奇しき蓮華の台にて 〜青〜 前篇

男×男の性的描写シーンが出てきます。閲覧の際は、自己責任でお願い致します。


 何故、このようなことになった。
 自問するが、答えはない。
 何故、このようなことに。
阿闍梨、いかがでございますか」
 ――答えられるか……ッ!
 唇を開けば、はしたない声がこぼれてしまうと云うのに、答える言葉など。
 床に敷き広げられた袈裟を掴み、法衣の袖を噛む。
「可愛らしいことをなさる」
 云いながら、触れてくる指先が胸許を這う。濡れた唇が、舌先が、弄るようにそこかしこをかすめる。
「……阿闍梨
 いかがでございますか?
 問いかけとともに、指が、はりつめたものに触れ。
「――……ッ!!」
 快楽の極みが訪れる。
 長い絶頂。
 白と化した思考が、ふたたび色を取り戻した時、含み笑う声が聞こえた。
「いかがでございます、“大楽”の境地はおわかりになりましたか」
 ――“大楽”の境地をご存知でございますか?
 この男はそう云って、袈裟の紐を解いてきたのだ。
「……わか、るか……ッァ!!」
 呼吸を整える間もなく、指先が身体の奥へと入りこんでくる。
「ァ、やめ……いや、だ、たい…はんッ……!」
 袖を噛むこともままならず、猥りがわしい声がこぼれ出る。
「私におすがりになれば宜しいのに」
 そう云われ、腕をその肩に導かれる。
「爪をお立てになれば宜しいのに――阿闍梨、これが理趣経の本意でございましょう」
「ぅ――……ッ!!」
 必死で声を噛み殺す。
 隣室には誰もいないとは云え、さして大きくもない僧房のこと、すこしでも大きな声を上げれば、向こうから、弟子たちが聞きつけてやってこないとも限らないのだ。
阿闍梨
 甘い声。
「宜しいですか」
 何が、と訊くいとまもなかった。
「……ヒッ!!」
 楔が、下肢の間を引き裂いてゆく。
 あまりのことに、闇雲に暴れた。
「や…いや…だ、いや……!!」
 右と左に裂かれるかのよう。巨大な灼熱の楔が埋めこまれ、身体をふたつに割り裂いてゆく。
 逃げようとするのに、二つのかいなが、この身を戒めて離さない。
 喉をただ喘がせて、身悶えるしかない。
 やがて、
「……いかがでございます、すっかり入りました」
 引きつる身体を抱えるように、すこし荒い息づかいとともに、声が落ちてくる。
 ――妙適清浄句是菩薩位
 ふと、脳裏に経の一節が浮かんだ。理趣経の大楽の法門、十七清浄句のひとつである。
「なれましたか」
 次の瞬間、引きずり落とされるような感覚、の後に、
「……ひィッ!!」
 深々と突き上げられ、思わず声をこぼす。
 落ち、上り、落ち、上り、――
 ――欲箭清浄句是菩薩位
 熱い指先が、汗に濡れた肌の上を、ぬめるように滑る。
 ――觸清浄句是菩薩位
「……阿闍梨
 突き立てられた箭の激しい動きに、とりすがる腕に力をこめて、相手を止めようとする。が、翻弄されるばかりで、その意を果たすに至らない。
まるで、相手を抱きしめてでもいるかのような。
 ――愛縛清浄句是菩薩位
阿闍梨
 揺さぶられ、接吻けられて、今度は触れられもせずに達する。
「――……ァ――……ッ……!!」
 長い、長い失墜。先刻よりもずっと。
 ――適悦清浄句是菩薩位
 そして、虚脱がくる。
 身体から力を抜こうとして、その奥に、未だ箭の突き立ったままであることに気づかされる。萎えた、と思っていたそれが、ふたたび勁さを取り戻してゆくことに、戦慄しながら、昂ぶる身体は応えるように熱を帯びてゆく。
「――まだまだ、これからにございますよ」
 十七清浄句のすべてを味わうことになるのだろうか――囁く声に身震いする。
 だが、それも瞬くほどのこと。
 意識は、更なる嵐の中へと引きずりこまれていった。



 初めて泰範とまみえたのは、空海が三十九の歳の十二月のことだった。
