時の環の彼方で

「――あ、来た来た」
「先輩、おそいっすーっ!」
 待ち合わせの時計の下で、ふたりがこちらへ手を振った。
 冬の冴えた空気の中、街路樹にまかれたイルミネーションが、鮮やかに見える。
「悪ぃ、待たせた!」
 そう云って駆け寄ると、背の高い後輩は、にっこり笑って首を振った。
「僕らは、茶店でコーヒー飲んでましたからね。先輩こそ、お疲れ様でした」
「腹減った、腹減った、腹減ったよせんぱーい!」
 少年じみた容貌の後輩は、彼の肩を掴んでがたがたと揺さぶる。
「メシ、メシ食いたいメシーっ! せっかく、あそこの店行くって云うから、間食だって我慢して、財布に金詰めてきたのにーっ!」
 いっぱいで入れなかったらどうするんだと叫ぶ後輩に、彼はひらひらと手を振ってやった。
「心配すんな、会社出るときに、念のため、席だけ予約入れといたぜ」
「おぉ、さすがせんぱいっ!」
 と、こんなときだけ調子よく、目をきらきらとさせる。
「やかましいわ、この阿呆」
 すぱんと叩こうとするのを、ひょいと避けられる。この速さも、昔のまま。
「へっへー、それは食らいませんよーだ」
 べっと舌を出して、そう云われ。
「てめぇ!」
 本格的に追いかけようとしたところで、
「止めましょうよ、こんな人ごみの中で……他の人に当たったらどうするんですか」
 と、止められた。
「俺が当てるかよ」
「ついでに俺にも当たらねぇや」
「この野郎!」
「だから、お止しなさいって。……大体、店の予約入れたって、何時からですよ」
「八時」
「じゃあ、そろそろ移動しないと。ここじゃないって云ってませんでした?」
「ああ、まぁな。じゃあ、行くか」
「わーい♪」
 ぞろぞろと移動しかけるその頭上、ビルの壁面の大モニタに、浅葱のだんだらの羽織の一団が映し出された。
「あ、新撰組だ」
 と、子供っぽい仕種で、後輩が画面を見上げる。
「ああ、本当だ。今流してるってことは、来年の正月ドラマですかね。ああ、司馬遼だ、好きですよねぇ、皆」
 もう一方も、眼鏡の奥で目を細める。そのレンズに映る、“誠”の文字。
「はン」
 鼻を鳴らし、彼はくるりと背を向ける。
「何がいいんだかな、あんな話」
 と、
「えー? カッコいいじゃないすか。俺は好きだけどな、特にあの、土方歳三なんか」
新撰組なんて」
 と、彼は、昔よく耳にした言葉を、力をこめて口にした。
「ただの人斬り、ごろつきの集まりじゃねぇか」
「そんなことないっすよ。つーか、先輩、昔っから新撰組嫌いっすよねー」
「そう云えばそうですよね。何でです?」
 剣道部なんかに入っていたのなら、割合好きな人が多いのに、と不思議そうに訊かれ、彼は不機嫌に眉を寄せた。
「人斬りなんてぇのは、最悪な人間どもじゃねぇか。好きになんぞなるもんかよ」
「でも、信念貫いたって云うじゃないすかー」
「信念もへったくれもねぇよ。人斬りは、人殺しだ」
 どんな事情があろうとも、その事実は消えはしないのだ。
「でも、憧れましたよ、新撰組って。中学の時かな、『燃えよ剣』とか読んで、自分もああなりたいって――剣道を真剣にやろうと思ったのって、やっぱりあれを読んでからだったような気がしますけどね」
「どうせなら、幕末に生まれて、剣客になりたかった、とか?」
「そこまで腕は上がらなかったけどね」
 と笑う男は、今はSEだ。
「俺は、剣道しか能がないから、あの頃に生まれてた方が良かったかなぁ」
 と云う後輩はプログラマーで、眼鏡の方の下で働いている。高校時代は、剣道が滅法強く、インターハイにもよく出場していた。
「でも、先輩だって、インハイまで行ったんだから、あの時代でもそこそこ行けたんじゃないんすか?」
「俺は、今で満足なんだよ」
 二流の大学をそこそこの成績で出て、中堅の会社で営業をして。出過ぎず、駄目すぎもせず、仕事は基本定時上がりでこなして――そこそこの収入と、そこそこの暮らし、それで充分満足なのだ。
 剣など、握らなくても。
 この時代ならば、平穏に生きていける。殺すことも、殺されることもない。殺すと決定を下すことも、殺せと命じることも。
「武士道だか何だか知らねぇが、俺は、今で充分満足してる。斬った張ったが日常なんて、まっぴらだな」
「およ、意外に平和主義で」
「うるせぇよ」
「ご機嫌斜めだなぁ」
 ――いいんだよ、この生活で。
 彼は、強く思う。
 今の時代で、戦うこともなく、血を流すこともない、この平穏な日常で。
 ――今なら、あんたを殺せと云わなくていいんだ。
