北辺の星辰 3

 近藤が薩長に捕らわれた翌日の四月四日、歳三は、隊士たち七名と密かに江戸へ舞い戻り、勝海舟のもとを訪れた。
 勝は、幕府軍事取扱、云わば軍事方の最高責任者であり、現在は、将軍慶喜の命を受け、薩長方の責任者である西郷隆盛と、徳川家の扱いをめぐって交渉中の多忙な身であった。
 恭順派である勝が、今さら、新撰組などと云うお荷物にどれだけ助力をしてくれるものか――望みは極めて薄かったが、それでも、歳三に思いつく限りのつての中では、勝のそれがもっとも力のあるものだったのだ。
 訪ねていくと、勝は他出中だった。
 家人に無理を云って、歳三は通された部屋で、じっと坐ってかれの帰りを待った。
 暫時あって、きしりきしりと廊下が軋み、勝が帰ってきたのだと知れた。
 歳三は、深く頭を垂れて、その訪れを待った。
 障子が開いて、気配が部屋のうちへ入ってくる。
 と、足音は、止まると思った上座の位置ではなく、平伏する歳三のすぐ傍まできて、しゃがみこんできた。
「……えらくしおらしいじゃないかえ、土方」
 笑みを含んだ声が、すぐ傍で聞こえた。
 歳三は、ますます深く頭を垂れた。
「――もはや、おすがりできるのは、安房守様よりほかございませぬゆえ」
「おめぇさんにそんなもの云いされちゃあ、気色が悪くて仕方がねぇ。まずは顔を上げて、それからとっくり聞かせてもらおうじゃないかえ」
 云われて顔を上げると、勝の顔がすぐそばにあった。
 渋い、あるいは皮肉げな面持ちであるかと思いきや、その顔は、本当にやわらかい笑みを浮かべて、こちらを見つめていた。
「おめぇさんが、そんなしおらしくなるってこたぁ、よっぽどのこったろう。――近藤が、どうかしたか」
「……流山にて、昨日、薩長に捕らわれましてございます」
「……そりゃあ、一大事だ」
 勝の顔がわずかに歪む。心から、近藤の難を案じているかのように。
 その表情に、歳三は、気持ちが緩むのを感じ、あわてて気を引き締めた。不覚にも、涙ぐみそうになったからだ。
 ――こういう御仁を担げれば良かったんだ……
 流山での思いが、またじわりと深い肚の底から滲み出してくる。
 勝のような男を担げれば良かった、そうすれば、新撰組はまた今とは違うかたちで、幕府の治める世を支えていけただろうに。
 だが――同時にまた、歳三は思う。
 自分は、決して勝のような男を担ぐことはできまい。それには、己の器は小さすぎる。もっと度量の大きな男であったなら良かった。時流を見きわめ、的確にそれに対処し、またどのような人間も容れられる、そのような男であれば。
「――新撰組本隊は、伍長の安富と申すものが率いて、会津を目指しております。江戸には、私を含めて七名があるばかりでございます」
「あぁ、そりゃあ難儀だな。――で、俺んとこへ来たのは、近藤の助命嘆願のためか?」
「いえ……」
 首を振りかけ、歳三は思いなおす。
 今、近藤に死なれては――病で療養している沖田に済まないだけだろうと。
「……はい、難しいことと承知いたしてはおりますが。それから――できましたら、ただ今病の床にあります沖田総司に、何がしかご配慮戴きたく」
 もはや死を待つばかりの沖田を、薩長の手のものに暗殺されたりしたくはなかった。
 自分は、近藤と道を違えた――ならば、せめて、沖田の最期くらいは、何とか守って平穏なものにしてやりたかった。
「ふむん――土方、おめぇさん、その見返りに、何ができる?」
 勝の目が、すこし意地の悪い光をたたえて、こちらを見た。
 歳三は、言葉に詰まった。
「……何が、と申しましても……」
 歳三の今動かせる手下は、六人だけだ。六人で出来ることなど、あるわけがない。ましてそれが、軍事取扱・勝安房守の役に立つようなこととなれば。
 沈黙する歳三に、勝はにやりと笑いかけてきた。
「土方よ、おめぇさん、俺に生命を預ける気はあるかえ」
「生命を、でございますか」
 もちろん、そのことに否やはない。そもそも新撰組幕臣になったのだ。となれば、当然、軍事方のうちに入れられていることになる。それは、引いては勝の配下であると云うことだ。
「我らとて、幕臣にお取り立て戴いたからには、もとよりその所存でございますが」
「幕府に、ではなく、俺に、だぜ?」
「――それは、一体どのような……」
「実はな」
 勝は、その場に胡坐をかいて坐りこんだ。
「おめぇさんも知ってのとおり、鳥羽・伏見で敗走後、東下してきた兵どもが、脱走騒ぎをおこしてやがるのさ。衣食が足りねぇのと、俸禄がゆきとどかねぇのとで、仕方のねぇ部分ではあるんだが――問題は、これに同調する輩が、陸軍の士官の中に多くてな。俺ぁもともと海軍の出だ、正直、陸軍を掌握しきっているたぁ云い辛ぇ。どうしたもんかと頭ぁ悩ましてたとこだったんだが」
「それで、私にそれを取り締まれと?」
 歳三は、流石に眉を寄せた。
 もちろん、それはかつての新撰組の仕事と大差ないものではある。その仕事自体は構わないのだ。
 だが、相手は何と云っても将軍直参の兵たちだ。自分たちのような、百姓上がりのものどもに、取り締まられるのをよしとしないのではないだろうか?
 そう、疑問を口にすると、
「いやいや」
