ルネサンス断章

左手の聖母 22(完結)

サライが死んだ。 バッティスタからの手紙によれば、ミケランジェロが帰ってすぐ、サライはあの家の中で、銃で撃たれて死んだのだと云う。下手人は、まだ捕まってはいないと云うことだった。 家中を逃げ回ったものか、家具は倒れ、ものは床に散乱して、ひど…

左手の聖母 21

「あんた、そろそろフィレンツェに帰った方がいいぜ」 唐突に、サライが云った――ようやく春の気配が感じられるようになった、とある日のこと。 ミケランジェロは驚愕したが――同時に、何となく、そう云われる予感のあったことにも気づいていた。 「俺が、邪魔…

左手の聖母 20

収穫祭が終わると、段々秋の気配が冬のそれへと変わっていくのが感じられるようになってきた。 葡萄の木はすっかり葉を落とし、冬の眠りに入りはじめたようだ。 ミケランジェロも、朝晩の冷えこみで、背中や腰が痛むようになってきていた。 「ミラノは寒いか…

左手の聖母 19

九月も半ばになったころ、サライが唐突に云った。 「もうじき収穫祭だけど、あんたも出るよな?」 「収穫祭?」 「うん、葡萄のな」 そう云えば、この間から空気が甘い匂いに満ちているなと、ミケランジェロは改めて思った。 熟れた果実の甘さと、葡萄特有の…

左手の聖母 18

季節は、あっという間に過ぎていった。 秋のはじめ、サライを訪ねてきたものがあった。 「スイスへ行くんだ。……一緒に行かないか、サライ」 明るい青の瞳の、がっしりとした身体つきの男は、来るなりサライにそう切り出してきた。 「いつまでもここに閉じこ…

左手の聖母 17

暫く経ったある日のこと、ミケランジェロはふと、例のレオナルドの部屋の扉が開いていることに気がついた。 夜ではなく、真昼にだ。 珍しいこともあるものだと思って、戸口から覗きこむと、サライが重い鎧戸を開け放っているのが見えた。 「何をやってるんだ…

左手の聖母 16

「散歩がしたい。ミラノ市内を案内しろ」 翌朝、朝食が終わってすぐにそう云ったのは、半分はサライを家の外に引きずり出すためだった。 「ああ? ……別にいいけど」 そう応えるサライは、昨夜のことが夢だったとでも云うように、ごく自然な様子をしている。 …

左手の聖母 15

ミケランジェロが選んだのは、サライの部屋のすぐ隣り――レオナルドのものだと云う部屋とは反対側の――だった。 南東に開いた窓からは、葡萄園と市壁、緑の野と遠い森、その向こうの空に霞むように、かすかに青く山の峰が見える。 「中々いいところだろ」 と、…

左手の聖母 14

サライの建てたと云う家は、確かに葡萄園の南よりの場所にあった。 二階建ての、決して大きくはない――けれど、二人ばかりの人間が生活するには、充分すぎるほどの家。 だが、そこはひっそりと静まり返り、人の気配は感じられなかった。 本当に、サライはここ…

左手の聖母 13

右手が動かなくなる徴候は、実は冬あたりから出ていたのかもしれない。槌を握る手にかすかな違和感を感じたのは、もうかなり前だったような気がするからだ。 本当に気づいたのは、三月ごろ――ウルビーノ公ロレンツォの柩にのせる“曙”と“黄昏”の整形をはじめた…

左手の聖母 12

ジュリアーノの時と違って、レオナルドの死を悲しむ暇は与えられなかった。 知らせを聞いたと同じ一五一六年六月、枢機卿ジュリオ・デ・メディチ――現在の、フィレンツェの統治者である――によって、サン・ロレンツォ聖堂に聖具室を新しく作り、そこに、ロレン…

左手の聖母 11

ジュリアーノの死の知らせを聞いた時、ミケランジェロは、彼にぴったりとはりついていた青白い翳が、遂にジュリアーノを呑みこんでしまったのだと思った。 ――畜生、何だって、あんないい奴が…… モーゼ像に鑿を入れながら、ミケランジェロはぼろぼろと泣いた…

左手の聖母 10

一五一五年、ジュリアーノ・デ・メディチが結婚した。相手は、フランス王ルイ十二世――ジュリアーノがローマを発った丁度その頃に崩御した――の妹でフィリベルト・ド・サヴォア、完全な政略結婚であることは、誰の目にも明らかな二人だった。 これにより、ジュ…

左手の聖母 9

とは云うものの。 それから暫くは、概ね平穏な日々が続いていた。平穏――とある男のことを除いては。 「おい、クソがき!!」 叫んで扉を開けると、中にいた巻毛の青年は、驚きもあらわにこちらを見た。 「……まさか、本当に来るとは思わなかった」 「何だ、その…

左手の聖母 8

再会のときは、案外早くに訪れた――但し、相手はレオナルドではなかったが。 ユリウス二世の墓廟に関する契約のため、ヴァチカーノのベルデヴェーレ宮殿を訪れていたミケランジェロは、ふと、中庭をよぎってゆく、丈高い影を見つけ、足を止めた。 豹の毛皮の…

