神さまの左手 36

「それでは、はじめさせて戴きましょうか」
 そう云うと、フラ・バルトロメオはやや顰め面で頷いた。
「あまりおかしな格好をさせてくれるなよ。こちらも歳なのだ、あまり後に響くようなことは困る」
「もちろんです」
 と云いながら、レオナルドは、椅子にサライを坐らせ、その隣りにフラ・バルトロメオをさし招いた。
「ここに立って、サライに耳打ちするように、腰をかがめて戴けませんか」
「……お前、いま儂が云ったことをきちんと聞いていたのか?」
 中腰なんぞにさせおって、などとぶつぶつ云いながらも、フラ・バルトロメオは、レオナルドの云うとおりに、中腰になって、サライの耳許に顔を寄せた。
 が、あまりにも普通の中腰で、何と云うか、緊迫感がない。たとえば、農園で世間話をしている農夫のような雰囲気だ。
「……どうも、違うな」
 これは、傍にテーブルがないので、晩餐の席上のことであるとわかり辛いからでもあるのだろうか?
 ――とりあえず、小卓を置いてみるか。
 テーブルらしきものを前に据えてみれば、また印象は変わるのかもしれない。
 レオナルドは、手近にあった小卓を引っ張ってきて、二人の前に置いてみた。
 が、それでも違和感は変わらない。
 ――とすると、問題は姿勢そのものと云うことか。
サライ、ちょっと右へ首を傾げてみなさい」
 ヨハネの左手――つまりは聖ペトロと反対の側――にキリストがいると考えて、そちらと逆に首を傾げさせる。
 すこし低くなったサライの耳許に、いっそう腰を低くするように、フラ・バルトロメオが顔を寄せる。が、どうにも、中腰では恰好がつかないようだ。
「えぇと――フラ、中腰ではなく、腰を屈めて戴けませんか」
「……だから、儂は歳なんだと云っておるだろう」
 と云いながらも、フラ・バルトロメオは大きく腰を屈めてくれた。
 フラ・バルトロメオの“聖ペテロ”が、サライの“聖ヨハネ”の耳許に、何ごとかを囁きかける――そして例えば、屈んだ背にやった手に、ナイフを持たせてやれば、怒りっぽかったと伝えられる初代法王のひととなりを、明示してやれるのではないか?
 ――ふむ。
 それでは、このふたりの間にユダを置いたらどうなるか? 怒りっぽい聖ペテロが、ナイフ片手に聖ヨハネに囁きかけるのを、かの裏切り者は、どのような心地で聞くのだろう?
 あるいは、ユダは彼らの会話など聞いてはいなかったのだろうか。己の裏切りを――暗に――指摘するキリストの言葉に、ただ驚愕するばかりで、周囲の様子など目にも耳にも入りもしなかったのだろうか?
 これは、面白い構図になりそうだ、とレオナルドは思った。
 ヨハネの横にユダ、そしてその後ろから身を寄せてくるペテロ。ユダの目にはキリストしか入らぬ様子で、それを前景に、ペテロがヨハネに裏切り者を殺すと囁きかける。何と鮮やかな、その対比。
 ――これは面白くなる。
 確信しながら、レオナルドは紙の上にチョークを走らせた。
 さてでは、キリストの反対側に配する人物はどうするか?
 疑り深い聖トマスをキリストの近くにおき、激情家の大ヤコブをその傍におく。となると、三人でひとかたまりとするならば、もう一人は――
 ――ピリポにしてみるか。
 聖ピリポは、聖書の中でもあまり性格づけがはっきりしていなかったように思う。と云うことは、逆に、レオナルドがどのような性格づけをしても構わない、と云うことでもあるのだ。
 疑り深いトマスが、裏切り者がいるのは確かなのかと問い、激情家の大ヤコブが、言葉を濁さず名を告げろと迫る。その横で、ピリポは己の無実を訴える、と云うのはどうだろうか。
 キリストの両脇の使徒たちが興奮しているのに対して、さらに外側に位置する使徒たちは、師であるひとの言葉に困惑を示すだろうか。その言葉の真偽を疑い、あるいは、“裏切り者”の正体が誰であるのかを、顔を見合わせて話し合うのだろうか。
 そうして、ふたつの使徒たちの群れが激するさなかに、キリストが、ただ端然と坐しているのだとすれば。
 これほど鮮やかな対比が、他にあるだろうか。
「――手が止まっているぞ」
 フラ・バルトロメオが、自分の背を叩きながら、そう云ってきた。
「おお、これはしたり」
 レオナルドは、慌ててフラ・バルトロメオの横顔を紙の上に写し取った。いかにもひと癖ある顔の壮年の男が、不穏な様子で身を乗り出しているように。
「できたのか」
 レオナルドの手が――デッサンが完成したために――止まると、フラ・バルトロメオは、大儀そうに身体を伸ばし、画帳を覗きこんできた。
「……これが聖ペテロになるのか――胡散臭いな」
 と、それが自分の顔であることなど忘れたかのように云う。
 それを聞いたサライが、小さく吹き出す風であるのが、視界の端に映る。
「……殉教されるずっと以前のことですからね」
 レオナルドは、注意深くそう答えた。
 正直、初代ローマ法王などに興味はないのだが、教会の人間の前でそんなことを云うのは、いかにも拙かったからだ。
「まぁ確かに、キリストを捕えにきた兵士を、ナイフで傷つけたそうだからな」
 フラ・バルトロメオは、気に留める風もなく頷いた。
「ふむ、しかし、これは本当に良く描けているな! ……マエストロ、お前、幾何の図を描いてみる気はないか?」
 唐突に云われ、レオナルドは面食らった。
「幾何の図、と云われますと……?」
「うむ、儂と同じ僧院に、ルカ・パチョーリと云う男がおるのだが――こやつがな、幾何学の本を出すとか云って、挿絵を描く画家を探しておるのだ。マエストロ、お前を推しておいても良いか?」
「はぁ、まぁ、それは構いませんが……」
 教会関係者とは云え、このフラ・バルトロメオの知人となれば、普通の――敬虔な――修道士とは云えない人物であるに違いない。実際に会って話してみなければ、詳しいことはわかるまいが――会ってみるだけでも、面白そうな予感がする。
 レオナルドの答えに、フラ・バルトロメオはにやりと笑った。
「よし! では、あやつにはマエストロのことを教えてやろう。……まぁ、また何かあったら声をかけてくれ。そこの“小悪魔”の顔を拝ませてくれれば、何やらやってやらんこともないぞ」
「――その節は、宜しくお願い致します」
 フラ・バルトロメオは、頷くと、機嫌良く帰っていった。
 ともかくも、お蔭でこちらも構図がほぼ固まった。
 あとは、モデルの選定、特にユダとキリストだ。
「さぁ、描き出すぞ、サライ!」
 己に気合を入れるためにそう云うと、
「はじめっから、そんだけやる気出しゃあいいのにさ」
 “小悪魔”は、その名にふさわしい憎まれ口を叩いて来。
 レオナルドは、思わずその頭をはたいていた。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
どうも、モデルとかのシーンって難しい……いや、難しくないシーンなんかないんですけどね……


