新撰組断章
――さて、最後の大舞台だ。 歳三は、躍る胸を抱えながら、軍装を整えた。 時刻は午前四時を過ぎたところ、東の空は徐々に明るくなってきている。 稜堡に囲まれた五稜郭庁舎からでは、市街や湾内の戦いの様子を見ることはできなかったが、耳を聾する砲撃の轟き…
案内されたのは、四畳半の小間だった。 大広間からはそれなりに離れているので、喧騒もほとんど気にならない。 妓楼の小間であるからには、そういうことに用いられる部屋なのだろうが、箱館府の首脳の酒宴が開かれるとなって、皆ここを使うのを避けたのだろ…
五月三日、四日、五日の三日間、陸軍方で、南軍との小競り合いが幾度かあり、七日には箱館湾内で海戦があった。 敵方の戦艦は春日、朝陽、それに加えて宮古湾海戦で奪取し損ねた甲鉄艦であり、それを聞いた歳三は、あの戦いで目的を達しえなかったことを後悔…
二日、ブリュネやカズヌーヴら仏軍士官らが、自国の船に乗って、箱館を落ちていった。 「まぁ、仕方なかろうな」 訊ねていった千代ヶ岱陣屋で対面した中島三郎助は、そのように云って茶を啜った。 「もはや戦局はいかんともし難いことになった――南軍が英米の…
「――おやおや珍しい。奉行御自ら、わざわざのお運びたァ」 伊庭の声は、かすれてはいたものの、昔どおりの気の強さを思わせるものだった。 「昨日まで二股口でな。今日になって帰参したんだ」 応えながら、歳三は、改めて旧友の顔をまじまじと見た。 痩せた…
五月一日、歳三たち二股口守備隊は、五稜郭に帰参した。 負けなしの戦いを切り上げて退いてこざるを得なかった兵たちは、やや不満げな面持ちではあったのだが、歳三としては充分以上の成果はあったので、気分はまぁ上々と云えなくもなかったのだ。 「無事帰…
四月二十九日、歳三たちは、二股口から箱館へと撤退した。 敗退したわけではない。箱館との途上にある矢不来が落とされたため、孤立することになる二股口の陣を捨てて戻るよう、榎本から通達があったのだ。 ――ま、負けたわけじゃあねぇからなぁ。 どちらにし…
日が暮れるあたりから、戦場には雨が降り出していた。 「参ったな……」 雨が降れば、弾薬が湿気て、使い物にならなくなってしまう。敵方もそれは同様だろうが、何しろこちらは補給も薄い、あるものは無駄なく使いたい。そのためにも、弾薬を濡らしたくはなか…
南軍の部隊が天狗岳を急襲したと云う知らせがあった時、歳三は、台場山で胸壁の点検をしているところだった。 むろん、既に遠く銃声の響くのは聞こえていたが、本格的な交戦に入ったと聞くのは、いよいよだと云う気分にさせられる。 「敵襲か!」 叫んで、大…
台場山は、市渡から二里ほど行ったところにある、小高い山だった。“山”と云うよりも“岡”と云った方がしっくりとするくらいの、ただこんもりとした小山である。 幕軍の前哨地である天狗岳はここからさらに半里、中山峠はさらに半里ほど行った先にある。道は、…
四月九日、歳三は、先行していた伝習隊や衝鋒隊などを追って、二股口へと出発した。添役として、安富才助や大島寅雄などを伴っての出陣であった。 歳三の守備するべき二股口は、敵の上陸予想地である乙部からは、もっとも短い距離で箱館に進むことのできる経…
「――市村君を、お出しになったそうですね」 自室へ戻った歳三をそのような言葉で迎えたのは、どこか苦さを含んだ表情の島田魁だった。 「……早耳だな」 歳三が苦笑すると、 「よもや、市村君がおとなしく出されるままになるとは思いもしませんでしたよ」 「ま…
四月八日、松木との約束の日になった。 歳三は、頃合いを見計らって、五稜郭の己の部屋へ、市村を呼んだ。 ややあって、歳三が短い手紙をしたためていると、 「――市村です。お呼びと伺って参りました」 「あァ、入れ」 入室して来た市村は、小さな荷物を抱え…
五稜郭の庁舎で歳三に割り当てられていたのは、かつては公事方の詰めていた部屋であった。白洲に近く、“陸海軍裁判所頭取”の職には相応しいと云うべきかも知れなかった。 いつもならば、その部屋には、陸軍奉行添役たる安富才助や相馬主計などが詰めているの…
心の区切りは、外からの力によってつけさせられることになった。 宮古湾の敗戦の傷も癒えぬ四月六日、英国船アルビオン号が箱館に寄港してきたのだが――そこからもたらされたのは、薩長軍が九日に乙部村に上陸、侵攻してくると云う知らせであったのだ。 「箱…
