神さまの左手 30

「サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院の食堂に、壁画を描かぬか」
 年明けてすぐに、レオナルドは、イル・モーロから呼ばれ、そのように云われた。
「実は、前々から修道院長に、適任の画家を推してくれと云われていたのでな。むろん、例の“馬”の制作は進めつつ、と云うことなのだが――どうだ?」
 ――“馬”の鋳造が怪しいのだな。
 ぴんときたのは、このところ、フランスとの国境近辺の緊張感が高まっているようだと、宮中のおしゃべり雀たちが噂していたからだった。
 戦になるとなれば、銅像などを作るよりも、その銅で、たとえば大砲を鋳造した方が良い、と思うのは、イル・モーロの立場からすれば当然のことだっただろうが――だからと云って、レオナルドが納得できるかどうかは、また別の問題だった。
 そもそも、レオナルドは“馬”の鋳造をするために、ミラノに留まっていたと云っても過言ではなかった。
 “画家”とは云うが、レオナルドの仕事は絵を描くことだけではない。彫刻をし、建築をし、武器を作り、また鍋釜を直すことも“画家”の仕事だ。その中で、後世まで画家の名を残す仕事と云えば、やはり彫像を作り上げることだろう。
 そう云う意味では、建築もひとつのモヌメントではあるのだが、しかし、ミラノのドゥオモがそうであるように、建築物は、その監督をするものが存命中に出来上がるとは限らない。否、むしろその存命中に仕上がらずに、次の監督に引き継がれることの方が圧倒的に多いのだ。その建築の規模が大きければ大きいほど、その可能性は高くなる。
 そうである以上、一代でその名を轟かせるには、建築よりも彫刻を完成させる方が、遥かに容易いことであるのは自明のことだった。
 だが、
「……承知致しました」
 としか、レオナルドは云うことができなかった。許されなかった、と云っても良い。何故ならば、イル・モーロは、レオナルドにとって、唯一のパトロンであったのだから。
 イル・モーロにとっては、レオナルドは幾らでも替えのきく“画家”のひとりでしかなかっただろうが、レオナルドにとっては、イル・モーロは、かなりの勝手気ままを許してくれる得難い主であったのだ。
 そうである以上、どちらの方が力関係において勝っているかなど、云うまでもない。レオナルドの替えはいるが、イル・モーロの替えはないのだから。
「うむ、そうか」
 イル・モーロは、レオナルドの返答に、満足げに頷いた。
「では、さっそく取りかかるが良い。僧院長には話を通しておく。二つの壁に、磔刑図と最後の晩餐図だ。磔刑図には、儂と我が妻、子供らの姿も入れるのだぞ」
「承知致しました」
 従順なレオナルドの返答に、イル・モーロはまた頷いた。
 これで、“馬”の鋳造が取りやめになったとしても、レオナルドに契約違反を云々される可能性が減ったと考えているのだろう。
 レオナルドとしては、暴れ出したい気持ちでいっぱいだったが――しかし、それをぐっと堪えて、おとなしくイル・モーロの御前を退く。
 今日は、もう愛想笑いを浮かべて宮中に居続けたいとは思えなかったので、早々にスフォルツェコを辞し、工房でもなく、自宅へと戻る。
「あれ、レオ、おかえりー。ずいぶん早かったな?」
 かつて工房としていた一階の隅の長椅子から、サライが顔を上げて声をかけてくる。
 レオナルドは、そこへ無言で近づくと、逃げられないようにサライの脚の上に坐りこみ、その美しい巻き毛に手を突っこむや、苛立ちにまかせてぐしゃぐしゃと掻き回した。
「わ、何だよレオ、止せよ、止せってば!!」
 少年が死にそうな声を上げるのを聞いて、ようやっと息をつく。
「あーもう、何があったか知らねぇけど、苛つくたんびに俺の髪ぐしゃぐしゃにすんの止せよなー」
 涙目になりながら、サライが云う――が、本当のところ、髪が少々乱れたくらいで死にそうな声を出すと云うのは大袈裟に過ぎるはずなのだ。
 要するに、これは儀式的なものだ。レオナルドの苛立ちを受けたサライが、死にそうな声を出してみると云う――もっとも、少年に云わせると、髪を掻き回されるのは“死ぬほど”気持ちが悪いらしいのだが。
「……で? 何があったんだよ?」
 手櫛で髪を整えたサライが、顔を覗きこむようにして訊いてくる。
「……“馬”を」
「あ?」
「“馬”を作れなくなりそうなのだ」
「何でまた!」
 問われて、レオナルドは、イル・モーロに云われたことをサライに話して聞かせた。宮廷のおしゃべり雀たちの噂話をも。
「……はーん、で、あんた“やらねぇ!”って云わなかったの?」
「云えるか!」
 レオナルドとて、その程度の分はわきまえている。自分は宰相や将軍ではない、フランスの侵攻に備えるために銅を流用することを、止め立てすることなどできはしないのだ。
 否、そもそもイル・モーロは、その可能性を口にしもしなかった。
 君主が“ないこと”にしているフランスとの対立を、わざわざ口にして不興を買うほど、レオナルドも豪胆ではなかったのだ。そう云う意味ではかれもまた、小心翼々たる宮廷人のひとりに過ぎないのだ。
 その事実にレオナルドが歯噛みするしかないと云うのに、
「なら、とりあえず絵ぇ描けば?」
 少年は、しれっとした顔で、そのように云い出すのだ。
サライ!」
「や、だって、そのまんまぼんやり待ってたって、“馬”作れるかどうかわかんねぇんだろ? ……なら、ともかくも絵を立派に仕上げてさ、イル・モーロにもう一度“馬”を作りたくさせればいいんじゃねぇの?」
 ただ待ってるよりも、給金だって貰えるだろ? と云われ、レオナルドは渋々ながら頷くしかなかった。
 確かに、ここでぶつくさ文句を云っていたとて、“馬”が作れるようになるわけではないのだ。それどころか、文句を口にしたならば、せっかくの画家の仕事の方も、誰か別のものに回されてしまうかも知れない。
 確かに、それはいかにも拙いやり方だった。
「……結局は、絵を描くしかないのだな」
 “馬”の制作をただ待つのではなく。
「いいじゃん。――俺、あんたの絵が見たいな。いつもの小さい板絵じゃなく、壁いっぱいに描くんだろ? きっとすごいぜ、あんた天才だからな!」
 無邪気なほどにレオナルドの才能を信じる言葉を耳にしているうちに、レオナルドは、自分の怒りが馬鹿々々しく思えてきた。
 そうだ、“馬”とても、完全に制作が中止に追い込まれたわけではない。イル・モーロがはっきりフランスとの間の緊張を口にしたわけでない以上、状況はまだ流動的だと云うことだろう。そうであれば、まだ機会が失われたわけではない。
 だが、イル・モーロの命に背いたり、あるいはその面目を潰したりすれば、そのわずかに残った可能性すらも、跡形もなくなってしまうだろう。
 そうなるためには、結局のところ、素直に絵を描くより他にないのだ。
「……わかった、とにかく、絵に取りかかるとするさ」
 渋々と云ったレオナルドに、少年は、心底からの笑みを浮かべて、この肩を叩いてきた――頑張れと云うかのように。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
いよいよ「最後の晩餐」。