何かこう、フラ・バルトロメオのイメージが護命さん(護命さんは、残念な阿闍梨の時代の、奈良の僧綱のひとで、法相宗の坊さんです)……いや、何かそんなカンジのキャラ立てになってます。どっちがイメージ先だったって、フラ・バルトロメオ(←無論架空人)ですが。多分坊主繋がりなんだとは思うのですよね。
それを云ったら、名前だけ出てきたフラ・ルカ・パチョーリ(修道士で数学者、複式簿記の発明者)なんか、文覚上人≒松本良順先生(←似てますよね)と同じようなキャラだと思ってますしね。パチョーリさんは、以前見た夢の中で、先生と呑んだくれてた人なので、そう云うフィーリングで参りたいと思いますが(っつーか、修道士には飲酒禁止の戒律とかなかったんだろうか……キリストの血が赤ワインだから、ないのか……)。


あ、ヨハネにはモデルいないと思います。先生の好きな架空の顔なんじゃないかと。
サラは、ピリポです。ピリポ、女性がモデルとか云う話ですが、あのデッサンはサラだ。間違いなくそう。
でもって、大ヤコブが先生自身と。サラとぴったりいっしょにいるのね。どんだけ。ってカンジが致しますです。
何かこう、ペテロ〜ピリポの7人(キリスト含む)は力が入ってるけど、両端の6人はイマイチ、な気がするのは私だけでしょうか。でもって、ペテロ、大ヤコブ、ピリポの3名が、特に力入ってるよね。ユダは顔が見えないからアレとして。
そう云うところにいろいろ見える気がして面白いよなァ、って思いますよ。ふふふ……


この項、終了(最後の一文がイマイチ……)。
次は鬼の北海行。いよいよ鉄ちゃん追い出し大会?