奇しき蓮華の台にて 〜紅〜 三

 最澄は、密教を、叡山にいながらにして学ぼうとしていた。
 となれば、むろんその方法は、空海の求める面授――師と対面して直接に教えを受ける――ではなく、書物による筆授である。
 幸い、大日経は手許にあるし、金剛頂系の重要な経典である『理趣経』――正式には『大楽金剛不空三昧耶経 般若波羅蜜多理趣品』と云うらしい――は、先日の灌頂ののち、空海から授けられている。他にも膨大な量の経典があるのはわかっていたが、ともかくも、手許にあるこのあたりから、読みこんで理解を深めねばなるまい。
 だが、密の経典は、とかくわからないことが多いのだ。例えば『理趣経』の一節に「時薄伽梵。觀自在大菩薩欲重顯明此義故煕怡微笑。作開敷蓮華勢觀慾不染。説一切群生。種種色心」――すなわち「時に薄伽梵、觀自在大菩薩は、重ねて此の義を顯明せんと欲うが故に、煕怡微笑して開敷蓮華の勢いを作し、慾の不染を觀じて、一切群生の種種色心を説きたまう」の、“開敷蓮華の勢”とは一体何であるのだろうか。
 無論、印形の一種であるだろうとの想像はつく。想像はつくのだが、具体的な所作となると――何が何やらさっぱりわからない、と云うのが正直なところだった。
 ――なるほど、これは、唐まで行って学ばねばならぬと思うはずだ。
 空海が渡海入唐したのは、『大日経』の事相部がわからぬので、これを知る人を求めてのことであったのだと聞いてはいたのだが。
 『大日経』だけではない、さほどの長さでもない『理趣経』ですら、これほどまでに理解し難い語句を含んでいる。
 ――これは、註釈書を手に入れずばなるまい。
 もちろん、空海が久しく“密の伝授は面授が本道”と云っているのは承知している。実際に経典を読んで、なるほどと思わされることもないではない――実際、“作開敷蓮華勢”の六文字にすらつまずいているような有様なのだ――が、しかし、その一々を空海に問うて学んでゆく暇は、最澄にはない。手っ取り早く註釈書を読んで――幸い、『大日経』には『大日経疏』が、『理趣経』には『理趣釈』が、それぞれ存在している――、肝要を掴めば良いではないか。
 ちょうどそのころ、最澄は、空海から『中寿感興の詩』と云うものを受け取っていた。
 空海が、四〇歳になったことを嘆じて詠んだもので、最澄は、その詩への和讃を求められていたのだ。しかし、この詩には『文殊法身礼』と云うものを観じて詠じた部分があり、そこが、『法身礼』を見たことのなかった最澄にとっては、大きな障害となっていた。
 ちょうど良い、と最澄は考えた。
 どのみち、和讃のために『文殊法身礼方円図』とその注義を借りねばならぬと思っていたのだ。それとあわせて『理趣釈』も借り出せば良いだけのことではないか。
 思い立つと、最澄はすぐさま筆をとった。


「書を借らんと請う事
新撰文殊法身禮方圓圖幷注義 釋理趣經一巻
右、來月中旬を限に、請う所件の如し。先日借る所の經幷に目録等、正に身ら持參す。敢て誑損せず。謹んで貞聰佛子に附して申上す。弟子最澄和南」