 叡山の座主・最澄胎蔵界灌頂の場に、当時近江あたりの自坊に引きこもっていたらしいかれが現れたのだ。
 その姿を見た最澄の喜びようは、ひととおりではなかった――何しろ最澄は、その前月の金剛界灌頂の折にも、臨席するよう泰範に文を送っていたらしいのだが、結局かれは現れなかったと云うことがあったからだ。
 泰範の手を握り、涙を流さんばかりの最澄の姿に、やや鼻白む思いがわき起こらぬではなかったが――しかし、泰範その人の貌を見た瞬間に、何とはなしに腑に落ちるところはあった。
 ――なるほど、美しい貌をしているな。
 仏のごとき清浄な美しさではなく、どこか野のにおいのする、つよいまなざしが印象に残る貌だ。あまり僧侶らしからぬ、艶めいた空気をまとっている。僧衣と袈裟をつけた身体も均整がとれたもので、なるほど、男ばかりの僧伽にあって、そのような意味で目を引く男であるかと思われる。
 ――ふん、最澄も意外に、
 俗人だ、と思った。
 この美しい男に再会したことを、あれほどまでに喜ぶと云うのは、つまり最澄が、泰範を愛している――そこに肉欲が介在するのかは知らぬが――と云うことではないか。
 桓武帝の内供奉であり、その信任も篤かった最澄も、結局のところはただ人ではないか――そのような気分でかれら二人の再会の姿を眺めていると、ふと、泰範がこちらに気づき、にこりと微笑みかけてきた。
 ――なるほど、確かに美しい。
 笑み返しながら、もう一度思う。
 ――この男のようであったなら。
 たとえば、宮中の高位のものを籠絡するのに良かっただろうか、と思いかけて、首を振る。
 過ぎたる美貌は、他人の嫉妬を煽りかねぬ。自分は、美貌ではないが、特段醜いわけでもない、公卿や官人からも概ね好意を得られるほどの顔だちであれば、それ以上のものは必要ない。
 他人より優れてあると云うのは、ひどく困難なことだ。それは、万人を圧倒するほどの力を持っていたとしても同じこと、至らぬと思えばこそ、人は、その相手に激しく嫉妬する。かなわぬと思えばこそ、なおさらに。
 空海は既に、今上の心を得て、充分以上に力を持った。これ以上のものは、不要であるどころか、身の破滅の元ともなりかねぬ。
 ――自分は、これで良い。
 今は好意を示してくれる奈良の大寺の僧たちも、もしも空海が泰範のような美貌の主であったなら、果たして助力してくれたものかどうか。奈良の僧伽は、玄纊や道鏡のような妖僧怪僧を輩出していた。かつて桓武帝がみやこを山背国へ移そうと考えたのは、そのような輩をはき出した奈良の僧伽を憎んだゆえのこと――もっとも、桓武帝にそのようなことを吹きこんだのは、道鏡らの出現によって己が権勢を脅かされた藤原氏でもあっただろうが――と思われた。
 むろん、今上の寵を一身に受ける空海とても、かれらの轍を踏むつもりはなかった。特にかれの母方の阿刀氏は、玄纊の氏族でもある。他へ出自を名乗る時には“讃岐佐伯氏”と云うようにしてはいるが、しかし、空海の傍にあって俗別当をしてくれている叔父――血縁としては父の実弟であるのだが、母の妹と一緒になり、阿刀氏を継いだのだ――は、かつて今上の異母弟であった伊予親王の侍講を務めていた。阿刀大足と云う名の叔父は、伊予親王が突如として先帝――伊予親王にとっては異母兄であり、今上の同母兄でもある――の不興を被り、生母ともども毒を仰いで果てた事件で、宮中を去らざるを得なかったのだ。その頃、空海は帰国して一年余りしか経っていなかったのだが、叔父に頼られ、住寺に住まわせることになったのだった。
 寺に住する以上、叔父とても剃髪して僧形につくり、永真と名乗ってはいる。だが、叔父がその職を追われたのは、十年ほど前のことであり、宮中にはまだまだ知己も残っているだろう。かれらは、叔父の俗名と、今上の寵を一身に受ける空海の存在とを並べてみて、かの玄纊のことを想起しはしないだろうか?