箱館までの帰途の間、自分が何をしていたのかを、歳三ははっきりと憶えてはいない。 ただ、ひたすら今後のことを考えていたのは憶えている。 開陽が沈み、甲鉄艦の奪取にも失敗した以上、箱館府の命運は尽きたと云っても過言ではなかった。本土と蝦夷地の間…
「行け、行け、攻め寄せろ!」 抜刀し、雄叫びを上げる。 それに励まされるように、斬りこみ部隊のものたちが、甲板の際に殺到する――が。 「……!!」 かれらの足は、そこでぴたりと止まってしまった。 どうしたのか、とそちらを見やった歳三は、次の瞬間、絶句…
回天は、夜を徹して北へと航行した。 並走する船影はない――ただ一隻、北へ北へと進み続ける。 漆黒の空には、爪跡のような細い月が浮かんでいる。それを背に、北辰を標に、回天は進んでゆく。 海を渡る夜風の音と、船首が波を砕く音、帆を支える檣竿と、それ…
「あれ、仏頂面でどうしたよ、ハチ?」 「コタか……別に(脹れ)」 「(吹き出し、膝を打って)何拗ねてんだよ、“別に”って! っつぅか、帰りだろ、どこ行ってたんだ?」 「……歳さんところ(不機嫌)」 「(ぴんときて)ははぁ、また向こうの誰やらに邪魔にされたんだ…
「――それでは、斬りこみは高雄乗船の神木隊に任せるということですな」 動きだした回天の甲板で、歳三は、厳しい表情のままの荒井に向かって、そう確かめた。 「そうするより他ありますまい」 荒井は、そっけない口調でそう答えてきた。 「既に、小笠原賢蔵…
「――蟠龍が来ないのです」 海軍奉行・荒井郁之助は、いつもは能天気な笑みを浮かべるその顔を、不安げに歪めてそう云った。 「ただ単に遅れているだけなのではないのですか」 山田港に入って、まだ半日しか経っていない。あの荒天で船団がばらばらになったの…
出航当日、及びその翌日の昼までは、概ね天候も良好で、航海は順調に進んでいた。 相馬などは相変わらず船酔いに苦しんでいたが、それでも、箱館が遠ざかるにつれて徐々に緊張感が高まってきたのか、はじめのような惨憺たる有様ではなくなってきていた。蒼褪…
三月二十一日、幕府海軍の回天、蟠龍、高雄の三隻は、ストーンウォールこと甲鉄艦を含めた南軍の艦隊が停泊する、南部藩領宮古港へ向けて出港した。 歳三の乗る回天には、海軍奉行・荒井郁之助、仏人海軍士官・ニコール、軍監として相馬主計と野村利三郎、大…
三月下旬、かねて療養中であった玉置良蔵が死んだ。労咳で、衰弱しきってのことであったと聞いた。享年十四であった。 預けられていた高龍寺の箱館病院分院で、眠るような死であったのだと云うのだが――その死に際に立ち会ってやれなかったことが、歳三の胸に…
三月半ば、偵察に出していた間諜が、津軽より戻ってきた。薩長軍の軍艦五隻、及び輸送船二隻と亜米利加の飛脚船一隻、計八隻を品川から出帆させ、宮古湾に入港させるらしい、との知らせを携えての帰還だった。 その薩長の軍艦五隻のうちの一隻が、例の甲鉄艦…
二月は、何事もなく過ぎ去った。 案の定、貨幣の改鋳――“改悪”――と、その流通に伴って、箱館市中では、細かな騒動が起きてはいたが、それにしても、箱館の民草が一丸となって、旧幕軍に反旗を翻す、と云うほどでもありはせず、概ね平穏な日々が続いた、と云っ…
「ねェ、土方さん」 「(書類から顔を上げずに)何でェ、総司」 「すっげェ残念な話なんですけど」 「おう」 「一番隊の隊士で、外で借金してやがったのがありまして」 「あァ?」 「だから、花街で女買ったあと、金がねェってんで、金貸しから借りやがったの…
「……兄貴、何だよあの写真。――は? 見合い? ……だーから、俺は、自分で見つけるって云ったろ? ……だから会わねェって!」 云い立ててみたが、電話の向こうの兄からは、「よく考えろ」の言葉があっただけで、そのまま一方的に通話が切られた。 「兄貴! おい…
その日、弁天台場での練兵を終えた歳三は、そこからまっすぐに坂を上がり、高龍寺に足を向けた。 ここには、箱館病院の分院が設けられており、傷病兵が収容されている。 歳三は、この病院に、小姓の玉置良蔵を見舞いにやってきたのだった。 玉置は、仙台あた…
「おう、総司、先刻表の方で、えれェ騒ぎんなってたみてェだが――あれァ一体、誰が何をどうしたんだ?」 「あァ……あれァ、面会待ちの薩摩の国父殿と、西郷どどんが大喧嘩はじめやがったんで、あの騒ぎだったんでさァ」 「あァ? 何だって、島津久光殿と、西郷…