半色 六

「内裏を戦の場にするわけにはゆかぬ」
 と云う父の言葉に従って、重盛は、叔父である頼盛とともに出陣することになった。
 とは云え、三条殿に攻め寄せるわけではもちろんなく、敵をこちらに引きつけるため、六波羅の近隣に兵を散開させる、と云う布陣であったのだが。
「さてさて、敵は、思うように網にかかりますかな」
 頼盛は、寒さを堪えるように手をこすり合わせながら、そのように云ってきた。
 五歳上のこの叔父のことが、重盛は少々苦手だった。
 それは、この叔父の母である池禅尼――“祖父”忠盛の正妻である――が持つ、一門内での力の大きさのためでもあっただろう。
 池禅尼は、修理大夫であった藤原宗兼の娘であり、生家の繋がりで、美福門院、その娘である八条院とも親しくしていた。
 “武辺の粗忽者”たる父・清盛が、大宰大弐にまで昇進相かなったのも、半ば以上はこの池禅尼の力ゆえ――そのように云われるほどの人であり、忠盛亡き後も、平家一門の中にあって、隠然たる力を持ち続けていた。
 本来であれば、母親の家格から云って、父・清盛ではなく、この池禅尼の子が、平家氏長者を継ぐところであったのだろうが――父に歳の近かった家盛は若くして病死し、次子であった頼盛が未だ十七と若年であったため、氏長者の座は、父の手の内に転がりこむことになったのだった。
 父が嫡流となったため、頼盛は傍流のような扱いを受けることとなったのだが――しかし、池禅尼をはじめとする母方の縁故の力は無視し難いものがあり、その年齢差にも拘らず、父にとっては少々鬱陶しい相手でもあるようだった。
 重盛にとっても、この叔父はいささか煩わしい相手であった。
 何しろ、頼盛は、平家の武者と云うよりも公家に近しく、その立居振舞いもものの考え方も、平家本流とは些かならず異なっているようであったからだ。武張らぬ頼盛を、父などは少々軽く見るところもあったのだが、しかし、公卿などと親しいのは圧倒的に叔父の方であり、父のみならず重盛にとっても、その存在は羨望の的であった。
 それ故に、
「――網は、こちらがかけねばなりませぬ故」
 と、重盛の口調は、すこしばかり尖ったものとならざるを得ない。
 頼盛は、父よりも明確に、信頼一派の動静を掴んでいたのではなかったか――そのような疑念が、胸のうちから消えぬのだ。
 重盛などよりもよほど公卿に近しいこの叔父が、宮中の不穏な動きに気づかなかったなどとは考えられぬ。
 よもや叔父は、父の失態を誘うように、この一連の騒動を、黙って傍観していたのではなかったのか。
 だが、
「然様でございまするな」
 叔父は、こちらの胸中も知らぬげに、微笑んで馬首を返し、布陣先へと去ってゆく。
 ――苦手だ。
 と思う。
 平家一門として、動静をともにせねばならぬと云うのに、あの叔父は、どこか一門と距離をおいて、独自に動くようなところがあった。
 それは恐らく、母である池禅尼の心ゆえでもあっただろう。
 禅尼は、己の子ではなく、父が平家氏長者になったことを、内心では不満に思っているのではないか、と、重盛は常々考えていたのだ。
 もちろん、池禅尼にしても公家であったから、そのような心をあからさまに見せてきた、と云うわけではない。
 そう云うわけではないのだが――しかし、投げかけられる言葉の、向けられる表情の、その端々に滲む苦い毒が、重盛を徐々に侵してくるような気がしてならぬのだ。
 特に重盛は、父の子らのうちでは最年長で、頼盛との歳の差も五つしかない。当然、頼盛としても、重盛と己の昇進の差を気にしているはずだ――
 ――……違う。
 気にしているのは、重盛の方だ。重盛こそが、この五つ年長の叔父の存在をいつも気にしているのだ。独自に動くことの多いこの叔父が、いつか重盛を、平家一門を、苦境に陥れることになるのではないかと――
「……来たぞぉッ!!」
 と、彼方で、兵どもの叫ぶ声がした。
 そして、それを打ち消すかに轟く馬蹄の響き。
「来たか!」
 叫んで馬に打ちまたがると、雑兵を蹴散らして、現れたるは敵のつわものども。
 そのうちの、最前にある騎馬が、大音声で呼ばわった。
「そこにあるは、御大将と見ゆる。出できて一戦交えられい!」
 重盛は、馬の腹をかるく蹴り、前方へと進み出た。
「いかにも、我こそは桓武平家が裔、大宰大弐清盛が長子、遠江守重盛ぞ。かく云う汝は誰ぞ、名乗られい!」
「我こそは清和源氏九代の後胤、播磨守義朝が長子、鎌倉悪源太義平なり! 生年十五にして武蔵国大蔵の戦の大将として叔父・太刀帯先生義賢を討ちしよりこの方、度々の合戦に一度の不覚も取らず。年経て十九、ただ今見参せん!!」
 義平と名乗った武者に従うものどもが、わあっと鬨の声を上げた。
「悪源太、義平……!」
 その名ばかりは耳にしたことがある。
 播磨守義朝の長子にして、朝廷へ出仕せぬ無官のもの、父親と叔父が武蔵国の所領を争った折、叔父・義賢を討ち取った剛の者――その猛々しい振舞いによって“悪源太”と呼びならわされた、ではこれが、その男だと云うのか。
 ――一騎打ちとなれば、勝てぬ。
 重盛とて、これが初陣と云うわけではない。先の戦――保元の戦い――の折には、父とともに出陣し、そこそこの手柄は立てている。
