北辺の星辰 60

 五稜郭の庁舎で歳三に割り当てられていたのは、かつては公事方の詰めていた部屋であった。白洲に近く、“陸海軍裁判所頭取”の職には相応しいと云うべきかも知れなかった。
 いつもならば、その部屋には、陸軍奉行添役たる安富才助や相馬主計などが詰めているのだが、相馬は足の負傷が癒えずに職務を外れており、安富は二人分の仕事を抱えて走り回っているのか、この時は姿が見えなかった。
「――して、ご用向きは如何様なものでございましょうか」
 松木は、どこか商人にも通じるような、こちらの懐具合を窺うまなざしで問いかけてきた。
 松木は、白い餅の上に、墨で簡単に目鼻を書き入れたような顔――但し、こう云っては何だが、およそ商人に見えるような福々しさはない――で、やや小さな目も薄い唇も、笑顔であるのに笑みを含んでいるように見えはしない。外国船に乗り込む“通詞”が、言葉を通訳する他にどのような職務を持っているのかはわからぬが、こと松木ひとりに限ってみれば、言葉を通じさせることの他に、政治的な交渉――たとえば、“新政府”側と諸外国の領事たちの間を取り持つような――をも担っているのだろうと思われた。
「……アルビオン号には、小笠原壱岐守様や板倉周防守様、松平越中守様がお乗りになりましょう。――同じ船に、まだひとりばかり乗せて戴く余裕はおありか」
 歳三の言葉に、松木は驚いたような表情になった。
「まだひとり、とは、よもや……」
「いやいや、私を乗せてくれと云うのではございませぬよ」
 流石に苦笑して、歳三は手を振った。
 それこそ“よもや”だ。
 “陸軍奉行並”である歳三が、この土壇場になって箱館から逃れるなど、――確かに、士気を下げる役には立つだろうが――戦い抜いた上で幕軍を敗北させる、と云う最終的な目的を達する“ため”にはならぬだろう。
「では、一体どなたを……」
「子どもをひとり、乗せて戴きたいのですよ」
「子ども……?」
 松木は不審げな面持ちになった。
「そう、子どもです」
 歳三の小姓である市村鉄之助を、箱館から脱出させようと思ったのだ。
 前々から、新撰組隊士中でも年若いものたち――市村鉄之助、玉置良蔵、田村銀之助の三名――については、いずれ自分の手許から出して、安全な場所にやろうと考えていた。残念ながら、玉置は労咳で没したが、田村は総裁・榎本付の小姓となり、第一線を外れていった。すくなくともかれは、榎本の傍にある以上、終戦の時までを生き延びることができるに違いない。
 だが、市村は――何と云おうか、子どもらしい生真面目さの故に歳三の傍を離れようとはせず、今後の戦いの中でもそうであるとなれば、早晩生命を失うことにもなりかねぬ、と危惧していたのだ。
 自分が死ぬのは、既に歳三の中では折込済のことであったのだが、まだ年若い市村や田村の生命までをも散らせるのは、新撰組の統括者として、と云うよりも一個の大人として、許しがたく思えたのだ。
「……私の小姓に市村鉄之助と云うものがおりまして――乗せて戴きたいのは、この市村なのですよ。これから南軍が攻め寄せてくるとなれば、私の傍にあっては生命も危うくなりますので、用事を申し付けて、箱館から出してしまいたいと考えているのでございます」
「なるほど、それは確かに気がかりでございましょうな」
 松木は、得心したと云うように頷いた――が、そのまなざしは猶も鋭く、歳三の云う様に裏がないかどうか、見定めようとしているようだ。
「ええ。それで、私の実家へ使いにやろうかと。……確か、アルビオン号は、横濱へ入港するのだとか。私の実家は武州多摩でございますれば、横濱まで、市村を乗せていっては下さいませぬか」
「……難しゅうございますな」
「無論、無賃で、とは申しませぬが」
「いえ、そうではなく――お聞き及びではございませぬか、江戸界隈では、昨今新政府による佐幕浪士狩りが横行しておりまして……幕府方で戦ったと知れれば、一刀の下に斬り捨てられることもあるのだとか。そのようなところに、稚いお小姓を独りで放り出しては、みすみす生命を奪られることにもなりは致しますまいか」
「……それは」
 江戸表がそのようなことになっているとは、歳三も思いもしなかった。
 だが確かに、かつて薩長の勤皇志士たちが京洛を跋扈していた折、新撰組の名は、かれらの間で戦慄とともに語られていたはずだ。
 そのかれらが天下を獲った今、かつての仇敵であった“新撰組”の名を聞けば、友や同志の仇をとらんと、かつての隊士たちに襲いかからぬとも限るまい。
 練磨の戦士であったものならともかく、市村は戦場に出るようになって間もないのだ。もしも市村が、そのような輩と遭遇したとなれば――確かに、生命を失うことにもなりかねなかった。
 それでも、
「……市村をここに残すよりは、生き残る可能性はございますので」
 箱館を離れさえすれば、歳三の傍を離れさえすれば、市村は生き残れるやも知れぬのだ。たとえば、何か命を――そう、日野の佐藤彦五郎のところにでも、使いに出せば良い――与え、それを果たすことを約させれば、市村は生きるだろう。但し、命を課すにはひどく難儀するだろうことは、想像に難くなかったのだが。
 生きてさえいれば――と、歳三は思う。
 生きてさえいれば、かれはまた何かを生のうちに見出し、次の人生に歩みだすこともできるだろう。
 市村のみではない、島田も相馬も安富も、今、幕軍にあるものたちは皆、そうやって新しい生を生きることができるはずなのだ。
 そのためには、早く切り離さねばならない――幕軍から、新撰組から、何よりも歳三から。
「……わかりました」
 ながい沈黙の後、松木は遂に頷いた。
「そこまでおっしゃるのでしたら、お引き受けいたしましょう。但し――子どもがひとり、やっと乗れるだろうと云うだけでございますよ」
 念を押され、歳三は一も二もなく頷いた。
「勿論でございます」
 一途に過ぎる市村が、何よりも気がかりだった。大人は、理を説けば納得することもあるだろうが、子どもは自分の理屈で生きているところがある。歳三がどれほど言葉を尽くしたとて、納得するかどうかは心許なかった。
 それ故に、
「……では、お手数おかけ致しますが、宜しくお願い致します。それと、お手間ついでと申しては何ですが、市村を引き取りに来て戴けますでしょうか。私は、三日後には出立しなければなりませぬので……」
「九日でございますな。そう致しますと、八日の日に伺うのが宜しいでしょうか」
「お願い致します」
 歳三が深く深く頭を下げるのへ、松木は押し留めるようなしぐさをした。
「お止め下さい、そのような……私としても、あたら若い生命を、無駄に散らせたくはないと云うだけのことでございますから……」
「ですが……」
 “新政府”軍とも通じているこの男が、幕軍の兵士を預かって密航させる、と云うのは、危ない橋を渡るに等しいだろう。
「私が決めたことでございますので」
「……かたじけない」
 そうとしか、返すことができなかった。
 二日後。
 二日の後までに、市村を説得して、蝦夷地を去る準備をさせねばなるまい。
 だが、あの一途な子どものことだ、早目早目に説得しようとしたとて、そうそう簡単に頷くとも思われぬ。
 ――いっそ、ぎりぎりまで黙っておくか……
 そうして、松木が来たところで強引に引き渡してしまえば、抗えぬのではないか。
 ――よし、それでいこう。
 歳三は心に決めて、市村へ課す命をひねり出すことにした。