 ――慎重にせねばならぬ。
 自分の望みは俗世の権に非ず、己のもたらした密教をこの国に広く知らしめるのみであると、ことあるごとに示さねばならぬ。
 さもなければ、空海は、朝廷にて権を争うものたちの群れ――それは主に藤原氏であっただろうが――に、引き裂かれてしまうことになるやも知れぬのだ。
 とは云え、この国で寺院と云うものは、半ば以上は官寺であったから、布教するとなれば、どうしても官に、権威に近づかざるを得ぬ。近づいても近づき過ぎぬよう、綱渡りをするかのような慎重さを持たねばなるまい。
 そのためには、下手に宮廷に近づくよりも、奈良の僧伽――僧綱所を持ち、官寺のほとんどを掌握する――とよしみを通じていた方が良い。
 そして、奈良の僧伽とよしみを通じるためには、かれらと対立すること甚だしい最澄とは、距離を置くことが望ましいのだ、が。
 ――いまの自分があるのは、半ばまでは最澄のお蔭、とも云えるからな。
 空海の「請来目録」を目にした最澄が、その経典などに興味を示したが故に、朝廷も、また奈良の僧伽も、かれを高く評価したのだと云っても過言ではないのだ。
 そうである以上――そしてまた、最澄が駕を枉げて密教を学びたいと云ってきている以上、空海には、それを退けることなどできはしないのだ。
 ただ、気になるのは、最澄が経を読み、それによって密を知ろうとしていることだったのだが――最澄も多忙であり、またまだ密の世界に入りかけであることを考えれば、頭ごなしに批判することも躊躇われた。
 ――まぁ、それとなく窘めてやりながら、追々面授まで持っていけば良いだろう。
 あまりことを急いても、却ってし損ずることにもなりかねぬのだ。
 ともかくも、その日の灌頂は無事に終わり、最澄は、弟子たちを率いて叡山へと帰っていった。
 だが、泰範のみはそれに従わず、どころか、自坊へ帰るでもなく、高雄山寺に居ついてしまったのだ。
 ――最澄殿の許へ戻らなくとも良いのか。
 と問えば、にこりと笑って、
 ――私は、既に師に暇を請うておりますので。
 と答えてくる。
 だが、最澄のあの様子は、暇乞いを受け入れているようには、とても見えはしなかった。
 ――……待っておられように。
 と云うと、無言で微笑む。それ以上は云うなというように。
 ――……まぁ、良い。
 空海としては、それで最澄に怒鳴りこまれるような事態にさえならなければ良いのだ。最澄と泰範の間にあるものなど、二人の間で始末をつけてくれれば良い。とばっちりは御免被る。
 やや暫くあって、叡山の最澄から高雄山寺の三綱――寺務を司り、今は空海の弟子の実慧などが務めている――宛の書状が届けられた。年明けて、正月十九日のことである。
 書状の内容は、かつて最澄が和気広世からもらい受けた厨子を泰範に使わせてほしいと云うことと、高雄山寺の北院については、以後も自分の所有であることを認めるよう、またそのために、北院の建具や木材などを処分せずに保管してくれるよう、そのように要求してきたのである。
 ――別に、私はこの寺を我がものにしようと考えているわけではないのだが。
 実慧から話を聞いて、浮かんだのはそのようなことであった。
 そもそも、ここは和気氏の私寺であり、今の主は和気真綱――広世の弟である――なのだ。そうである以上、真綱がその気になれば、空海がどう足掻こうとも居座り続けることなど出来はしないのだが、
 ――最澄殿は、そのあたりのこともお忘れか。
 まぁ、今のところ、空海の後ろには奈良の僧綱がある。空海の住寺を高雄山寺に指定したのも僧綱であり、またかつかつの高雄山寺に多少なりとも金銭を回してくれているのも僧綱であった――お蔭で、名のみとは云え、東大寺別当を務める羽目にもなったのだが。