 そうして、さらに書き加える。


「弟子の志、諸佛の知る所なり。都て異心無し。惟、棄捨すること莫れば、弟子が幸甚なり。謹空」


 改めてそのようなことを書き記したのは、最近、空海最澄の密を学ぶ姿勢について、とみに強い口調で“面授を”を云ってきているからだった。
 元々、早い時期から空海には“註釈書を読むよりも、生の言葉での教えを受けよ”と云われ、また“師につくことなく書物のみにて密を知ろうとすることは越三昧耶と云って、盗法にも等しい罪なのだ”などとも云われていた。
 だが、
 ――冗談ではない。
 古来この国では、唐などからもたらされた経典・註釈などによって仏教を学んできたと云う流れがある。空海の云う様は、その流れを完全に否定し去ることではないか。
 ――“越三昧耶”などと、馬鹿々々しい。
 最澄が初学者であるならばともかくとして、天台一宗や南都の六宗、それに断片的であるとは云え密も学んだ身であるのだ。それを、その辺の沙弥などと同等に扱ってもらっては困る。註釈書を読んで理解しようとすることの、どこが盗法になると云うのか。
 とは云え――
 最澄のそのような思いをあからさまにすれば、空海は気を悪くして、経典の借用を渋ることになるだろう。ここは、ともかくも頭を低くして、かれの機嫌をとり結んでおかねばなるまい。
 書状に封をすると、最澄は貞聡を呼び、高雄山寺へ行って借経をしてくるようにと云いつけた。
 貞聡はすぐに発って、翌日には叡山に戻ってきたのだが――携えているものは何もなかった。経典どころか返書さえも。
 驚いて問いただせば、
「海阿闍梨は、和上の書状を御覧になり、ただ“お断り致す”とのみ……」
 そう云う貞聡は、怯えているようにも見えた。
「それはもう、激しいお怒りで、総身から焔の立つかのような風でございまして――かの“明王”の忿りとはかくあるものかと、そのようにも思えるほどのものでございました」
「そのような……」
 だが、それほどの怒りを引き起こさせるようなことなど、あの書状の中に記したおぼえはないのだが。
 ともかくも、もう一度借経を申し込まねばなるまい。『理趣経』はともかくとして、『文殊法身礼方円図』と注義だけは、今年のうちに借り出さねばならぬ――来年になれば、空海が四十一になってしまうが故に。
 だが、一度断られたからには、再び正面からいったとしても、首尾よくことが運ぶとも思われぬ。
 ――ならば、搦手からゆくか。
 最澄は再び筆を取った。
 但し、今度の相手は空海ではない。泰範である。


「久しく清音を隔て、馳恋極まり無し。安和なるを傳え承け、且く下情を慰む。
大阿闍梨の示す所の五八の詩の序中に、一百廿禮佛幷びに方圓圖幷びに注義等の名有り。今、和詩を奉らんとするに、未だ其の禮佛圖を知らず。
伏して乞う、阿闍梨に聞か令め、其の撰する所の圖義幷びに大意等を告施せよ。其の和詩は忽ちに作り難し、着筆の文は後代に改め難し。惟其の委曲を示せ。必ず和詩を造りて、座下に奉上せん。
謹んで貞聰佛子に附し、奉上和南す」


 『文殊法身礼方円図』と注義がなければ、空海の「中寿感興の詩」に和して詩を詠むことができないのです――と、切々と訴える。
 そして、空海の機嫌をとり結ぶために、さらに追伸を付け加える。


「此頃、法花梵本一巻を得。阿闍梨に覧ぜ令めんが爲に、來月十九日許りを以て参上す。
若し和上に暇有らば、必ず將ちて参上せん。若し暇無くば、更に後の暇を待たん。惟、指南を示せ。委曲は尋ねて申上す。謹空」


 法華経の梵本を入手したので、空海に披歴したい、ついては、泰範の暇のある時に持参したいので、都合を聞かせてほしい――
 そのような文で書状を結び、封緘して貞聡に託す。
 貞聡は、気が進まぬ様子ながらも頭を垂れ、書状を受け取ると叡山を下りていった。
 翌日、かれは、望んだ経典を携えて帰ってきた。
 最澄は安堵したが、しかし、添えられていたのは空海からのそっけない貸し出し状のみで、泰範からは言伝すらありはしなかったのだ。
 ――泰範……!
 “泰範の暇のある時に、高雄山寺に上りたい”と書き送ったにも拘らず、その返書どころか申し送りすらもないなどと――
 ――泰範は、本当に私を捨てるのか……?
 泰範よりかつて受け取った書状の束を抱きしめて、涙の流れるにまかせる。
 泰範の才智がなければ、天台一宗は確立されることがないかも知れない――最澄は、論理を理解することには向いているのだが、仏典の中にままあるような飛躍――ことに成道に関するあたりの――については、お手上げになることが多かった。
 そのようなことどもに関しては、泰範の恐ろしいほどの勘の良さが、非常に役に立ったのだ。最澄の思いもつかぬ観点で、一言一句の意味から全体の論旨まで、解くべき道筋を指し示してくれる、それこそがかれの力であったのだ。
 ――頼むから、戻って来てくれ、泰範……!
 かれが叡山に戻ってくれたなら、密の研鑽も一層進み、天台一宗はより確かなものとなるのだろうに。
 だが、泰範は、一向に帰山する様子が見られない。
 ――円澄が説得してくれる、円澄が……
 高雄山寺へ上る暇もない最澄としては、あちらへ遣った弟子の名を、呪のように唱え続けるより他にないのだ。
 ともかくも最澄は、「中寿感興の詩」に和する詩を、何とか書き上げ、年内には空海に贈ることができた。空海からの礼状を受け取り、ようやっと肩の荷をひとつ下ろした気分になる。
 さて、では今度こそ、密の学習に戻らねばなるまい。そしてそのためには、是非とも『理趣釈』を借り出さなくては。
 年が明けて弘仁五年の正月半ば、最澄空海に宛てて、再度『理趣釈』を借用したい旨の書状を書き送った。
 丁寧な言葉で書きつづったそれを、またしても貞聡に持たせて高雄山寺へとやる。かれは、前の二度とも書状を届けているが故に、空海の機嫌を窺いながら要件を伝えてくれるだろうと期待したのだ。
 だが――
 翌日、遅くなって帰山した貞聡は、経巻を持ち帰ってはこなかった。
 ただ、
「――こちらを。海阿闍梨よりの書状でございます」
 と云って差し出されたのは、厚みのある紙の束だった。
 厭な予感がした。
 経巻の借り出しがならず、空海からの大部の書状がきている、と云うことは――よもやと思うが、これは断交の書状なのではあるまいか?
 ――冗談ではない、まだすべての経典を写し終えていないと云うに!
 驚きと不安とを感じながらも、最澄はゆっくりと書状を開いた。


