北辺の星辰 16

 母成峠からの敗走は散々だった。
 整然と速やかに、などは、望むべくもなかった。三々五々、取るものもとりあえず逃げ出すのがやっとのことで、砲弾を避けながらの敗走に、山中を彷徨うものも多かったと云う話を、後になって聞いた。
 歳三は、何とか本道を見つけることができ、夜には猪苗代に落ち延びることができていた。
 猪苗代で、敗走してくる会津のものたちに、大鳥や新撰組の状況を訊ねるが、誰も知らぬと云う。敗走の最中で討たれたか、あるいはまだ逃げ延びる途中であるものか――いずれにせよ、猪苗代までは来てはいないと云うことのようだ。
 大鳥が落ち延びていないのならば、仕方あるまい――次善の策は、歳三が練らねばならぬ。
 歳三は思案して、中地口の会津藩家老・内藤介右衛門、及び御霊櫃峠の会津砲兵隊長・小原字右衛門に、援軍を求める手紙を書いた。
「弥以御大切と相成候。明朝迄ニハ必猪苗代江押来り可申候間、諸口兵隊不残御廻し相成り候様致度候。左も無御座候は明日中ニ若松迄も押来り可申候間、此段奉申上候。 土方歳三
 すなわち、薩長軍が、明朝までに必ず猪苗代へ押し寄せてくるので、各所の兵をすべてこちらへ回し、その守備に当たらせるようにと――さもなくば、明日中にも敵は会津若松まで進軍するだろうと、そのような警告の手紙を出したのだ。
 手紙を認め、早馬を立てて、書状を託す。この手紙が、会津を救う何がしかの助けになればと、祈るように思いながら。
 夜半、斉藤一が猪苗代へ現れた。
新撰組本隊とはぐれて、山中で迷っていた」
 と、斉藤は、昔のようなぶっきらぼうな口調で云った。そう、かれらがかつて試衛館の食客であったころのように。
「二本松の黒田と云う御仁と出会って、ともに窮地を脱した――もっとも、その後で、またはぐれてしまったが。あんたは、どうしてたんだ、土方さん」
「俺は、本陣で戦況を見ているだけだった」
 歳三は、かるく肩をすくめてやった。
「大鳥さんも、俺を出してはくれなかったんでな。――先刻、御家老に援軍を求める書状を送ったが……薩長の輩が来るまでに、果たして援軍が間に合うかどうか」
 新撰組本隊はどうしているのだろう。島田や安富、京から、江戸からやってきた隊士たちは。
 かれらを、薩長の手から守り、無事に“新撰組”を終わらせるためにここまできたと云うのに――このまま、敗れ去っていくことしかできないのか。
 ――そんなことが許せるか。
 だが、ここでただ会津の云うなりに動くだけでは、とても勝利は望めなかった。
 だから。
「――斉藤……俺ァ、庄内へ行こうと思う」
 勝利へのみちを探るために。
 歳三の言葉を聞いた斉藤の目が、剣呑に輝いた。
「……どういうことだ」
「言葉のとおりさ」
 歳三は云って、またかるく肩をすくめた。
会津は、あてにならねェよ。会津、二本松だけでは、薩長にやられるがおちさ。そうなる前に、庄内へ行って、この奥州の佐幕派の藩国の取りまとめをはかる」
 そもそも、それこそが勝から託された、歳三の本当の使命であったのだ。
 幕軍は、会津に深入りしすぎたのだ。はじめから、ここで留まることなく、仙台や福島などと共闘体制をとっていれば、会津もここまで総崩れになることはなかったのではないか。
 否、会津の首脳陣の動きの鈍さを考えると、たとえ奥州佐幕同盟がうまく機能したとしても、この戦いには敗れていたのかも知れないが。
「……会津を、捨てるのか」
 軋る声で、斉藤が云った。その双眸は、歳三を射殺さんばかりに輝いている。
「人聞きの悪いこと云うねィ。援軍要請ってェやつさ」
「だが、会津は今、あんたの力が必要なんだぞ。庄内になぞ、他の誰が行こうが同じだろう。だが、指揮を執るのは、そうはいかない。それを、あんたは……会津候の御恩も忘れて、ここを捨てていこうってのか」
「――斉藤」
 遂に、歳三は声を低くした。京時代、よく誰かを威嚇するのに使った、低く這うような声――そして、眇めたまなざしで、斉藤を見つめ返す。
「俺ァな、これでも幕臣の端くれなんだぜ?」
「……俺もそうだ」
「違うな。おめェは、もう会津の人間になってやがる」
 その言葉に、斉藤がびくりとするのがわかった。歳三の言葉を否定しようとして、否定しきれずに口ごもっているかのような、複雑な表情がその顔をよぎってゆく。その口は、幾度か開きかけ、結局は何の言葉もこぼしはしなかった。
 だから、歳三は、そのまま言葉を続けた。
「知ってるんだよ、俺ァ……おめェが、本当は誰に仕えたいと思っていたのかを――胸のうちで、誰を主と仰いでいたのかを」
 そうとも、歳三は知っていた。斉藤が、本当は幕臣になどなりたくなかったことを――できるなら、会津候の下で働き続けたいと、そう思っていたことを。
「土方さん……」
