北辺の星辰 2

 近藤勇と云う男は、下り坂には滅法弱い。
 もともと低いところに居る分には、それを嘆いて後ろ向きになることなどなかったのに、上へ上がってしまうと、もう下にいた時のことがわからなくなる。下にいる人間の心にも疎くなる。
 かつての歳三には、近藤のそういうところが見えていなかったのかも知れない。だからこそ、無邪気に近藤を担いでいくのだと決意できたのかも知れない。
 知って、愕然としたのは、池田屋事件の後か――いいや、もっと前、殿内を総司に斬らせたあたりだった。
 あの頃から、近藤は変わった。有体に云うなら、慢心した。壬生浪士組の局長のひとりとして、得た力に酔っていたのか、驕慢な態度が目立つようになった。
 それでも、他のふたりの局長――芹沢鴨新見錦――ほどではなかったため、局内でもさほどの反発は受けなかったのだ。
 本当に変わったのは、池田屋の後だ。あれから、近藤は本当に変わった。永倉新八斉藤一などの、試衛館時代からの同志たちにも、その驕りを憎まれるほどに。
 そうしてかれは、誰の諫言も聞かぬようになった――自分はもとより、兄のようでももうひとりの父のようでもあった、井上源三郎の言葉すらも。
 だから、先だっての甲陽鎮撫隊敗退の際に、永倉や原田左之助などが、かれと袂を分かっていったのだ。
 近藤は驕り昂ぶった。旧くからの盟友たちを臣下扱いしようとした。だから、かれらが出て行ったのは、当然のことだったのだ。
 ――俺だって、もう真っ平だ。
 歳三は、下唇を噛みしめて、広縁の端に坐りこんだ。
 そうして、細い三日の月を睨み据える。
 真っ平だ、あんな男とともにゆくなど――あんな、腑甲斐ない男を、これ以上担ぎ続けるなど。
 京に上ってからずっと、歳三は、近藤の担わぬ隊務をこなし続けてきた。かれが島原で遊興に耽っていた間も、あるいは妾宅に居続けていた間も、新撰組を取りまとめ、指揮し、会津などとの連絡をとって、隊のすべてを取りしきってきた。
 ああ、そうだ、だからかも知れぬ、近藤が、たやすく新撰組を投げ打ってしまえるのは――かれが、ほとんど隊の実務に関わってはいなかったからであるのかも。
 ――だが、俺は違う。
 歳三は、握りしめた掌に、痛いほど爪を突き立てた。
 自分は違う、自分こそが、新撰組をここまでまとめ上げてきたのだ。自分は、近藤のように、ここで切腹して果てようなどとは思わない。それには、自分が築き上げてきた“新撰組”の存在が許さない。
 ここで、局長が、あるいは加えて副長の自分までもが無駄死にしては、今まで、ここまでついてきた隊士たちは、これまでの戦いは一体何だったのかと思うだろう。隊規に掲げた“士道”の言葉は、飾りでしかなかったのかと思うだろう。局長や副長がそれを真っ先に裏切るなど――そんなことは許されない。
 そしてまた、かれらが斬り捨ててきた隊士たちの生命の重みは。
 ――山南さん、藤堂……
 殿内、芹沢、新見、伊東甲子太郎、その他の幾多の隊士たちの、斬り捨てられた生命の重みは。
 ああ、そうだ、歳三は、今でもまざまざと憶えている。ごろりと落ちた山南の首、血の海に沈んだ伊東の恨めしげなまなざし、無惨に刻まれた藤堂の屍――肚を切った隊士たちの、追手をかけて斬り捨てた隊士たち、かれらの無念の死顔を。あるいは、隊務で斬ってきた、幾多の勤皇志士たちも。
 それをなかったように、新撰組を捨てることなどできはしない。捨てずに、屠ってきたひとびとの記憶を背負って生きること、それこそが、歳三たち、生きてある人間に課せられた務めであるのではなかろうか。
 よかろう、近藤は、ここで新撰組を捨てるがいい。だが、自分は捨てはしない。捨ててたまるものか。
 ああ、だが、自分たちは何と遠くへきてしまったのだろう。江戸を出てたかだか六年、その六年の間に、何と自分たちは変わり果ててしまったことか。
 試衛館時代からの同志たちのうち、山南と藤堂は自分たちが斬った。井上源三郎は鳥羽で散り、原田、永倉は去っていった。残ったのは、自分と近藤、それから、病床にある沖田だけで、それも今また別れていこうとしている。
 ――ああ、そうだ、総司は……
 千駄ヶ谷で、病の床にある沖田総司は、かれらが遂に道を違えたことを知ったら、どのような顔をするのだろうか。
 近藤を父のように慕っていた沖田のことだ、きっと、かれは悲しむだろう――だが、仕方ないことだともわかってくれるに違いない。かれとても、近藤の変貌には苦いものを感じていなかったはずはないのだから。
 それでも――
「――総司……すまねぇ……」
 歳三は、俯いて小さく呟いた。
 かれを悲しませることがわかっていても、それでも、もはや近藤とともにゆくことはできなかった。
 歳三の頬を、涙が伝い落ちた。
 近藤との決別は、ひとつの時代が終わったのだと、その事実を否応なしに歳三に知らしめるものだった。
 井上は亡く、沖田もいない。自分も、もう多摩のばらがきではありえない。そのことが、これまでにない感慨をもって、かれの胸を締め上げた。
 ――今だけだ、こうして感傷にひたるのは、今だけのことだ……
 明日になれば、かれは新撰組副長として、近藤と別れて後の統率者として、隊士たちの前に立たねばならぬ。感傷にひたっている暇など、なくなるのだ。
 だが、だからこそ、今だけは。
 歳三は、すこし背を丸めるようにして、今は遠い幸福の日々に別れを告げた。


† † † † †


鬼の北海行、続き。
ホントは、鉄ちゃんの続きを書きたいんですが……ここも書いておきたかったので。


鬼の愚痴の嵐です(苦笑)。
何かもう、鉄ちゃんsideだとあんなに簡単だったシーンが、鬼視点だとこんなに長々と……(笑)
つーか、こんだけ近藤さんに対して不満炸裂な鬼もないよなぁ。
多分、近藤さんの方も、鬼に対して云いたいことはあったとは思う――『燃えよ剣』の近藤さんみたいなことを、だけどもっと怨みつらみをこめてね(笑)。
まぁ、だから熟年離婚だったんだよ、このふたりは。でもって、「あんな人を夫にするんじゃなかった」と云うお母さん、それがこの鬼です。
でも、家庭内離婚(笑)の期間も、この人たちすごい長かったよ、多分ね。


しかし多分、鬼と近藤さんは、割れ鍋に綴じ蓋だ――鬼には、近藤さんよりしっかりした人は御せなかったと思うし、あんまり大きな組織(幕府とか)の中心で働けるタイプでもなかった。
新撰組副長”が、ちょうど身の丈にあった役職だったんだと思う――器が小さいんだよ、鬼。所詮、末端で働くべき(そしてこき使われるんだけど)人間だったのさ〜。ああ、まったくな!


あああ、勝さんが、勝さんが書きたい〜! 勝さんいいキャラですよ! 「写真は現物より二割増いい男」(電波情報)って、それどう云う意味だ沖田番! そんなにぐだぐだしてるのか、勝さん! ……そうだっけ? 普通にいい味出してる人だと思ったけどなぁ。いいですよ、勝さん!
……と、既に暴走気味ですよ、すみませんねぇ……


この項、終了――ちょっと短いかなぁ……