† † † † †


鬼の北海行、続き。
何と、60章目……!


さてさて、松木さんの顔の描写はしてみましたが――どうですかね、想像つきますか? 私の頭の中にある映像を見せられるんなら見せたいのですが――脳が繋がってそうな沖田番との間でも無理ですからねェ、ご覧になってる皆様にまでは、とてもとても……(あ、沖田番も、松木さんの顔はわかる、と云うか一致してますよ)


しかしまァ……何だ60章って。
っつーか、この話、確か70章くらいとか(割と最近まで)云ってたのに……! あと10章で一本木関門って、できるのか……いや、でも多分次が鉄ちゃん追い出し大会だし、二股口は宮古湾ほど長くはならない(書き難さ度が低い)から、うまくすればあと10章でいける、か……
断言しない方が無難だな……


えーとえーと、空海関連、当の空海が大変残念なことになってきてます……
まァ、例のタイムラインにのった段階で、夢を見るのは止めるべきだったんだな、と、今さらながらに痛感しております。かなり残念な空海。ほもは持ち込んでないけどね。
とりあえず、逸勢≒みけらにょろ視点で、残念な空海の話とか書ければいいなァ。や、空海視点の話とかも考えて、かつ書き出してはいるのですが、逸勢……愛い奴め。
逸勢、御霊神社に祀られてるそうですが、みけと同じ気質と考えると、あんま御霊化しなさそうなカンジが致します。や、ぐあぁぁとその場で叫んで、ある程度すっきりしちゃいそうなので。何かこう、不満はいつもあるんだけど、その都度吐き出してて、いつもがなってるのは不満の種が次々にあらわれるから、って気がしてならないのですが。
でもって、多分最初にちょっかいをかけたのは空海の方だと思います――鬼が中島三郎助さんにちょっかいかけたみたいなフィーリング。ああ云う、頭はすごいいいけど気難しいタイプ、好きそうだもんなァ、ねェ?


この項、とりあえず終了。長いなァ……
えー、次は源平話、重盛篇Final!