「俺ァ、おめェが誰に仕えようが構わねェよ。まァ確かに、豚一公よりァ、会津候の下の方が、働き甲斐はありそうだとァ思うしな」
 己の身可愛さに、戦場の兵たちを欺いて、江戸へ逃げ帰る将軍と、かねてより新撰組に目をかけてくれた会津公と。人として、どちらに仕えたいかと訊かれれば、もちろん後者だと、歳三とても答えるだろう。それは当然の感情だ。そうとも、それはよくわかっている。
 だが。
「――だがなァ、俺にも、譲れねェもんはあるんだぜ、斉藤」
 歳三は、出会ってしまった。会津公よりも生命を捧げられる相手に。
 勝のために、今の自分は動いているのだ。それは、あの時かわした、沖田の身を安堵すると云う約定のためでもあったが――しかしそれ以上に、歳三の心が勝に傾いたが故であったのだ。
 幕軍を保持し、奥州の佐幕の列藩を取りまとめ、徳川幕府、あるいは徳川家の存続のために動く、それは、歳三が幕臣であるが故と云うよりも、むしろはっきり勝のためだった。勝が、徳川の存続を望むが故の。
「俺ァ、幕臣としてここまできてるんだ、会津の人間としてじゃあねェ。会津に巻きこまれて、幕軍がここで潰されるようなことァ、許されちゃあならねェんだよ」
 何とかすくない損失で会津戦を切り抜け、奥州をまとめ上げて、薩長に対抗し得る同盟を築かねばならぬ。勝より託された命を、みごと成し遂げてみせなくては。
「……俺は納得できん」
 斉藤が、むくれた子供のような顔で、云う。
 歳三は、思わず笑いをこぼした。
「おめェが納得する必要なんざねェよ」
「ある」
「ねェさ。おめェは、俺がどうあろうと、会津に肩入れするつもりなんだろう?」
 歳三が、どうあっても勝の命に従おうとするように。
 斉藤は答えない。だが、その沈黙こそが、何よりも雄弁に、かれの胸中を物語っていた。
 そら見ろ、と、歳三は笑ってやった。
「おめェは、俺と行動をともにする気なんぞねェのさ。――だがまァ、それはそれで構わねェんだ」
 斉藤が行動をともにせぬ、と云うことは、“新撰組”の大きな部分が欠けて落ちることに他ならないのだから。それはすなわち、それだけ“新撰組”が解体に近づくということだ。
 “新撰組”が解体されれば、歳三はやっと、心置きなく生きることができる――心置きなく死ぬことも。
「何が構わないんだ」
 斉藤が、不審なまなざしを向けてくる。
 それに、歳三は無言で笑みを返した。
「……あんたは、おかしなひとだな」
 沈黙に耐えかねたように、斉藤が云った。呆れたような溜息がひとつ。そんな風なこの男を見るのは、とても珍しい。
「俺のどこがおかしいってェんだ」
「あんたは、何か……」
 云いながら、斉藤は首をひねっている。
「……うまく云えん――だが、あんたは、俺が離れていくのを喜んでいるようだ」
「……そんなこたァねェさ」
 そんなことはない。そんなことはないが――斉藤が離れていくことに、肩の荷がひとつ下りたような安堵を感じているのも、本当のことで。
「……ただ、おめェが譲れねェもんがあるように、俺にだってあるのさ、これだけは譲れねェってェ、大切なもんがな」
 勝より託された命を果たすことと、生きているうちに“新撰組”を解体すること。それを成し遂げるためには、この会津にただ留まっているわけにはゆかぬ。
「だから、俺は庄内へ行く。おめェは、おめェの譲れねェもんのために戦やァいい――永倉や原田だって別れていったんだ、おめェだけが新撰組に留まり続けなきゃあならねェってェ法はねェだろうさ」
「……俺には納得できん」
 斉藤は繰り返した。
「だから、できねェでも構わねェんだよ」
 歳三は云って、また笑いをこぼした。
「俺ァ行く。おめェは留まる。ただそれだけのことだ。――隊士連中も、おめェとともに会津に残りてェ奴ァ、残らせるがいいさ。但し、“新撰組”の名は、おめェらは名乗るなよ」
「何故」
 ――おめェまでが名乗ったんじゃあ、いつまで経っても“新撰組”がなくなりゃあしねェだろ。
 だが、その言葉を口に上せることなく、歳三は嫣然と笑んだ。
「――じゃあな、俺ァ行くぜ。滝沢本陣へ行って、庄内行きを認めてもらわなけりゃならねェ。もしも、おめェがまだ新撰組に留まるなら、隊のこたァ任せた。だが、そうでないなら……惑うこたァねェ、おめェの思うようにすりゃあいいさ」
 片手を上げて云う歳三に。
「……土方さん!」
 斉藤が、怒りとも嘆きともつかぬ叫びを上げた。
「俺は、あんたを一生赦さないぞ!」
「あァ、構わねェさ」
 歳三は云って、ひらひらと手を振った。
 赦されなくとも構わない。ともに歩まなくとも――むしろそれこそが、歳三のためだ、“新撰組”を終わらせるため。
「……土方ァッ!」
 斉藤の叫びを背で聞きながら。
 ――じゃあな。
 歳三は、わずかの寂寥とともに、古い友に別れを告げた。