 勝は、笑って首を振った。
「そんな楽な話じゃねぇよ。――他言無用だがな、俺ぁ、じきに、江戸城薩長に引渡すことにしてるんだ」
「……それは」
 大変なことだ。
 いくら薩長の輩が錦の御旗を掲げているとは云え、それはまさしく、徳川幕府の敗北と云うことになるではないか。
 だが、そのような天下の一大事を、自分のようなものに打ち明けていいものなのだろうか。
 歳三の困惑を見透かしてか、勝はまた小さく笑った。
「だがな、俺ぁ、公方様を本当の敗残者にするつもりぁねぇんだよ。このまま、薩長の良いようにさせたかぁねぇんだ。だから、軍事方の兵力は、何とか残しておきてぇ。――だが、薩長の輩は、幕軍を解体しろと云ってくるだろう。それで、だ」
 にやり、と、目の前の顔が大きく歪む。
「土方よ、おめぇさん、陸軍を取りまとめて、奥州へ行かねぇか」
「奥州へ?」
「ああ」
 勝は頷いた。
「奥州は、会津をはじめとして、佐幕の藩が多い土地だ。そいつらを取りまとめて、そこに幕軍を合わせりゃあ、大した勢力になるだろう。こののち、公方様の処遇を定める段になったとき、幕軍が無事に生き残っていりゃあ、それが公方様をお守りする楯にも、剣にもなる。こちらに有利なかたちで、話が進められるってえもんだ。――既に、海軍は、軍艦奉行の榎本釜次郎に云い含めてあるが……陸軍は、どうにも心許なくてな。歩兵奉行の大鳥は、何と云うか、いまひとつ頼りねぇからなぁ」
「それで、私に陸軍の取りまとめをせよと?」
「あぁ」
 それは過分な言葉だと、歳三は思った。
 自分は所詮、多摩の百姓の小倅だ。武士の中の武士たる旗本・直参などの上に立てるものではない。
 だが――勝にここまで云われたなら、引き受けぬわけにはいくまいとも思った。かれにこのような言葉を貰ったことを、誇らしくさえ思った。
「……私で宜しければ、如何様にもお使いください。ただ――陸軍の方々は、私のような成上がりが上に立つことを、良しとされないのではありませんか」
「だがおめぇさん、鳥羽・伏見では結構なはたらきをしたそうじゃねぇか」
「散々な負け戦でございましたが」
「負けだろうが何だろうが、仕事を果たしたにゃあ違いねぇだろう。陸軍の連中の中じゃあ、おめぇさんはちょっとした英雄扱いさ。そのおめぇさんの指揮下になら、陸軍の連中も入るだろうよ」
「……過分なお言葉でございます」
 面映い思いで、歳三は勝の言葉を聞いた。
 もちろん、勝のような人間の褒め言葉を、額面どおりに受け取るほど、歳三とて愚かではない。
 だが、このような言葉で持ち上げてまで、陸軍を取りまとめよと云ってくる、かれのその本気に、そしてまた、そのような大役を自分に振り当ててくれたと云うそのことに、歳三は総身が震えるような思いで頭を垂れた。
「俺ぁなぁ、土方よ」
 勝は、ふと遠いまなざしになった。
「江戸を、いくさ場にしちまいたかぁねぇんだよ。俺の生まれは本所亀沢町だが、もしも江戸がいくさ場になりゃあ、あたり一帯火の海だ。――正直に云やあ、俺ぁ公方様のことよりも、江戸の町の方が心配なのさ。俺の親父は、旗本たぁ云え無役で、喧嘩ばかりが強ぇ、碌でねぇ男だった……だが、その親父のお蔭で、江戸の町人どものこたぁ、それなりに知ることができたのさ。俺ぁ、江戸の町が好きだ――だから、そこがいくさなんぞで焼け野っ原になっちまうところなんざ、見たかねぇ。おめぇに奥州に行けってぇのは、そんなつまらねぇことがもとなのさ」
「そのようなことなど」
 むしろ歳三にとっては、勝が、わずかでもそのように肚を割って話してくれたことの方が大きかった。
「どうぞ、存分にお使い下さいませ」
「あぁ、頼んだぜ。――近藤のことは、正直、助命の約束はできねぇが――できる限りのことはしよう。あの坊主のことは、任しときな」
 勝のもの云いに、歳三は思わず笑いをこぼした。
 新撰組随一の剣の遣い手、勤皇志士たちの間で怖れとともに名を呼ばれたあの青年を、勝は、近所の子供のように扱うのか。
 だが、確かに沖田には、ひとにそんな風に呼ばせる何かがあった。ひどく残酷なことも平気で云うくせに、いつも子供のような無邪気さがあった。
 だから勝も、ただの若者ではないと知りながら、沖田のことを子供のように扱ってしまうのだろう。何しろかれは、大坂で、沖田のする他愛もない話に、会議の刻限も忘れて笑い転げていたことがあったのだから。
 ――この人ならば、大丈夫だ。
 歳三は、安堵の気持ちで、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます――どうぞ、良しなにお願い致します」
「なぁに」
 勝は笑って、ひらひらと手を振った。
「おめぇさんの方が大変さ。――ともあれ、まずは榎本に会うがいい。大坂からの船ん中で、会ったことがあるんじゃねぇか?」
「……そう、だったかも知れませぬ」
 どうだっただろうか――会ったのかも知れぬ。そう云えば、近藤が船中で、「榎本さんと云うひとと会ったよ」と云っていたが――いや、たしかあれは、榎本対馬と聞いたように思う。
「会ってみりゃあわかるさ。――頼んだぜ、土方」
「は」
 勝の言葉に、歳三は、また深く頭を垂れた。