 おそらく最澄は、自分の拠点であるはずの場所を、空海――ひいては、その後ろにある、最澄と対立甚だしい奈良の僧綱――が奪おうとしている、と考えているのだろう。
 ――馬鹿々々しい話だ。
 自分などは、僧綱の勤操や永忠、護命の傀儡のようなもので、かれらが諾と云わなければ、高雄山寺以外の寺に住むこともできぬと云うのに――最澄は、叡山に自身の寺、しかも官寺の扱いの定額寺を構えているではないか。
 ともかくも、最澄が三綱に宛てて正式に申し入れてきている以上、こちらもそれに返答せねばならぬ。
 空海は、実慧に云って、申し入れを承る旨、最澄に返書を出させた。
 泰範は、元の師のこのようなふるまいを、さらりと受け流したようだった。
 ――最澄師も、私のことなど放っておかれれば宜しいのに。
 やや困惑したような面持ちで厨子を受けて、泰範はそのように云った。
 ――最澄殿は、お前のことをひどく気にかけておられるようではないか。
 ――気の迷いを発しておられるのでございますよ。
 ――であれば良いのだがな。
 それに巻き込まれるのは御免だ、と暗に云ってやるが、泰範はにこりと笑っただけだった。
 ――阿闍梨にご迷惑はおかけ致しませぬ。
 ――……そう願うておるよ。
 実際に泰範は、最澄とのことどもを、空海に持ちこんではこなかった。
 かれは、その麗しい顔貌からは意外なことに、山歩きの行や僧房の補修など、身体を使うことを好んでおり、禅定や写経などの坐してする行を好まぬようであった。
 ――筆授のお好きな最澄殿の弟子にしては、意外なことよな。
 やや皮肉をこめて云ってやるが、泰範は澄ました顔で、
 ――ええ、それ故に、叡山でははぐれ者でございまして。
 などと云う。
 ――そうではあるまい。
 と思った。
 灌頂の折に見た最澄の執着ぶりからすれば、おそらく泰範は、“最澄の想いもの”であるが故に妬まれ、叡山のうちではぐれていたのだろう。僧伽――特に、叡山のように新しい教学を唱える座主のある僧伽――では、座主こそが皆の慕う相手となる。その座主である最澄から、あれほどの――空海が見れば鼻白むほどの――恋着を示されるものがあれば、かれは一山すべてを敵に回すほどの、激しい嫉妬の的となるに違いない。
 泰範が去り、叡山の僧伽は安堵しているのだろうか――おそらくはそうなのだろう。師の寵愛を一身に受けたものが、自分たちの――そして師の――目の前から消えたのだ、安堵せぬわけはない。たとえ、師の心が、未だ泰範の上にあるのだとしても。
 最澄の心が泰範から去っていない証拠に、かれはしばしば泰範宛てに書状をよこし、また、自分の代わりにと云いながら、叡山から高弟の円澄を空海の弟子として送りいれてきた。
 円澄を推す文に、“あわせて泰範のこともお願い申し上げる”との文言が書かれていたが、空海から見ればその文は、“泰範は自分の弟子である”との念押しとしか思われなかった。
 円澄にも、そのあたりの最澄の存念は、よくよく云い含められていたに違いない。かれは――最澄のために――よく空海に師事していたが、同時にそのまなざしはしばしば泰範に注がれ、己の弟弟子の一挙手一投足を、じっと観察し続けているようだった。
 ――……どうも、落ちつかぬな。
 最澄は、叡山のごたごたを高雄山寺に持ちこんでいる、と思いながら呟くと、弟子の実慧が笑いをこぼした。
 ――泰範和尚のせいでございましょう。
 どきりとした。
 弟子たちは、最澄と泰範のただならぬ間柄に気づいてはいないと思っていたのだが――よもや?
 ――……何故、そう思う?
 素知らぬふりで問いかけると、実慧はまたくつくつと笑った。
 ――それは……泰範和尚が、何と申しましょうか、艶めいておられます故……みかどのお使いの方やら真綱殿の家人やらが、みな一様に泰範和尚を見ては、呆と致しておりますよ。
 ――ほほう?
