北辺の星辰 71

 五月三日、四日、五日の三日間、陸軍方で、南軍との小競り合いが幾度かあり、七日には箱館湾内で海戦があった。
 敵方の戦艦は春日、朝陽、それに加えて宮古湾海戦で奪取し損ねた甲鉄艦であり、それを聞いた歳三は、あの戦いで目的を達しえなかったことを後悔したが――しかし、敗北を早めるには良かったのかも知れなかった。
 幕軍方は回天、蟠龍の二艦と、それに加えて弁天、亀田川尻、築島の各台場からも砲撃をしかける大規模な戦いになった。
 幸いと云うべきか、敗れたわけではなかったが、この戦いの最中に回天が機関損傷で航行不能となり、湾内で浮き砲台と化したのは痛手だった。
 海軍で軍艦と云えるのは、この回天と蟠龍のみ、その一方が航行不能となったとあっては、もはや海軍は“海軍”としての体をなさぬ。
 陸軍はまだしも体裁を保ってはいるが、中島の言によれば、歳三が死ねば瓦解すると云うことであったから、いよいよ終わりが近づいてきているのは明らかだった。
 決戦の時は、実際刻一刻と近づいていた。
 八日には、榎本と大鳥が諸隊を率い、七里浜などへ夜襲をかけた。水盃を酌み交わしての、覚悟の出陣であったようだが、幸いにもと云うべきか、大敗したものの両人ともに怪我もなく無事に帰還してきた。
 但し、この大敗が兵卒に与えた衝撃は大きかったようで、この日から前後して、主に陸軍の中から脱走者が現れるようになっていった。
 ――大将が出陣して大敗では、確かにいよいよ危いな。
 海軍は死に体、陸軍は大敗では、いよいよ話にもならぬ事態になったと云うことだ。
 榎本は、まだ戦えると嘯いているようだったが、副総裁である松平太郎は現状をよく把握しているのだろう、悲壮な面持ちで指示を飛ばしている。目端の利くあの男のことだ、裏では着々と、降伏後の準備を進めているに違いない。
 そして九日になって、伊庭が五稜郭内に移ってきた。箱館病院にいるままでは、最後まで生き残ってしまうだろうと、それを案じてのことであるようだったのだが――死に瀕しながらも闘志の失せぬ、その様には感嘆をおぼえずにはいられなかった。
 歳三の考えているのは、もはや、いつ、どの場面で死んだなら、最も自然なかたちで、最も効果的に幕軍の士気を下げることができるか、と云う一点に尽きた。
 幕軍の命運はとうに尽きている、その中で、どうやって決定的な敗北に士卒の思いを致させるか、それが、ことここに至っての歳三の使命であったのだ。
 九日は戦闘もなく、静かな一日であった。嵐の前の静けさと云うものだな、と思っていると、放っていた斥候――細作と云っても良い――が、重大な情報を持ってきた。
 それによれば、南軍は二日後の十一日に、大規模な攻撃を計画し、今はそれに備えて隊を整えている最中だと云う。
 兵卒に具体的な作戦は知らされていないようだが、出撃までに英気を養っておくようにと云う通達が出ているようなので、日程だけは間違いないと云うことだった。
 それを聞いた榎本は、それならばと前日十日の夜に、大規模な宴を催そうと云い出した。敗北は目前に迫っているのだから、別盃をかわしておきたいと云うことのようだったが、それが南軍に伝わって逆につけこまれることにはならぬかと、歳三はそちらの方が心配になった。
 とは云え、いずれにしても敗北が避けられぬのであれば、それが早ければ早いほど損害が少なくて済む道理だ。それならばそれで良いかと思い、歳三は十日の夕刻、宴の催される新築島・武蔵野楼へと出向いていった。
 武蔵野楼は箱館きっての妓楼で、三層の館はあたりの町並みから頭ひとつ飛び出た恰好でよく目立つ。歳三も、その姿はよく目にしていたが、京より下ってこの方は、女遊びも縁を切っていたので、中に足を踏み入れるのは、実はこれが初めてだったのだが。
 大広間は、既に箱館府の幹部でいっぱいだった。
 上座には榎本を中心に、松平太郎と永井玄蕃、大鳥に荒井郁之助、中島三郎助の姿もある。歳三の席は、その端の方にあるようだった。
 それから、諸隊の隊長や隊長並、軍艦や輸送艦の館長とその副官など、すべてが揃っているわけではあるまい――警護の当番や何かで外れられないものもある――が、それにしても四十名近いものたちが集っている。
 歳三はそっと着座し、隣りの大鳥に、薄く笑んで目礼した。
 主要なものが揃ったと見るや、榎本は盃を掲げ、口を開いた。
「諸君、今や南軍はこの箱館に迫り、明日にも攻め寄せてくるとのことである――諸君らの奮闘も虚しく、こうして決戦の時を迎えることとなったのは、すべて私の不徳の致すところだが……」
 海軍畑からは否定の声が上がり、陸軍のものたちは沈黙している。くっきりとした、この温度の差。榎本の最大の敗因は、陸海二つの軍勢を、遂にひとつにまとめ得なかった、そのことであったのかも知れぬ。
「――明日以降、敵は大挙して攻め寄せてくること必至。我ら徳川に恩顧あるものども、せめて旗本・御家人の意地を見せるべく、この一戦に散る覚悟にて臨もうぞ!」
「「「応!!」」」
 こたえる声がひとつになる。
「乾杯!」
 榎本の声に、一同それぞれ酒で満たした盃を乾す。土器であったなら、皆、盃を床に叩きつけて割り、還らぬ決意を示したのであろうが、漆の朱盃であってはそうもゆかぬ。皆、盃を前の横に置き、最後の晩餐に箸をつけた。
 膳のものを食べながら、歳三はゆっくりと、宴席に居並ぶものたちの顔を見た。
 末座の方には、大野右仲、相馬主計などの姿が見える。相馬は弁天台場の守将として、大野は陸軍奉行添役としての出席なのだろう。まなざしを転じれば、額兵隊の星の姿もある。まさしく、最後の宴と云うに相応しい顔ぶれであった。
 だが、当然ながら、伍長である島田魁や、新撰組隊長である森彌一左衛門――森常吉も加わってはいない。
 ――明日にでも、顔を見てくるか。
 もちろん、五稜郭に帰参したその日のうちに、弁天台場を訪れて、皆の顔を見てはいる。
 だが、いよいよ最後となってくると、やはりもう一度――言葉にすることはないにせよ――、挨拶をしておきたいと思うのは、当然の心持ちだっただろう。
 まぁもっとも、その暇があればの話ではあるのだが――そう思いながら、盃を傾けていると、
「――奉行」
 銚子を持った相馬主計が、膳の向こうに坐りこんできた。
「おう、相馬」
「宜しければ、一献差し上げても?」
「おお」
 盃を差し出すと、そこに酒が注がれる。それを呑み乾し、口をつけた後を拭って差し出せば、相馬は神妙な顔で受け取った、注いでやると、一礼してぐいと呑み乾す。
「……いよいよでございますな」
 決戦の時は。
「ああ。早いと云うべきか、よく保ったと云うべきか、悩むところだな」
「保ちましたでしょう。これも偏に、奉行のお働きあればこそです」
 生真面目に相馬が云う。が、今はその生真面目さが拙かった。“常敗将軍”大鳥や、何だかんだで負け続きの榎本が聞けば、気を悪くすること請け合いだったからだ。
「……弁天台場の様子はどうだ。島田なんぞは変わりねェか」
「島田さんはいつもどおり、若い連中を叱咤して、きりきり追い使っておりますよ」
「そうか」
 会話がふっと途切れた。
 無言で銚子が差し出され、盃で受ける。
「――おめェは……」
 この戦の後どうする、と問いさしたところで、
「奉行」
 相馬の横に、やはり銚子を手にした大野右仲が坐りこんできた。
「一献差し上げても?」
「ああ」
 頷くと、相馬が一礼してその場を立ち、大野に譲って去っていった。
 そこからは、入れかわり立ちかわり、額兵隊の星や伝習歩兵隊の大川、伝習士官隊の滝川などがやってきて、酒をすすめてくるものだから、歳三はほど良く酔っ払ってきた。
 ふと見れば、既に座は崩れきっており、榎本は向こうの隅で海軍のものたちと、大鳥は反対側で陸軍のものたちと、それぞれ車座になって話しこんでいるようだ。日頃渋面ばかりの松平太郎の前にも、二人ほどが陣取って、穏やかに酒を酌み交わしている。箱館奉行の永井は中座したものか姿が見えず、黙々と膳のものを食っているのは、歳三と、中島三郎助くらいのものであるようだった。
 と、中島の目許が、かすかな笑みに歪んだ。外を指す仕種、別室に移るかと云う誘いのようだ。
 歳三が頷くと、中島はにやりと笑って仲居を呼びとめ、別室を用意して、自分と歳三の膳を運ぶように云いつけたようだった。
 相手が頷くと、中島はまたこちらに向かってにやりと笑い、近くの襖を開けて、するりと外へ抜け出てしまった。
「……お運びして宜しゅうございますか」
 ふと見れば、別の仲居が目の前にいる。
 歳三は慌てて頷くと、中島の後を追うべく立ち上がった。