 だが、重盛は所詮は都の武者、荒くれどもに交じって戦い、直に斬り結んだことなどなかったのだ。
 対する義平は、坂東の騒乱にもまれ、叔父をも手にかけた野武士同然の男、その力の差は歴然としているではないか。
 ――三十六計、逃げるにしかず、だ。
 逃げるは一時の恥ではあるが、死ねば恥云々の話ではなくなってしまう。
 そもそも、己が前に出て戦わずとも、駆り武者どもを押し出してやれば――昨今の武士の戦いは、大概がそのようなものだ――、それで構わぬはずではないか。
 重盛は、馬首を返し、後列へ下がろうとした。
 そこへ、
「!!!」
 飛来した一本の矢が、馬の首筋を貫いた。
 馬は、一声高く嘶いて、横倒しにどうと斃れた。
 重盛も大地に投げ出される。立ち上がろうとするが、大鎧の重さで、うまく立ち上がることができぬ。
「逃げられるな、遠江殿!」
 声に喜色を滲ませて、義平が馬を駆る。片手には抜き身の刃、雑兵をかき分けるように進む、その後ろから、つき従う騎馬の姿。
「己の弟が世話になったようだな――その借りも、今ここで返させてもらおうか!!」
 歯を剥き出すように笑う、叫ぶ、獰猛な声。
 ――馬鹿な……!!
 戦慄した。
 かの小冠者は、己の身にふりかかったことどもを、この兄に告げたと云うのか――それ故に、義平は、自分を狙うのだと?
 ――殺される……!!!
 実の叔父をも殺した男が、縁もゆかりもない、しかも弟に狼藉をはたらいた重盛などを、殺さずに放っておくとは思えなかった。
 逃げなければと思い、起き上がろうともがくが、鎧に動きをとられ、逃れられぬ。
「いざ、尋常に勝負!!」
 義平の振りかざす白刃が、重盛に襲いかかる。
「あなや!!!」
 もはやこれまで、と目を瞑った重盛は、
「……何!!」
 義平の驚愕の声に、目を上げた。
 と、ひょう、ひょうと弓鳴りの音が聞こえ、切羽の矢が幾本も、義平たちにむかって射掛けられる。
「ご無事か、遠江殿」
 と問いかけてくる声は、叔父・頼盛のものではないか。
「な、何ゆえこちらに……」
「こちらで騒ぎになっておるのを聞きましての」
 頼盛は、微笑みながら馬を下り、重盛を助け起こしてくれた。
「よもやと思うて参りましたらば、遠江殿が危難に遭うておられました故、加勢致さんと思いましたまで」
「……かたじけない」
 この叔父に頭を下げるのは業腹だったが、背に腹は変えられぬ。
「誰しも、油断はあるもの。お気に召さるな」
 かすかに笑んで、叔父は云うが――それは、重盛に油断があったと云うも同然ではないか。
 だが、仕方がない、確かに重盛には隙があった。義平の言葉と闘気とに我を忘れ、この場から逃げ出そうとしてしまったのだから。
「新手か!」
 義平の声は悔しげだった。
「已むを得ぬ、我らは寡兵ゆえに、ここは引こう。――どのみち、ここで派手にやり合うことのみが目的であれば、それは既に果たした故にな」
 そう云いながら、従うものたちに声をかける。
 返す声を聞いて、重盛は驚いた――義平の一行は、せいぜいが二〇騎と云うところ、自分の率いる兵どもの、何分の一であるだろうか。
「引くぞ!!」
「ま、待て!!」
 叫ぶ重盛に、今度は義平側から矢が射掛けられる。
遠江殿、己の遺恨は、いずれ改めて晴らさせてもらおうぞ。――その時まで、首を洗うて待っておるが良いさ!」
 吼えるように云うや、馬首を返し、義平は街路を下ってゆく。
「お、追え、追えェっ!!」
「およしなされ」
 叫ぶ重盛を、押しとどめたのは頼盛であった。
「彼奴めが云うておりましたろう、ここで派手にやり合うが目的、と。大方、この騒ぎで我らの目を引き付けているうちに、義朝らを無事都落ちさせるもくろみであったろう……となれば、深追いしたとて無益なこと。窮鼠猫を噛むの例えもございます、我らのなすべきは、まずはなしたかと」
 悠長な――と云いたくはあったのだが、口にすることはできなかった。
 何しろ重盛は、馬を斃され、危いところをこの叔父に助けられたのだ。大きな口など叩けるような筋合いではない。
「……さようでございまするな」
 唇を噛んで、そう云うより他にない。
 確かに、播磨守義朝や、総大将であるはずの参議・信頼の姿が見えなかった以上、義平の率いていたのは陽動の隊、つまりは囮の隊で遭ったに違いなく。義平が派手に動いてこちらを攪乱しているうちに、本隊であるところの義朝・信頼率いる一団は、ひそかに都を落ちていったのだろう。
 それがわかったところで、何の慰めにもなりはしなかった。
 己は無様を晒したのだ、それも、父と競い合う叔父・頼盛の目の前で。
 悔しい、と思うと同時に、先ほどの義平の言葉が耳朶に甦る。
 ――己の弟が世話になったな。……その遺恨は、いずれ改めて晴らす、それまで、首を洗うて待っておるが良い!
 背の筋を、じわりと恐怖が這い上がってくる。
 義平の“遺恨”――かれの弟、かの小冠者を引き裂いたと云う――それをあの男が晴らしにきた時に、重盛の生命は失われることになるのではないか。
 ――あの男ならば、やりかねぬ……
 実の叔父をも弑した、あの男であれば。
 重盛は、小さく念仏を唱え、義平がすみやかに捕縛されてくれるよう、胸中で神仏に祈念した。