 ――あれだけ麗しく、艶めいておられると、私のようなものでもどきりと致しますね。杲隣殿などは“布施を募りにやると、いろいろ手に入って良い”などと申されておりましたよ。
 三綱のひとり――上座の杲隣は、いつも高雄山寺の経営に四苦八苦していたから、布施を募るのに、容貌の美しい僧が入るのは大歓迎、と云うことなのか。
 ――……まぁ、杲隣に有用なのであれば、それに越したことはないが。
 三綱が概ね好意的であれば、空海がとやかく云わずとも良いだろう。
 となれば、やはり問題は叡山、と云うよりも最澄ひとりであるようだった。
 ――ただでさえ、最澄殿には煩わされていると云うに……
 空海は、最澄の求めに応じて経典を貸し出しているのだが、これが、いったっきり返ってこないのだ。
 むろん、“貸す”と云っても写経のためであるからには、ひと月ふた月で戻らないのは覚悟の上だ。経典によってはかなりの大部であり、一年以上戻らないのも已むを得ぬと考えてはいるのだ。
 だがそれにしても、ごく薄い――十紙十五紙といった――経典などは、そうそう書写に日数を要するわけでもあるまいし、梵字経典などは、むしろ空海に面授を受けて、ある程度判読ができるようになってから写した方が、却ってはかどるのではないかと思われるのだが。
 ――最澄殿は、面と向かってこちらに師事するのを厭うておられるのか。
 法蟖も短く、私度僧あがりである空海などに、灌頂などの短い間ならばともかく、長く頭を垂れるつもりはないと考えているのではないか。
 最澄は、書状などではことあるごとに“弟子としてお仕え出来ずに申し訳ない”などと云ってはくるのだが、空海の求める月に一度程度の面授――むろん、行の方法や梵字悉曇などの伝授のみである――に関しては、何のかんのと理屈をつけて、断ってきているような有様だ。
 ――何も、すべての行をこちらでやれと云うておるわけではないのだが。
 経典を読むのみならず、護摩を焚き、真言陀羅尼を誦する、その行によって大日如来と己をひとつのものにすること――それこそが密教密教たる所以であり、それを学ぶためにこそ、空海は渡海入唐を志したのだ。
 だが最澄は、その密教の本質から目を背け、ひたすら経典を求めるのみだ。
 挙句に己の弟子を遣わして修業させようなど、
 ――最澄殿は、密を盗み取るおつもりか。
 と勘繰りたくなるも、致し方ない話ではないか。
 ――書状なれば、いくらでも慎み深う装うこともできよう故な。
 だが、そのような上辺の謙虚さの下には、空海を侮る心があるに違いない。
 今しばらくは様子を見るに留めようが、あまり長く続くようであれば――釘を差すことも考えねばなるまい。
 泰範がやってきたのは、そのようなことを考えながら写経をしていた、とある夜のことであった。
 ――宜しいでしょうか、阿闍梨
 そう云って、かれは房へ入ってきたのだ。
 ――どうかしたか。
 写経の手を止めぬままに、何気ない調子で空海は問うた。
 ――慙愧懺悔を致したいのです。
 ――おや、お前にどのような罪障が?
 ――ええ、実は……
 と云いかけた泰範の声が途切れ、ごくりと喉の鳴るのが聞こえた。
 ――泰範?
 訝しく思った次の瞬間、後ろから戒めてくる腕が、袈裟の紐を解き。
 ――……“大楽”の境地をご存知でございますか……?