「書信至りて深く下情を慰む。雪寒し。伏して惟れば、止観の座主、法友勝常なりや。貧道、量り易し。
貧道と闍梨の契りは積もりて年歳有り。常に思えらく、膠漆の芳、松柏とともに凋まず、乳水の馥、芝蘭とともに彌香ぐわしからん。止観の羽翼を舒べて高く二空の上に翥り、定慧の驥騮を騁せて遠く三有の外に跨る。多寶の座を分かち、釋尊の法を弘めんと。此の心、此の契り、誰か忘れん、誰か忍びん。
然りと雖も、顯教一乗は公に非ざれば傳えず、祕密の佛藏は唯我が誓う所なり。彼此法を守りて、談話に遑あらず。謂わずの志、何の日にか忘れん。……」


 “貴方と仏法を支え弘めてゆくとの誓いを忘れたわけではありません”との文に、安堵したのは束の間のことだった。


「……忽ちに封緘を開きて、具に理趣釋を覓むと覺りぬ。然りと雖も、疑わくは理趣に端多し。求むる所の理趣は、何れの名相を指すや。
夫理趣の道、釋經の文、天も覆う能わざる所、地も載する能わざる所なり。塵刹の墨、河海の水、誰か敢えて其の一句一偈の義を盡くし得ん乎。如來心地の力、大士如空の心に非ずば、豈能く信解し受持せん乎。
余、不敏なりと雖も、大師の訓旨の略を示さん。冀くは、子、汝が智心を正し、汝が戯論を淨めて、理趣の句義、密教の逗留を聽け。……」