 案の定、義朝ら一行は洛外にて合流したものらしく、取り逃がしたとの報告を父にしたのは重盛の他にもあったようだった。
 その際に、参議・信頼は、一行より脱落したものらしい。ほどなくして、仁和寺へ――恐らくは、院の御情けにすがろうとして――赴いたところを、父の手のものに捕縛されたのだった。
 信頼は、何やらくどくどと云い訳を並べ立てていたようだったが――それに耳を貸すような父では、無論なく。
 どころか、実際に鎧具足に身をかため、刃振りかざして指揮を執ったことを咎められて、遂に斬首の憂き目を見ることとなったのだ。
 そもそものことの発端は、信頼や高階・大江などの各家ののものたちが、信西入道一門の専横を憎み、これを退けようとしたところにあったのであり、実際に武力をもってこれを行ったのもまた信頼であったことから、すべての責を負うことになるのは避けられぬことではあったのだ。
 その上、信頼は、絶対にして侵すべからざる御方である当今を、三条殿に押しこめ奉り、それによって己が政の実権を握ろうと欲したのだ。
 そうである以上、申し開きなどは無意味なことで。
 それからほどなくして、信頼は鴨川の河原にて斬首に処せられたのだった。
 だが、信頼の最期などは、まだしもましなものであったのかも知れぬ。
 悲惨であったのは、播磨守義朝であった。
 かれは、東国を目指して落ちのびる途中、尾張国にて、かつての郎党、長田忠致のもとに身を寄せた。長子・義平とは別れ、嫡男・頼朝を見失い、怪我を負った次子・朝長を介錯してやって――わずかなものが供回りとしてあるだけの、哀れな様であったらしい。
 長田忠致は、義朝とその腹心である鎌田正清らを、にこやかに迎え入れたようだ。酒肴をもって歓待し――気を許した義朝が風呂に入ったところを、郎党など数名で斬り刻んで殺し、その首級をあげたのだった。腹心の鎌田正清も、反撃に出る暇もなく殺された。十二月二十九日、かの戦いからわずかに三日ののちのことであった。
 義朝の首はすみやかに京へ送られてき、父は、早速それを獄門にかけた。
 かの“悪源太”義平は、越前国にて捕縛され、京へ送られてきた。一月二十一日に処刑されたが、重盛は、その首すら見ることがないままだった。
 乱の罪人たちが捕縛され、また処刑されてゆく中で、十二月二十九日、臨時の除目がおこなわれた。
 重盛は遠江守から伊予守に、頼盛は三河守から尾張守に、それぞれ補任された。
 父は、官職こそ元の大宰大弐のままであったが、朝廷に仕える源氏をほぼ一掃した――残るは、多田源氏源頼政の一統のみ――ため、実質的に武門の棟梁となるに至った。
 一方、信西入道を排除したことによって、院の力は減退を余儀なくされた。
 それに伴い増長してきたのが、参議・惟方及び大納言・経宗の両名であった。
 このふたりは、正月六日、院が八条堀川の藤原顕長邸に御幸され、その桟敷より八条大路を見物されていたところを、板付けして視界を遮るの暴挙に出て、院を激怒させていた。翌二月二十日、父の手のものに捕らえられた惟方と経宗は、院の御面前にて責め苛まれ、挙句に、信西入道殺害のかどで遠流に処せられることになるのだが――
 ともあれ、年が明けて日が経つにつれ、宮中も何とはなしに落ち着きを取り戻してきていたのだった。
 この正月、重盛は除目――先だっての、恩賞としてのそれではなく、常のもの――に預かり、従四位下、左馬頭に昇進することとなった。
 叔父は、この度の除目にはあずかることなくあったので、一門のなかでの序列は、重盛が上となり、氏長者もいずれはこちらが継ぐことが確実と目されるようになった。
 邪魔な源氏は消え、平家は残った。そして、重盛の前途も洋々としている――そのように思われていたのだ。
 だが。
 ひとつの知らせが、その明るい前途に影を投げかけてきた。
 かの源氏の小冠者、三郎頼朝が、捕縛されたと云うのだ――しかも、叔父・頼盛の郎党である、平宗清と云う男に。



