神さまの左手 13
ミラノの市門を出、葡萄畑の中をとおって、その先へ。
すこし行くと、なだらかな丘陵に行きあたる。
この丘から見るミラノ一帯の風景はとても美しく、レオナルドは好んでここを訪れていた。
その上、この丘を駆け上がるように風が吹くことが多かったので、かつてこの凧をよく揚げていた時には、ここで揚げることが多かったのだった。
案の定、この日も風は、丘の下の方から吹き上げてきている。凧を揚げるには絶妙の風向きだった。
レオナルドは、サライに凧を支えさせ、自分は糸巻きを持って、凧糸を長くした。
「いいか、サライ、私が走って、糸がぴんと伸びたら、その凧を放すのだぞ」
そう云うと、子どもはやや面倒そうに、
「はいはい、わかってるって」
と云って、凧を構えた。
「では、いくぞ!」
と云うや、糸巻きを片手に、レオナルドは走り出す。
糸がぴんと張った、と思うや一瞬ののちには軽くなり、やがてそれは、風の抵抗を受けてレオナルドの走りを邪魔しようとした。
「飛べ!」
レオナルドは、負けじと足を速めたが――
「ちょ、レオ! 駄目、駄目だって!」
凧は風には乗り切れずに、その嘴で、地面をがこがこと啄んだ。
「うむっ、もう一度だ!」
そう云って、元の位置からまたはじめるが、
「わーっ、レオ、レオ、駄目だよ、止まれって!」
やはり凧は揚がることなく、嘴を土に塗れさせるばかり。
「うぅむ……」
風が足りない、わけでもないのに、この様は一体どうしたことだろうか。
――凧揚げの腕が落ちた、か?
確かに、もう何年も、この凧に触れてはいなかった。もっとも凧をよく揚げていたのは、まだかれがヴィンチ村にあった子どもの頃のことであったから、腕が落ちているとしても仕方がないことであるのかも知れぬ。
が、それにしても、このわずかなりとも風に乗らぬ、と云う事態は、なかなか情けないものがありはすまいか?
「よし、もう一度!」
と、糸巻きを手繰れば、
「止しなって!」
少年に止められた。
「あんた、ちっとも風読んでないじゃねぇか。寄こせよ、俺が揚げるから」
はい、と凧を渡され、かわりに糸巻きを奪われる。
むう、と黙りこんだレオナルドには構わず、サライは、糸を長く引いて、
「いくぜ!」
と云うなり駆けだした。
たたた、と軽い足取りでサライが丘を駆け下りてゆく。
糸がぴんと張った、と思った次の瞬間には、凧はレオナルドの手を離れ、ふわりと宙空に舞い上がった。
そのまま、凧は本物の鳥のように、高い空へと昇ってゆく。
「ほら見ろよ、レオ!」
勝ち誇ったようにサライが云う。
「ああ……」
レオナルドは、そのひごと薄布でできた“鳥”の飛翔を、半ば陶然としながら見上げていた。
「で、あんた何でそんな、凧揚げが好きなのさ?」
少年は、“鳥”を空高くに留めながら、そんなことを訊いてきた。
レオナルドは、思わず片眉を上げた。
「お前だって、こう云う遊びは嫌いではないのだろう?」
「そりゃそうだけどさ」
云いながら、少年は糸巻きを繰る。
「でも、こんなの、ガキの遊びだろ。いい歳したあんたが、夢中になるようなもんでもないと思うんだけど?」
問われて、レオナルドは答えに逡巡した。
きっと、この少年からでさえ、おかしなことを考えていると思われそうな「答え」だったからだ。
だが、答えなければ、この“小悪魔”は納得するまい。
「……私は、鳥が好きなのだ」
それで、レオナルドは渋々と答えを返した。
「鳥?」
案の定、少年は頓狂な声を上げた。
「そりゃわからないでもないけど、けど、何で鳥で凧なのさ? 全然違うだろ?」
「だが、鳥も凧も飛ぶだろう」
わずかにむっとして、レオナルドは云ってやった。
「鳥も凧も、風に乗って、人には辿りつけぬ高みへと飛ぶ。――私はな、鳥のように空を自由に飛びたいのだ。そのために、この凧が力になってくれることを知っているのだよ」
「凧が?」
「そうだ」
レオナルドは頷いた。
「人は、どうやっても鳥にはなれん。だが、例えば骨を組んで布を張り、鳥の翼のようなものを作って羽ばたけるようにすれば、空を飛べるようになるだろう。あるいは、羽ばたかずとも風に乗ることができれば、すくなくとも、鳥が羽根を広げて空を滑るように、我々も空を滑りゆくことができるだろう。そのために、こうやって凧を揚げてみるのだ、わかるか?」