 強い言葉に目を見開くが、その後に続いたのは、さらに激越な文面であった。


「……夫理趣の妙句、無量無邊にして不可思議なり。廣を攝して略に從い、末を棄てて本に歸すれば、且三種有り。一は可聞の理趣、二は可見の理趣、三は可念の理趣なり。若し可聞の理趣を求むれば、聞く可きは則ち汝が聲密是也。汝が口中の言説卽ち是也。更に須く他の口中に求むるべからず。若し可見の理趣を覓むれば、見る可きは色なり。汝が四大等卽ち是也。更に須く他の身邊に覓むるべからず。若し可念の理趣を索むれば、汝が一念の心中に、本來具に有り。更に須く他の心中に索むるべからず。
復た次に三種有り。心の理趣、佛の理趣、衆生の理趣なり。若し心の理趣を覓むれば、汝の心中に有り、別人の身中に覓むるを用いざれ。若し佛の理趣を求むれば、汝が心中に能く覺る者卽ち是也。又諸佛の辺りに求む可し。須く凡愚の所に覓むるべからず。若し衆生の理趣を覓むれば、汝が心中に無量の衆生有り。其の覓むるに随う可し。
又三種有り。文字、觀照、實相也。若し文字を覓むれば、則ち聲の上の屈曲なり。卽ち是、不對不碍なり。若し紙と墨和合して文字を生ずれば、彼の處にも亦有り。又、須く筆紙博士の邊に覓むべし。若し觀照を覓むれば、則ち能觀の心、所觀の境、無色無形にして取り難く與え難し。若し實相を求むれば、則ち實相の理は名相無し。名相無きは、虛空と冥會す。彼の處に空有り、更に外を用いざれ。
又所謂理趣釋經とは、汝が三密即ち是理趣也、我が三密卽ち是釋經也。汝が身等は不可得、我が身等も亦不可得なり。彼此倶に不可得なれば、誰か求め誰か與えん。又二種有り。汝が理趣と我が理趣卽ち是也。若し汝が理趣を求むれば、則ち汝が邊に即して有り。須く我が邊に求むるべからず。若し我が理趣を求むれば、則ち二種の我有り。一は五蘊の假我、二は無我の大我なり。若し五蘊の假我の理趣を求むれば、則ち假我は實體無し。實體無き者を、何に由って覓めんや。若し無我の大我を求むれば、則ち遮那の三密卽ち是也。遮那の三密、何處にか遍せざらん。汝が三密卽ち是也。合に外に求むるべからず。……」


 ――何を云っているのだ、この男は。
 最澄は、半ば呆然としながら読み進めていた。
 何を云っているのだ、このような、初学者を相手にするようなもの云いで。
 自分は、あの男のまわりにいるような、得度したての若輩ではない。それどころか、あの男より年齢も法蟖も上だと云うのに――あの男は何故、このようなもの云いで、最澄に書状をよこしてきたと云うのか。
 ――しかも、“謂所理趣釋經者、汝之三密、則是理趣也。我之三密、卽是釋經”などと……!
 “お前の三密が理趣であり、私の三密が釈経なのだ”とは、最澄の借請をはぐらかそうとすることばに他ならぬではないか。
 最澄の求めているのは、不空三蔵が著述したと云う『大楽金剛不空真実三昧耶般若波羅蜜多理趣釈』と云う註釈書であって、“理趣とは何か”と云う空海の高説が知りたいわけではないのだ。
 後進は、黙って先達に『理趣釈』を貸せば良い。最澄の知りたいのは、密教の先達の考えなのであって、密を伝授されたばかりの空海の考えではない。
 だが、空海の書状は、さらにその激しさを増していた。


「……又、余未だ知らず、公、是聖化なりや、はた凡夫なりや。若し佛化なれば、則ち佛智は周圓す、何の闕くる所有りて、更に求覓を事とせん。若し權の故の求覓なれば、則ち悉達の外道に事え、文殊の釋迦に事えたるが如し。若し實に凡を求むれば、則ち應に佛の教えに随うべし。若し佛の教えに随わば、則ち必ず須く三昧耶を慎むべし。三昧耶を越すれば、則ち傳者と受者ともに無益也。
夫、祕藏の興廃は、唯汝と我にのみあり。汝、若し非法に受け、我、若し非法に傳うれば、則ち將來の求法の人、何に由にて求道の意を知り得んや。非法に傳受す、是を盗法と名づく。卽ち是佛を誑くなり。又祕藏の奥旨、文を得るを貴ばず。唯心を以て心に傳うるに在り。文は是糟粕、文は是瓦礫なり。糟粕・瓦礫を受くれば、則ち粋實・至實を失う。眞を棄て僞を拾うは、愚人の法なり。愚人の法、汝隨う可からず、亦求む可からず。
又古人は道の爲に道を求め、今の人は名利の爲に求む。名の爲の求は、求道の志ならず。求道の志、道法に己を忘る。猶輪王の仙に仕うるが如し。
途に聞きて途に説くは、夫子も聽さず。時機に應じざれば、我が師は黙然とす。何の所以に。法は是難思にして、信心して能く入る。信修を口に唱えて、心則ち嫌退すれば、頭有りて尾無し。言いて行わざるは、信修の如くにして信修爲るに足らず。令く始め、淑く終るは、君子の人なり。世人は寶女を厭うて卑賤を愛し、摩尼を咲いて燕石を緘す。僞龍を好みて眞像を失い、乳粥を惡みて鍮石を寶ととす。癭者是左手を鑽る、則ち是なり。芤と渭とを別たざれば、醍醐誰か知らん。面の妍媸を知らんと欲さば、鏡を磨くに如かず。金藥の有無を論ず可からず。心海の岸に達せんと欲さば、船に棹さすに如かず。船筏の虛實を談ずべからず。毒箭を抜かずして來る處を空に問い、道を聞きて動かざれば千里何をか見ん。雙丸以て鬼を却すに足り、一匕以て仙を得る可し。若し千年、本草・大素を讀誦せ使むるとも、四大の病、何ぞ曾く除くを得んや。百歳、八万の法藏を談論すれども、三毒の賊、寧ぞ調伏せんや。自ら海を酌むの信、鎚を磨するの士に非ざれば、誰か能く一覺の妙行を信じ、三磨の難思を修めん。止みね、止みね、舎りね、舎りね。……」