† † † † †


鬼の話、続き。
きたぞ武蔵野楼!



ってわけで、箱館府最後の宴でございます。
以前このあたりのことは、某箱館アンソロで永井玄蕃さん視点で書いたのですが、今回鬼視点で書くと、またちょっと違ってきてこれはこれで。
次の章の中島さんとの呑みが、私的にはこの宴のメインなので、そこらへんで楽しく書けましたですよ。
つか、この辺書いてる時に初めて、なるほど、島田とかの顔見に行くつもりだったのかもなぁと思いました。いや、もうちょっと距離置くのかなぁとか思ってた(だって島田はry)ので、意外な感じがしたと云うか。まぁこう云うとこは、細かい設定してないからこそのアレだなぁと思いましたです。



あ、そうそう、前回書きそびれたの、思い出しました! YJ連載中の『ゴールデンカムイ』、最新3巻の表紙のカッコいいジジイが実は鬼らしいんだぜ! と云うアレコレ。
チラ見したら、ぱっつぁんとかも出てきてましたよ。あれ、あの話って、明治何年設定だ……?
髭でややヒネ気味の爺さんカッコいい! けど、鬼かと思うとな……顔は好みなんだけどな……まぁ、今、本置く場所的に余裕がないので、YJチェックしつつ、買うかどうかは悩みますわ……青年誌のああ云うのは、絶対長くなるからな……
そう云や、『風光る』を久々にチラ見したら、こっちは鳥羽伏見、っつーかかっちゃん狙撃後でした。とりあえず、うっすらチェックはするが、何となく、沖田病死まで江戸に残るセイ→沖田の遺命で箱館へ、って云う、やや『薄桜鬼』的な展開が予想され。当たったら笑うけどな。
とりあえず新撰組ものは、『アサギロ』一本で充分だなー。続刊はよ!



さてさて、次は武蔵野楼後半、中島さんと呑み! 呑み!
そしたらその次が、このお話ラストですよ。八月中には確実に終われるな……