サライの髪を掻き回すのは、先生の苛ついた時の“儀式”ってことで。
私が、苛ついた時に沖田番を逆毛にする(←毛並みに逆らって撫でる)のと一緒ですねー。
別に何てこともないと思うんだけど、死にそうに厭がるよね、いっつもね。まァ、それ見ると溜飲下がる私もどうよなんですけどもね。


えーと、今回、久々にPenの“ダ・ヴィンチ全作品・全解剖。”('09.4/15号)を読み返してみたのですが。
例の“私は時機をわきまえております”って手紙は、どうやらこの年=1494年、だったのね。やっぱ、“馬”と引き換えの仕事だったんだな、「最後の晩餐」……
どうでもいいが、前の年=1493年の、“馬”のお披露目のあたりに、「この頃がたぶん人生の絶頂」って……何だ失礼だな! そんなに早く絶頂来てないよ! (多分) 先生の絶頂は、「最後の晩餐」完成時か、あるいはフィレンツェ帰還当初のはずだ――多分。


あ、文中の“モヌメント”は、イタリア語で“モニュメント”のこと。どうもいい日本語がなかった、けど、英語は使いたくなかったので、イタリア語をカタカナ表記にしちゃいました。
だって、ルネサンス期は英語なんてド田舎の言葉なんだし(フランスだってまだ田舎)、使っちゃいませんもん。ラテン語が一番いいんだけど、言葉として違いすぎちゃうとニュアンスがわかんないかなーと思って、とりあえず。
意味は通じますよ、ね?


あ、そうそう、国立新美術館でやってるオルセー美術館展、おかんと一緒にいってきました、が。
えーと、先生ってやっぱ天才だったんだねー(←って、何を今さら、ですか)。
や、今回、なかなか錚々たるラインナップがきてたのですが。
どうも、あんまり心が動かなかった――いや、そもそも印象派さほど好きじゃあないんですけどね。
中ではゴッホの「星降る夜」が好きかなーってカンジでしたが、何だろう、全体的に技巧に走っちゃってる感じがして、あんまりこう、感動した! とかなかったかも……
何かこう、私小説的な絵が多いと云うか(→“私”のウェイトがあまりにも重いと云うか)。“私”の見た“何か”なんだよね、普遍的な見え方じゃないと云うのかな。
凄いけど田山花袋taste、なゴッホと、未完成っぽいけどヘッセとかロレンスとか、的な先生と。好き好きの問題かも知れませんが、しかし、先生の方が凄かったような気はします……


ところで、気がついたこと。
聖武天皇って、37歳まで実母に会ったことなかったんだってね。
先生も41歳まで、ほぼ会ったことがないも同然だった、って考えると――いろいろ思うところは出てきますわねェ、ふふ……


この項、終了。
次は、(大方の予想どおり)観劇記で〜。