† † † † †


鬼の北海行、続き。
いよいよ会津→仙台、かな?


の前に、一ちゃんと口論。
一ちゃんの談話として、鬼と会津を離れる云々で喧嘩した、というのがあるそうなので、まァこんなカンジかなーと思って書いてみました。鉄ちゃんの話で考えてたのとは、随分違っちゃったなァ……
でもって、ええ、相変わらず、うちの鬼は勝さん命! なんですよ、すみませんねェ……
世間的には“勝さんじゃなくてかっちゃん!”だと思うんですが、うちのはほら、かっちゃんとは喧嘩別れしてるから。この時点で、ホントにかっちゃん大嫌いだから。
つーか、あの、腐/女/子的アレで申し訳ないんですけども、こと勝さんに関しては、私、土勝推奨なんで! (や、別に何もなくて全然OKですが! 方向性として!) ……しかし、同志は極めて少なそうだなァ……(泣) いいじゃん、体格差的に正しいし、下克上ですぜ! 同志いませんか、同志!
それ以外は、ギリで沖土かな……(押し倒す鬼が想像できん) 他のCPはちょっとキビシイ、ビジュアルとか、いろいろねー。


あ、そうそう、『箱館戦争銘々伝』上下巻、発行されましたねー。
しかし、うきうきしながら人文書のコーナーに行ったら、在庫あったのは下巻のみ……「何か、事故ったらしくて、上巻が入荷してこなかったんですよ」とは、日本史担当らしきアソ男子の言。「今、N販に問い合わせてて返答待ちなんですけど……入ったら連絡しますか?」(←思いっきり面割れてますんで)「それじゃ、明日の掛本回収時までに入荷したら、一緒に箱に突っ込んどいてください」――と云っていたのですが、どうやらみつからなかったらしい。翌日見た処理済の本の中には、上巻はなかった……
翌日再チャレンジすると、「まだなんです〜。一階(=文学)に行ってたらしくって、売りち(売り場違いね)で回ってくると思うんですけど」と云う返答。そうか、じゃあもう任せたよ。と、タイトルと金額を書いた紙を押し付けてきちゃいました。
7月28日現在、上下巻とも手許にありますが、う〜ん、まァあってよし、なくてもよしと云うカンジ。とにかく、人選が微妙。何でタロさんがいないの、星さんも! 野村、安富は仕方ないとしてもさァ……まァ、柳川熊吉さんや田元研造さんとかは載ってるので、いいんですけども。
箱館戦争関係の細かい人間図が知りたい人向け、だけど、むしろそれの入口ってカンジかも。
ついでに買ったバベルプレスの『新撰組』は、アメリカ人の書いた本で、出だしが当時の世界情勢に対する大政奉還の影響について、から書かれているのが面白そうでした。¥1,400-とお安めですよー。


そう云えば、『銘々伝』見て思ったんですけども、どなたか、鳥さんあたりの下にいた“清水さん”(下の名前不明)と云う方ご存知ありませんかー。釜さんとか鳥さんとかのお使いをしてた(と云うとパシリっぽいな……)人らしいのですが。五稜郭陥落前に、さっさと官軍に投降したひとらしいです。……どんな人なんだ。


この項、終了。