 最後の方――特に“止々舎々”のあたりなど――は、書いているうちに感情が激してきたものか、文字すらがひどく大きく、跳ね上がるように書かれている。
 ――註釈で密を知ろうなどと云う甘い考えであるならば、密を学ぶなど止めてしまえ!
 そのように怒鳴りつけられたにも等しい書状だった。
 しかも“古人爲道求道、今人爲名利求”と云うのは、最澄の“遮那業の年分度者の枠を守るため”と云う目的を論う言葉ではないのか。
 ――だが、そもそもは、この国にいち早く密をもたらしたのは、他ならぬこの私なのだぞ!
 確かに、長安にまで至って、唐における密の正嫡を譲り受けたのはあの男であるが――しかし、曲がりなりにも密の伝導者としても先達であるはずの自分に向かって、この頭ごなしの云い様はどういうことなのか。蟖も長けた年長の相手に対して、敬意も何もあったものではないではないか。
 ――このあたりが、所詮は私度僧上がりと云うことか。
 長く僧伽に属さず、入唐直前までを、独力で仏教を学び、山林を跋渉するに費やしてきたと云うから、尋常の僧ならば誰しも身につけているはずの、蟖の長けたもの、年長者、などに対して払うべき敬意なども、持ち合わせていなくても仕方あるまい。
 そのような男が、帰国してほどなく、この国最大の寺――東大寺別当に抜擢され、当今からも手厚い扱いをされたとなれば、図に乗るのも当然のことか。
 最澄は、冷笑を浮かべながら、書状の続きを読み進めた。


「……吾、未だ其の人を見ざるに弗ず。其の人、豈遠からんや。信修すれば則ち其の人なり。若し信修有らば、男女を論ぜず皆是其の人なり。貴賤を簡ぜず、悉く是其の器なり。其の器、来たりて扣けば、鐘則ち谷に響く。妙藥篋に盈つれども、嘗めざれば益無く、珍衣櫃に滿つれども、著ざれば則ち寒し。阿難は多聞なれども是を爲すに足らず。釋迦は精勤なれば、伐柯遠からず。代を擧げて皆然り。悲しき哉濁世、化佛は所以に棄てて入り、五千は所以に退く。毒鼓の慈、廣くして無邊なりと謂ども、干將の誡め、高うして淬有り。師師の誥訓、愼まざる可からず。子、若し三昧耶を越えずして身命の如くに護り、四禁を堅持して愛すること眼目に均しくし、教えの如く修観し坎に臨み積むこと有らば、則ち五智の祕璽、踵を旋すに期す可し。況や乃ち髻中の明珠、誰か亦祕惜せん。努力自愛せよ。還に因りて、此に一、二を示す。
                      釋遍照」