 法衣の合わせ目からすべりこんだ指が肌を撫で、艶めく声が囁きかけてきて。
 抗ういとまもなく、空海は、荒々しい快楽の嵐の中へと投げこまれたのだ。



 ふと気がつくと、誰かの膝の上に頭をもたせかけ、身体を拭われているところだった。
 ――どう、したのだったか……
 ぼんやりとまなざしをめぐらせると、
「――気がつかれましたか」
 泰範の、安堵の滲む声が云った。
「……どう――」
 身じろいで、突き抜ける苦痛に呻きをこぼす。
 その上、声は枯れ切った酷いもので、喉の奥がひりひりと痛むようだ。
「……申し訳ござりませぬ」
 衣を着せかけてきながら云う泰範の声は、羞恥と悔恨の響きに満ち満ちていた。
「あまりにも久方ぶりで……歯止めがききませなんだ。阿闍梨に大層なご無理を……」
「無理、と云うより、無体だな、これは……」
 けほり、と咳きこみながら云うと、泰範は、恥じ入ったように沈黙した。
「……よもやとは思うが、“慙愧懺悔”とは、このことを云うておったのか?」
「――はぁ、まぁ、そのような……」
 と泰範は云い、口の中でもごもごと、はじめは阿闍梨に無体を働こうとは思うておらなんだのですが、と独言するように云い訳した。
「懺悔にきてこのようなことを為すとは、お前はまことに、獣のようだな」
 半ば呆れてそう云ってやると、
「――ですが、阿闍梨が“止めよ”とおっしゃれば、私とてもことには及びませんでしたものを」
 開き直るように云い返され、空海は沈黙した。
 ――あのように手際よくされて、何時止める間があったと云うのだ。
 気がついた時には床に組み伏せられ、制止する暇もなく弄られた。侵されて、他の弟子たちにさとられぬようにするのが精一杯で――ただ、泰範にすがりつくよりなかったのだ。
「……最澄殿にも、このような無体を?」
「師の方よりお誘いを戴きましたので」
 さらりと返されて、驚く。
 僧伽の内では、男色はままある話――実際、在唐中、西明寺でも青龍寺でも、そのような光景は目にしてはいた――とは知っていたが、よもや、少々ものがたくも見える最澄が、自ら弟子に誘いをかけていようとは。
「――それで最澄殿は、お前にあれほど執着しておいでなのか。……待て、ではよもや、お前が“叡山でははぐれ者であった”と云うのは……」
「はぁ、ですからまぁ、そのような次第でございます」
最澄殿とのことが、一山中に知れわたっていたと云うのか」
「皆様、薄々は。……それに、師は山をあけていることが多うございましたので――その間に、まぁ、その、いろいろと」
「他の連中とも、と云うことか」
「襲って参りましたので、襲い返してやったまででございますよ」
 自分からではない、と泰範は云うが――空海は、思わずこめかみを押さえた。
 なるほど、最澄以外の叡山のものたちは、泰範の存在を微妙に思っているわけだ。師の寵愛を一身に受けている上に、僧伽の幾たりもと関係を持っているとなれば、嫉妬を受けることも多かろう――誰に対するどのような嫉妬かなどは、うやむやになっていそうではあるが。
「……とりあえず、この寺はかき回してくれるなよ」
 最澄が向けてくるような隠微な嫉妬の念を、寺内のものたちが向け合うと考えると、頭が痛いどころの話ではない。僧伽の統制をとるのに苦労するなど、考えるだけでもうんざりすることだ。
「お前が堪えられなくなったなら、私の許へ来れば良い。あまりあちこちに手を出されては、のちのち面倒なことになる」
「おや、それは――悦かったと思うて戴けましたか」
「……観想の“大楽”の方が悦かったの」
 むろん、泰範がまったく悦くなかった、と云うわけではない――そんなことはまったくない。
 だが、観想の中の“大楽”は、何と云おうか、所詮は自らの想念がつくるものであり、その手綱はあくまでも己が握りこんでいる。
 一方、泰範のそれは――喩えて云うなら、目隠しされたまま暴れ馬の背に乗せられたようなもので、次に何がくるか、どのようなことになるのか、まったく把握することができないのだ。
 身体の芯に残る埋み火のようなものが、そちらを求めてもいはするのだが――溺れてしまうのはあまりに危険だ、と、空海は、かすかに身震いしながら己を戒めた。
「……しかしお前、そのような性で、何故仏門などに入ったのだ?」
「それは、まぁ、その、いろいろとございまして……」
「――なるほどな」