 くすくすと笑う男を、ちらりと横目で見ながら、思う。
 ――お前に、殺してこいと命じることも。
 跳ね回る後輩を見て。
 ああ、そうだ、彼はこの平和がいとおしい。遥か昔、自分たちの戦った、その日々の続きとしてある、この日常が。
 剣を握り、血と屍で築いた鉄の組織を、ただ守るために汲々とすることもない。そのために、親しかった人を斬ることも――懐いていた人間に、それを斬れと命じることも。
 今が最良の時代ではないことはわかっていても、それでもそれは、何と云う幸福であることか。
「……ま、先輩が嫌いでも、俺は好きなんすよ、新撰組と、土方歳三が、ね」
 後輩が、云い聞かせるかのように云ってくる。にこりと笑う、その笑顔に、既視感を覚える。
 ああ、そうだ、これは昔、あの子供のような男がしたと同じ――
 もしかしたら、後輩はすべて知っているのかもしれないと、ふと思う。あの、子供のような男が、実は結構深くを知っていたように、あるいはもっと、何もかもを知っているのかもしれない。彼の後悔も、今を生きることへの喜びも、眼鏡の男を見るときに、ちくりと胸を刺す罪の意識と悔恨も。
「――そうかよ」
 だが、それを言葉にすることはできなかった。
 自分は、今は別の名で、今と云う時を生きていて。
 そうとも、あの男は、自分ではない――親友とも云うべき男を抹殺し、弟とも思った若者にそれを命じた、組織に身を捧げた“鬼”ではない――どれほどに、その記憶が生々しかろうとも。
 だから、短く応えを返す。
 後輩は、にっこりと笑った。
「そうっすよ。……いいじゃないすか、信念貫いたんでしょ、あの人。カッコいいって、皆思ってますって」
 まるで、かつての自分の生を、肯定するかのような、その笑顔。
「――ふん」
 何だかすこし面映い、そんな気持ちを悟られたくなくて、わざと鼻先で笑ってやる。
「まぁ、俺の知ったことじゃないさ」
 そうとも、自分には、今がすべてなのだ。
 この記憶が本物であろうとそうでなかろうと。
 もう二度と、自分は過ちをおかすまい。
 この苦い記憶を糧に、今ここにある小さな幸福を自ら手放し、後悔などせぬように――二度と、みちを過たぬように。
「ホントに、変なとこで真面目なんだからなぁ、もう、先輩ってば可愛い♥」
「――お前、本当に俺のこと、先輩だって思ってんのか?」
「やだなぁ、そんなの、決まってるじゃないすか!」
「この野郎!」
「だーから、お止しなさいってば!」
 駆け出す後輩を追いかけようとして。
「――あ」
 ほの明るい空から落ちる、白いものに気づく。
「あれ、雪だ」
「ホントだ、初雪っすね」
「道理で寒いと思った――天気予報、当たったね」
 後輩たちの声を聞きながら、舞い落ちるものを、掌で受ける。
 すこし乾いた白い結晶が、掌の熱でさらりと溶ける。
 京の湿った雪でも、蝦夷の大粒の雪でもない――21世紀の、東京に降る雪。
 そうとも、今の自分は、“新撰組の鬼の副長”ではない。ここは京でも蝦夷でもなく、かつて斬った友も、病身を置き去りにした弟分も、ともに生きて傍にある。
 この生は、あの戦いの日々と同じではない、それならば――
 この生では、もう決して過つまい。取れなかった手をずっと後悔していた、死ぬまでのあの日々を、もう二度と繰り返しはすまい。
 それこそが、今ひとたび、苦い記憶を与えられて生きる、己に課せられた義務なのだろうから。過ちの記憶を抱えて、今度こそ、この二人の手を離しはすまい。
「先輩、早く行きましょうよぅ」
「あぁ――ほら、行くぞ」
 苦い思いを噛みしめながら。
 彼は、笑って促し、記憶を深淵の底へと沈めた。


† † † † †


転生ネタ。
こんな風だったらなー、と云う気分で。


つぅか、ついうっかり元・副長の職種を営業にしたけど、それで定時上がりってどんな営業よ……女性の取引先向けonlyの、やる気のないだらだら社員なのか? たらして落とすのか? それはそれで凄いかもだけど。
……とりあえず、足の速さ(歩き時)と定時上がりとで、社内で伝説を作ってくれていると嬉しいな。
絶対総務とかの事務畑じゃないと思うのですが、どうでしょう。


もし、今、副長と総司と山南さんが生まれ変わってて、三人とも友だちだったら、と云う、それだけの話なんですが。山南さんだけ記憶がない、と。ある意味幸せなような、そうでもないような。
局長は――この副長は、局長嫌いだと思うんで(笑)。いても無視ですよ、多分ね。


これでおしまいですが、ラストが微妙だなぁ……
気が向いたらなおしますが。