 最澄は、読み終わった書状を無言で畳んだ。
 ――“努力自愛”か。
 “努力自愛せよ”――と、あの男に云われる筋合いはない。
 自分はいつでも己の仏教を深めるための努力は怠ってはいないはずであるし、そのことは周りのものたちとて認めている。
 あのような私度僧上がりの男などに、このような書状によって論われる謂れはないはずだ。
 そもそも、密の奥旨について、あの男は“唯以心傳心”などと云うが――これまでの仏教は、皆、海を渡ってきた経典や仏像などによって伝えられてきたのだ。むろん、鑑真和上のように、自ら渡来して仏教を伝えた僧侶もありはしたのだが、総じてみれば、書物によって仏教を伝えられた――そのことを、最澄は“筆授”と呼んでいる――例の方が、圧倒的に多いのだ。筆授を否定することは、すなわちこの国の仏教のすべてを否定することになるではないか。
 ――馬鹿なことを云う男だ。
 そのような男から、これ以上教えを受けることができるだろうか? 叡山の主たる最澄が、これ以上頭を低くして?
 ――そのようなことなど、できるわけもない。
 最澄にとて、天台一宗の開基としての矜持があった。今まで空海に“師事”してきたことですら、最澄にしてみれば大変な譲歩であったのだ。本来ならば――奈良の僧伽にあるものたちと同じような態度を取るのであれば――、官僧としての蟖の長さなどを考えても、むしろ空海を膝下に侍らせ、密を献じさせても良いくらいではないか。
 ――それを、私度僧上がりが、増上慢になりおって……
 すこしばかりこちらが頭を低くしてやったものを、己が尊いが故であるとでも錯誤しているのではあるまいか。
 最澄は、己の“最も澄める”と云う名に相応しいように、誰に対してもわけ隔てのないように、驕りたかぶることのないように、心がけて人と接してきたのだが――面罵されているにも等しい書状を受け取って、それでも平静でいられるほどには、できた人間でなどありはしなかったのだ。
 ――そも、あの男は泰範を盗んだではないか。
 封じていたはずの嫉妬の焔が、胸の底をじりじりと焼き焦がす。
 高雄山寺に上がってからの泰範は、以前にも増して書状をよこさなくなっていた。円澄からの書状には、特段のことが記されているわけでもない。
 だが、それでも間違いなく、あの男は泰範を盗み獲った、あるいは獲りつつあるのだ。
 泰範が、何故にか自分から心を離しつつあったことを、薄々気づいてはいた。本来ならば、ともに天台一宗を開いてこの国に弘めてゆく、その片腕、むしろ半身とも云うべきであった泰範が――だがそれでも、空海の許へ行くまでは、最澄に対して返書を送って来てもいたと云うのにだ。
 ――あの男の許へ赴いてからと云うもの、泰範は、書状のひとつも寄越さなくなった……
 まるで、昨年正月の叡山帰山が、かれの別離の挨拶でもあったかのように。
 だが、あの帰山そのものも、空海が泰範に云い含めてのものだったのだ。となれば、あの男は、あの時点で既に、泰範を奪い取るつもりであったと云うことなのだろうか。
 そうであるならば――そのような男などに、どうしてこれ以上師事し続けることができようか。まして、“止々舎々”などと云う、激越な誡論――しかし、この書状が“教え諭す”ためになっているとは、とても思えはしなかったのだが――を受け取ってはなおのこと。
 そうとも、空海とても重々承知の上で、この文を送ってきたはずだ。結びの言葉こそ“努力自愛”とあるが、これだけの激論を吐いておいて、最澄がその下から離れることを考えなかったのだとしたら、単なる愚か者に他ならぬ。
 ――なれば、良いではないか。
 向こうがそのつもりであるならば、迷うことなどありはしない。“阿闍梨が然様おっしゃるのでしたらば、そのように致しましょう”とでも返してやれば、そこで話は終わるだろう。
 しかし――
 ――泰範のことは、どうする?
 高雄山寺に居続けている泰範のことは。
 なるほど、密を学ぶについては、引き続き円澄に任せておけば宜しかろう。円澄は、やはり高雄山寺にいるが故に、こちらで筆授によって密を学ぼうとする最澄とは異なり、空海が云うところの“面授”――すなわち、師から弟子に、直接言葉や仕種などによって伝法されること――の要件を満たしている。いずれ円澄は、阿闍梨の名を授けられる伝法灌頂を受けることになるに違いない。
 だが、密のことは円澄に任せるで良いとしても、泰範とのことは――もしも今ここで、最澄空海と完全に袂をわかってしまったなら、こののち泰範に宛てて書状を送るのも、ひどく困難になるのではないだろうか。
 それは困る、と最澄は考えた。
 もはや空海の密を伝法されることなどはどうでもよいのだが、泰範との繋がりを完全に絶ってしまうことだけは許せなかった。かすかにでも希望のあるうちは、自らそれをうち棄てるような真似はしたくなかったのだ。
 それならば、この書状については知らぬふりを決めこんで、密の学習からは手を引きつつも、高雄山寺との繋がりを完全に絶ち切ってしまうことだけは避けなければ。
 ――もはや、経を借り受けることもできまい故にな。
 空海がこのような書状を送りつけてきた以上、『理趣釈』どころか他の経典の貸借にも、否と云ってくる可能性は極めて高い。
 だが、円澄が高雄山寺にあるのだ、写経についてはかれに一任し、自分はそれをおとなしく叡山で待つ、それが、今となっては最善の策ではないか。
 そうなれば、表面的にはこれ以上“筆授”――空海は、それを“越三昧耶”などと云う“罪名”で呼ぶが――をする必要もなく、天台に密を組み込むことも容易くなるだろう。そうとも、それこそが自分の取るべき道ではないか。
 ――とりあえずは、経典をいくつか返却しておかねばなるまいな。
 空海が、別に送りつけてきた書状で返却を要請してきている経典がある。それを戻して、すくなくとも関係までを断ち切るつもりはないのだと、はっきりと示してやらねばなるまい。
 ――もはや、あの男に師事し続けることはない故にな。
 ともかくも、細い糸まで切らぬよう、それだけを心掛ければ良いのだ。
 最澄は、簡単な送り状を書いた。


