空海と真言宗のこと。

……画像は勝さん、っつーかりんたろたんです。職場のIさんが書いてくれました♥ うふん。
てのひらサイズと云うか身長10cmくらい希望。勝仲間Mさんと「チワワとかけしかけたいよね〜♥」とか、外道なことを嬉々として語ってましたよ、ふふ。
きっとりんたろたんは、はむすたのようにわたわたしながら高いとこに逃げるんですよ。可愛い……♥ (←ホントに勝好きなのか)


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ってわけで、りんたろたん上げるために、この項はルネサンスじゃなくなったのです、ふふ……
表題の残念な阿闍梨真言宗について、アレコレ。


話書いてて思ったんですけども、空海ってさ、ホントは弟子育てたことないだろ? って云う……
や、先日見かけたひろさちや先生の『空海入門』(中公文庫、だっけ?)で、“空海は、教育者としては最悪最低”(すみませんね)と云われてたので、よくよくアレしてみたのですが。
高雄山寺の三綱とか、“弟子”とか云われてるあれやそれやって、実際には奈良の僧伽で修業して、得度してから空海の下に入ったわけですよね。空海が入京したのは37歳くらいの時なわけだし、その時9歳だった真雅(空海の弟)はともかくとして、杲隣、実慧、智泉なんかはとっくに得度して、それぞれの住寺(っても、自身が寺の主ではなかったとは思うのですが)で修業をしてたわけですよね。
あの辺について、つらつら考えてみると――多分空海、あの辺に大して教えてないよね? っつーか、何かあの辺、自分らのこと弟子って思ってなかったんじゃないのか? と云う気分が、じわじわと湧き起ってきます――いや、アヤしげな糸を手繰っていくと、そう云うカンジになるんですが。


って云うか、その辺から思ったんですけど、真言宗ってさ、極言しちゃうと、空海のサポーター集団、って云っていいんじゃないかな〜?
困った阿闍梨の面倒を見て、阿闍梨が「山に禅定の場を作る!」って云ったらはいはいって手伝って、でも、阿闍梨は何にも教えてくれない(夜の闇の彼方で、玄賓さんと思われる坊さんに、「あの人は、悟りに関することをちゃんとやってくれなかったよね」とか云われてました……)ので、弟子は、昔の師匠たちから教わったこと(←当時、高野山には戒壇がなかったから、弟子はほぼ、奈良の戒壇院で具足戒とか受けたはず)と、阿闍梨の著書に書いてあることを足して、そこに実際の阿闍梨のやってたこと(真面目な方面ね)を足して、勝手にやってたんじゃないかと。
うん、何か教わると云うよりも、空海に惹きつけられてきたってだけの連中のあつまりだったんじゃないのか、初期の真言宗


でもって、その“チーム空海”的なサポーター集団が教団の元だったので、空海の書いたことや云ったことから外れることをする連中ははじかれちゃうんじゃないのかな――いや、覚鑁さんの件ですが。
覚鑁さんは、真言密教に浄土思想を足したので、座主だったのに高野山から追い出された人(でもって、根来寺に居を構え、それが所謂“新義”真言宗のもとになったそうな)ですが、結局“古義”真言宗は、“空海命!!”なサポーター集団(今だってそうでしょう、生身供とか)なので、その空海の唱えたことにちょっとでも異議を唱えると、外にはじき出されちゃうんだと思うのです。
だから、「真言宗は、空海の後に見るべき人が出ていない」(by司馬遼)とか云われちゃうんだよ!
でもね、思うんですけれど、空海の理論がいくら(他所の宗派と較べて)完璧、とか云ったって、真言宗だって人がいないわけじゃないんだし、考えれば何か教義の進化(深化)をはかることだって可能だったと思うのですよ。
弘仁期からかれこれ1200年もの間、教義がほぼ動いてないってのは、たぶんね、(特に“古義”系の)真言宗では、空海loveが昂じるあまり、教義に一切手を入れられなかったんだと思うのです(でもって、唯一の例外が覚鑁さん、と)。
そこらへんが、経典収集に必死になって、自山を大学みたいにしようとした最澄の叡山と、後世で大きな違いになってでてくるんだと思うのです。


大体さ、例の入定伝説だって、生身供の件だって、真言宗の皆さんは、「弘法大師はまだ生きて禅定に入っている」って見解なわけでしょう、公式には。
普通(≒現代の一般的な感覚として)、まァ1200年もの間、人間が生きて座禅組んでる(的な)なんて、「ありえない!!」って思うと思うんですが、真言宗においては、それがある程度まかり通ってるってのは――あれだ、もう、空海は宗祖とかじゃなくて、“密教”の教祖なんですよ。規模はちっさい(説いた教義が、仏教をベースにしてたからね)けど、キリストとか仏陀とかと同じ枠なのですよ。“平安仏教”ではなく、“平安新宗教”で良かったんじゃない?
だから、最澄空海に敵わなかったのは当たり前なのよ。宗教学の権威的なひとと、ぷち仏陀じゃあ、どっちに衆人が惹かれるかなんて明白だもんなー。
まァ、最澄は、組織者としてもアウト(でなければ、あんなに弟子に逃げられませんって)だったので、最澄が称えられるのは、専ら後の円仁さんの努力の賜物だと思いますがねー。


まァでも阿闍梨、魅力はあったそうですよ(by徳一さん)。一生懸命やってるんだけど空回ってることが多い、とか云われるのはどうかと思いますが……
でもまァ、叡山にほぼこもりっきりの最澄に較べると、満濃池の工事やったりとか、雨乞いやったりとか、綜藝種智院作ったりとか、いろいろ利他のために動いてたもんね――どれだけ効果が上がったのかは謎ですが(泣)。
そう云うアレコレがあって、余計にチーム空海の結束が固くなって、そのまんま今日まで至ってしまうんだろうなァと……ちょっとそんな気がしています。


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でもって。
以前ここで、「何で鬼を新興宗教の教祖みたいに仰いでたんじゃー!! (怒)」とか云ってましたが。
こうして例のタイムラインで考えてみると、仕方ないんだよね……ぷち仏陀と同じいきものなんだもん(これで聖徳太子とも同じ、って考えると……ねェ?)。
崎とか島田とかetc.を、阿闍梨んとこの三綱とかと並べてみるとね――大体一緒。
真言宗の人には怒られそうだが、でも同じだ。
謎は(私的には)解けた、が、かなりちょっとどうなの……


ってわけで、とりあえずのメモ終了。
しかし、私のメモも、基本的に自分がわかってるだけな、論理的に飛躍したのが多いよな……
とりあえず、この項終了。
次こそ、サポーター集団のついてない阿闍梨、じゃなくて、先生の話で!