† † † † †


源平話、続き。
義平兄、登場! っても、今回だけですがね、出番……


えー、義平兄のモデル(って云うか)は、実は為次郎兄です。でもって、(名前しか出てきませんが)朝長兄のモデル的なアレは喜六兄です。鬼が佐殿。そう云う兄弟です。
なので、兄弟仲は、まァそんなカンジで察してください。
まァそもそも、朝長兄と仲がいいわけがないんだ、佐殿――元々は朝長兄が嫡男だったのを、あの辺で佐殿嫡男に変更してて(義朝パパがね)、その辺で、朝長兄の母方の実家・波多野家が、義朝パパから離れていっちゃったりしてるアレコレがありますので、子どもらもまァそんなもんでしょう。
義平兄は、そもそも嫡男になってない(そう云う意味では、三浦一族はあんまり家柄が宜しくない)ので、佐殿に含むところなんかなかったと思います――だから、佐殿伊豆配流の後も、義澄とか和田とかがご機嫌伺いに来たりしてたんだと思いますよ。


でもって、頼盛殿も登場。
こんなカンジの、公家っぽい人な印象です、頼盛殿。でもまァ、後々の行動とか見てると、清盛−重盛ラインに含むところはあったと思うので。
平治物語では、あんまり活躍してない頼盛殿ですが、今回は出張らせてみましたよ。
宮中に人脈のあるのは、実は清盛より頼盛殿の方だったらしく、この後も後白河に加担してみたり、いろいろ暗躍(?)なさいます。まァ、もうちょっと早く生まれてたら、こちらこそ平家の本流だったんだもんなー。含むところなんか死ぬほどあるよなー。っつーか、頼盛殿が平家氏長者だったら、その後の日本の歴史はかなり変わってたんじゃ? まだ暫く武士の世は来なかったのかもね、と云う気はします――それとも、源平の合戦なしに鎌倉時代だったか? どうでしょうね――でもまァ、平家は滅びてなかったかも知れませんね。
この方はまだ出張って戴きます。重盛虐めたれ〜。ふふふ。


ところで、ずっと北条義時が嫌いだったのですが。
聖徳太子に絡んで、蘇我蝦夷(入鹿ではなく)が上宮王家を滅ぼした件で、沖田番の「山背大兄王が、太子にまったく及ばなかったからじゃないんですかねェ?」と云ったのから、ちょっとアレコレ。
もしかして、義時も、頼家が佐殿にまったく及ばなかったから殺しちゃったのか? 実くんは、まだしも(政治差配能力的に)佐殿に近いものがあったからOKだったのか?
っつーか、蝦夷も義時も、そんなに太子&佐殿が好きだったのか――後継者の不甲斐なさが許せないほどに。
そう思うと、愛い奴め、なのか、な? あんまり愛くないような気がするけどな……
まァ、そのうち、蝦夷か義時かで、その辺のSSでも書いてみたいと思いますが。……やっぱ、あんま可愛くはないなァ……


さてさて、この項終了。
次は――四郎たんの話、でいいかしら……