「守護國界主經一部 短帖
 虚空藏經一部 四巻
 貞元目録初帙 十巻
 右の經疏等、書旨に隨いて件の如く奉上す」


 名を、どのように記すか考えて、“少弟子最澄”と記名する。まだ、空海と完全に切れてしまうつもりはないのだと、あの男に示してやる意味で。
 ――これらの経典も、いずれ私のものとなるかと思っていたが……
 しかし、空海の激烈な論詰を読んだ後では、このままあの男に師事し、密の正統を受け継ぐことに、さほどの魅力を感じなくなっていた。
 どのみち、密は円澄が学んでいる、かれがもしあの男の正嫡となることがあれば、その師である最澄もまた、正統の密の継承者も同じ、と云うことになるのではないか。
 ――まぁ、密が天台一宗の下に組み込まれるのであれば、その経緯は問うまいよ。
 最澄の欲するのは、天台一宗をこの国の仏教すべての上に位置づけることであり、密を己自身で学ぶことではない。
 ――これを“名利の為”と云うならば云え。
 すべては天台一乗をこの国に根づかせるためのこと、それを、新来の空海などに阻まれてなるものか。
 最澄は、弟子に書状を経典とを託し、高雄山寺へと遣わした。
 その後も、空海からは経典の返却を求める書状が届き、最澄が応じて返却する、と云うことが続いて。
 ほとんど密の学習に関する交渉も途絶えたままに、二年の月日が流れたのだ。


† † † † †


お待たせしました、最澄の話、3話目。
また手紙ばっか!


えーと、今回の手紙も新たに読み下したもの。ところどころ上山春平氏の読みとか司馬遼の読みとかを参考にしてますが、多分かなりいろいろ違うと思います――でもだって、訳文結構対句とか無視してんだもん! そこはこだわりだから、ちゃんと対句っぽく訳してやって……!
まァ、いろいろ違う理由の一つは、多分原文そのものが違う(ままありますわね、そう云うこと)ってのもあるんだと思いますが。
まァ、こう云う読み方も有りだよね、くらいでお願いします……


そう云えば、書きかけの逸勢の話に手を入れてて思ったのですが。長安にいる逸勢&阿闍梨→逸勢が死ぬまで、ってェと、薬子の乱が入っちゃうんだよね……マジか。
っつーか、逸勢が帰国後何してたのかがマジわからん。役職わかんないって……!
とりあえずいろいろ頑張りたいですわ……


ホントは理趣経と理趣釈のアレコレに関して書きたいんだけど、結構長いので、別項立てますよ。
ついでに蘇悉地経大般若経理趣分についてもちらりと書いておきたいので、事項は考察で。
先月は5年ぶりくらいにやって来た二次萌え(たいばに・兎虎)の波にざっぱんと呑まれてたので、更新がえらいこっちゃでした、申し訳ございません……
まァ、まだ結構呑まれてるのですが、何とか! 何とか通常運転に戻していきたいと思ってますので、暫、御待ちを……
っつーか、ぴくしぶって魔性だ……っつーか、××年ぶりくらいにメジャージャンル(あ、二次的にですよ)にはまったのがアレなのか……理性大事。ホントマジ大事。


ってわけで、散漫な気がしないでもない(いろんな意味で)けど、この項、この辺で終了します。
次はお経の話!