† † † † †


鬼の北海行、続き。(……と云いつつ、いつになったら北へ往くのだ、鬼よ……)


勝さん登場!
書きたかった、書きたかったわー!
勝さんって、どうもにこにこしてる印象しかないのです。平伏してたら、しゃがみこんで、自分も目線を下げてくれる感じ。でもって、すごくにこにこしてる感じなのですよ。あああ、わかるかな、この感じ! (注:にこにこしていますが、やさしいわけでは決してない)
新撰組関連の本とかだと、勝さんは、新撰組を追っ払っちゃいたかったから、甲陽鎮撫隊を結成させたとか書いてあったりしますが、いや、そんなケチな人じゃあないですよ、勝さんは!
多分、近藤さんとは合わなかったと思うけど、鬼とはそうでもなかったと思う。邪魔に思われてるのも知ってたとは思うけど、多分勝さんのことは好きだったと思いますよ。
坂本龍馬が、暗殺しに行って、逆に勝さんに感銘を受けて弟子入りしたってことですが、うん、わかるなそれ。すごい人だと思ってますよ。


……って、勝さん好きを曝け出しまくってますが、そもそも昔から勝さん好きだったんだよね――正確に云うと、勝さん父子を、だけど。
何故か勝さんのことを描いた学習漫画を持ってたことがあったり、子母澤寛の小説(『おとこ鷹』『親子鷹』『勝海舟』)を読んでたり。
勝さんのお父さんがまたいいキャラ(笑)で、子母澤小説だとホントにカッコいいんだ! 勝小吉、号を夢酔とおっしゃいますが、この父にしてこの子あり、って感じで、ホントにすごい。
……『夢酔独言』とか、読んでみるかな――面白そうだし。


しかし、「天パみたいなヘンな髪型した、偉そうなおっさん」って、沖田番よ……それはどうなのよ。


この項、終了。