね。



さてさて、こんどこそ、先生の話、になる、はず……