左手の聖母 7

システィーナ礼拝堂天井画の完成後すぐ――翌年二月二十一日、ユリウス二世が逝去した。69歳だった。 次に法王に選出されたのは、ミケランジェロの幼なじみ――ロレンツォ・イル・マニフィコの次男、ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿だった。 ジョヴァンニ――新…

左手の聖母 6

ボローニャへ到着すると、ミケランジェロを待っていたのは、ユリウス二世からの、ブロンズ像制作の依頼だった。 等身大を超える青銅の法王像を、サン・ペトロニオ寺院の正面に据えつけよと云うのだが、正直に云って、ミケランジェロは気が重かった。ブロンズ…

左手の聖母 5

「カッシーナの戦い」の画稿が完成したのは、一五〇五年の一月末のことだった。 正直、ミケランジェロとしては、既に勝負の見えた話ではあったのだが、ともかくも、持てる技術をすべて使い、すべての霊感を注ぎこんで描き上げた画稿だった。 翌二月に画稿を…

左手の聖母 4

ミケランジェロが画題に選んだのは、フィレンツェ軍がピサ軍とぶつかった、いわゆる「カッシーナの戦い」だった。 百五十年ほど昔のこの戦いの図は、実は、フィレンツェ軍勝利の絵図ではない。 一三六七年七月二十九日、ピサと戦っていたフィレンツェ軍は、…

左手の聖母 3

使者の用件は、絵画の依頼だった。 フィレンツェ市庁舎――パラツィオ・ヴェッキオ内の五百人会議室に、フィレンツェの勝利を記念する壁画を描いてくれと云うのだ。 「――しかし、それは今、レオナルド・ダ・ヴィンチが請負っているのではなかったか?」 皆の知…

左手の聖母 2

報復はすぐにきた。それも、まったく思いもよらないかたちでもって。 その日、ミケランジェロは、作業を終えて、己の部屋に戻るや、行き倒れのように床で眠ってしまったのだ。 彼の常として、一度眠りにつけば、耳元で喇叭が吹かれようと目覚めないほどであ…

左手の聖母 1

「ミケランジェロが説明してくれるでしょう」 画家のその言葉を聞いた瞬間、かぁっと頭に血が上るのを感じた。 「あんたが説明すれば良いだろう、レオナルド!!」 思わず怒鳴りつけてしまったのは、今から思えば、多分、恥かしかったからだ。 この自分、売り…

神さまの左手 43

「出かけるぞ」 と云われて、サライは少々驚いた。 時刻がもう夜の九時になろうかと云う頃合いだったからだ。 「今から?」 「今からだ」 酒場に行くのかとも思ったが、それにしては少々よれた服を着ている。色褪せた上着、手には重たげな頭陀袋。酒場と云う…

神さまの左手 42

※事後です。ご注意!! それに気づいたのは、気だるい熱が徐々に冷めてきてからのことだった。 サライの手が、いつもと違っていた。 それだけと云えば、それだけのこと。 だが、レオナルドにとっては“それだけ”などではありはしなかった。 これが、普通の、昼…

神さまの左手 41

「おにいさん、おひま?」 声をかけてきたのは、派手々々しい色合いの安っぽいドレスを身にまとった、見るからに娼婦とわかる女だった。 レオナルドが、イル・モーロの晩餐会に呼ばれていってしまい、暇をもてあましたサライは、ミラノの街中へふらふらと出…

神さまの左手 40

※男×男の描写がございます。閲覧は自己責任にてお願い致します……

神さまの左手 39

カテリーナが死んだ。レオナルド四十三歳の夏のことだった。 昨年から体調を崩して病院に入っていたのだが、その甲斐もなくの死であった。 レオナルドは、病院から母の亡骸を引き取って教会に運び、司祭四人と助祭四人に頼んでミサをあげてもらい、ミラノの…

神さまの左手 38

――何でもう酒盛りやってんだよ…… 葡萄酒で満たした水差しを運びながら、サライは深く溜息をついた。 例のフラ・ルカ・パチョーリがやってきたのは、まだ朝のうちであったはずだ。レオナルドは、ようやっとそのころに起き出して、朝食も摂らずに応対していた…

神さまの左手 37

とある朝方のことだった。 サライが、一階の戸を開け――よくあるように、住居の一階を工房として使っている、と云うわけではもちろんないのだが――風をとおして掃除をしていると、 「……マエストロはおられるか」 灰色の衣をまとい、頭巾を目深に被った初老の男…

神さまの左手 36

「それでは、はじめさせて戴きましょうか」 そう云うと、フラ・バルトロメオはやや顰め面で頷いた。 「あまりおかしな格好をさせてくれるなよ。こちらも歳なのだ、あまり後に響くようなことは困る」 「もちろんです」 と云いながら、レオナルドは、椅子にサ…