鳥のように自由に飛ぶ、それは、子どものころからのレオナルドの夢だった。
教会の絵の中の天使たちも、おそらくは、かつて生きた人びとの、そのような心から生まれてきた姿だったのだろうが――レオナルドは、ただ羽根を持った“ひと”の姿を描くだけでは満足できなかったのだ。
鳥は、身体よりもはるかに大きな翼を持つ。それを動かすための、発達した筋肉も。
それを、人間の腕の筋肉で再現することは不可能だったが――しかし例えば、ただ滑空するだけであれば、凧の作りを参考に、どうにか成し遂げ得るのではないか。
そう思うからこそ、レオナルドは凧を揚げ、また鳥の羽ばたきを観察するのだ。いつか自分も、あのように空を飛ぶものになるのだと、それを強く念じながら。
「ふーん……」
少年は、わかったのだかわからないのだか、曖昧な生ぬるい返事を返してきただけだった。
が、かれはわずかに考えこむと、
「……じゃあ、俺も手伝ってやるよ」
と云ってきた。
「……うん?」
「だから! 俺も手伝うからさ、だから、一緒に空を飛ぼうぜ、レオ!」
「……こいつめ」
何と生意気な口をきくのだろうか、この“小悪魔”ときては。
だが、子どもであろうと何だろうと、自分の味方が一人でも増えたことは、ひどく心強くレオナルドには感じられた。
それでかれは、にやりと唇を歪め、左手を差し出した。
「では、宜しく頼むぞ、我が助手よ」
「もちろんでございます、マエストロ」
互いに顔を見合わせ、ぷっと吹き出して。
ここから、レオナルドと少年の、長きにわたる関係は、本当の意味ではじまったのだった。
† † † † †
ルネサンス話、続き。
凧の話。
最近またちまちまと先生関連の本が出てるので、うっかり買って読んでます、が。
個人的には、やっぱ下村寅太郎の著作が一番好きだなァ。っつーか、下村さんって、世間的お約束をちゃんと問い直す人で、研究者の間では自明のこととされてるあれやこれや、を再考しているのが嬉しい。
幕末もそうなんだけど、史料の真実らしさを、既に“自明のこと”とされていること優先で決めてしまわない(ヴァザーリの『ルネサンス画人伝』の記事もちゃんと疑ってみる)って云うのが、あるべき研究者の姿なんだと思うんだけどね。他人の言葉で語るものの愚を、先生だって云ってたじゃん。
「モナリザ」が、モンナ・リーザ・デル・ジョコンドの肖像だとか、鬼が最後までかっちゃんを盟友だと思ってたとか。そんなの、どうだか知れたもんでもない、っつーか、「モナリザ」に関しては、先生本人が“ヌムール公ジュリアーノの嘱託による、フィレンツェの婦人の肖像”って云ってたのになー、と思わずにはいられません。
ま、その辺のアレコレは、いずれちゃんと書くつもりなんだけど。
どのみち私にとっては、資料ってのは、自分が書くと決めたことの裏付けを取るためのものであって、盲信するものじゃあないからなー。
しかし、先生の関連書籍は、研究者個々人のカラーが色濃く出てて、そう云う意味では面白いですよ。あれ読むと、幕末関連書籍はイマイチつまんないよね……
ところで、本日てれ東でやってた「新説歴史ミステリー」とやら、番組表の“土方歳三”の文字に惹かれて見ちゃった(何と山南役も)のですが。
鬼が露西亜で生きていた!? はともかくとして、伊達の殿が実はハーフ、って……!
しかし、御東の方の夢に出てきた“白髯の老僧”が白人だったって――しかも“有髪の僧”って、そりゃ頭頂が禿げてたってことかい? で、白人……!
そっか、じゃ、やっぱ伊達の殿は、先生の生まれ変わりでOKだな(笑)。先生が、死後35年で日本まで(魂だけですが)やって来て、御東さんに「胎貸して」って云ったんだな、よし!
資料的に裏付け(笑)ができたぞ、ふふふふふ……
ところで、山南役が食いついていたのですが、“鴻池が土方のパトロンだった”ってさァ……ぱとろん……新撰組の、じゃないの? そこんとこどうなんでしょうか、鴻池さん……山南役のアヤしい妄想に加担するのはどうかと思いますぜ……
この項、終了。
さて次は、阿呆話か、その前にルネサンスの資料一覧か……