 まぁ、仏門にはいるなど、貧家に生まれたが賢かったか、親が熱心な仏教者であったか、そのあたりであるのが常だ。空海自身は、大学寮の明経科に入ったものの、飽きてすぐに辞め、何となく仏の道に足を踏み入れた――もっとも、公に認められぬ私度僧ではあったのだが――ところがあったから、あるいは泰範も、そのような経緯であったのかも知れないが。
「……まぁ、私の寺をかき回してくれるのでなければ、何でも良いが」
「――心致します」
 どこか不満げな様子ながらも神妙に頷く泰範に、微笑みを向けてやる。
 この男を野放しにしさえしなければ、まぁ何とかなるだろう――それは、確信にも似た思いであった。
 高雄山寺の三綱も僧伽も、泰範を概ね受け入れているようだ。泰範も、自分の望むような行を行うことのできる高雄山寺は、居心地良く感じているように見える。そうであれば、この男の色を好むところさえ手綱をつけてしまえば、一山が荒らされることもあるまい。
 何とかなる――それは、ひどく楽観的な見とおしでしかなかったのかも知れない。
 叡山の最澄との関係は、そう簡単に収まりはしなかったのだ。


† † † † †


と云うわけで、困った阿闍梨(美化150%!)の話。
すみません、一発目の冒頭からあんなシーンで……


えーと、とりあえず、うちの空海は右属性(×のね)、って云うかむしろ泰範総攻です。だから、空×最とかないんですよ、それで検索して来られた方あったみたいですが。泰×空で泰×最、なだけと云う。
って云うか、泰×空って、36歳×40歳だ……歳ですね。
泰×最なんか、34歳×45歳とかですよ、茨道ですね……(いえ、腐的に――腐ってもいないのですが)


って云うか、借経の件で、上山春平『空海』(朝日選書)、佐伯有清『最澄空海』(吉川弘文館)、高木袘元『空海最澄の手紙』(法蔵館)を読んでるのですが。
何をどう読んでも、最澄が酷いヤツだと思うんですけども。
ま、借経の件は、後篇で書いてるとこなんですが。
だいたい最澄、徳一さん(最澄と論戦した法相宗の僧。会津の寺で没したっぽい。空海には比較的好意的)のこと“麁食者”だの“北轅者”だの“悪法師”だのって、論争書の中でだって酷いと思うような呼び方してるんだぜ!
あと、弘仁三年ごろの遺言では、円澄を次の座主にとか云ってたのに、死ぬ間際に義真(嫌い)にチェンジしたのって、多分円澄が空海寄りと目された(ちなみに、義真は反‐泰範)からだろうなーと思うんですよね。円澄が気の毒だ……
円澄が天台座主になったのは833年のことですが、空海は翌年の叡山の西塔院の落慶法要の時に、(宣旨によってではありますが)叡山に赴いて、咒願師を務めたそうですが――多分、空海的には、前の座主の義真は嫌いで、円澄には好意的だったので、元弟子へのお祝いの意味も込めて、そう云うことしたんだろうなァと思います。
ってわけで、うちでは空×最だけはありません。気持ちの問題でも絶対にない! それならまだ、空×(橘)逸(勢)の方がありそうだわ……ないけどね。


しかし、区切りがここまでじゃないとアレだったとは云え、長いわ今回……
wordで見たら、9700字とかなってました……どんだけ(いつもの1章分は大体2500字〜3500字くらいかと思われます)。
多分、後半もこんなもんになるかと思われます――借経問題→理趣釈経の件→泰範問題、と盛りだくさんだしね。
って、totalで2万字とかか! 携帯とかで見てる方はすみません……(汗)


あ、今回のタイトルの後ろの“青”ってのは、蓮の色のこと。“青蓮華”って、仏の眼のことだそうですよ――仏! この残念な阿闍梨が仏!! (真言宗の方、すみません……)
ちなみに、最澄篇を“紅”(紅蓮地獄〜)、泰範篇を“白”(“白蓮”って、心が清廉で汚れがないこと、なんですってさ/笑)にするつもりですが……最澄、書けるかなァ。一番簡単な空海から書き出しちゃったからなー。
まァまァ、仏教関係の方にはアレですが(しかし、どんな高僧だって、所詮は人間だ)、宜しくお付き合いくださいませ。
って云うか、カテゴリ……逸勢の話まで書くようになったら、独立カテゴリ作ることにしましょうかね……


実は本日、父方の義祖父の法事でお寺に行ったのですが。
親鸞の偈とか読んでて、やっぱ自分には真宗イマイチかも、と思いました。華厳や真言の方が性に合ってるっぽい(まァ、当然と云えば当然)。諸行無常の先にあるものが要になってきますよね。選択念仏はあんまり、みたい。阿弥陀様より弥勒菩薩だよね。うむ。


ってわけで、この項終了。(“げんぼう”の“ぼう”の字=“日方”が文字化けする……エンコードが!!)
次は、ルネサンス――さて、どう展開させよう?