めぐり逢いて 30

 大垣に帰りついてしばらく経った、明治五年初秋、鉄之助は血痰を吐いた。
 ――やはり。
 覚悟していたことだったが、実際に吐き出されたものに混じる朱のいろをみると、残された時間があまりないことが実感される。
 京にあるころからずっと、労咳に罹っていた沖田や玉置の傍にいたのだから、罹患していない方が不思議ではあったのだが――こうして病を発することになったのは、やはり、副長とともに死ぬことを得なかったから、その気落ち故なのだろうか。
 ともかくも、こうなった以上は、兄に事情を話し、兄嫁などにうつさぬよう、離れたところに部屋を与えてもらうか――あるいは、どこへなりと放逐してもらわねば。
 いずれ、沖田や玉置がそうであったように、病み衰えて起き居することもままならなくなるだろう。肺腑は病に蝕まれ、呼吸をすることも困難になるだろう。
 その前に、己の身の始末をつけたいと念じてきたのだが、どうやらそれは、叶わぬことになるようだ。
 己の病のことを打ち明けると、兄は、動揺した様子ながらも、
「……わかった。お前の望みどおり、離れを作ってやろう。……何、案ずるな、お前ひとりを養うなど、どうとでもなる」
「ですが、そのために離れを作るなど……」
 今の兄の働きでは、それこそ家計を圧迫することにはなるまいか。
 だが、兄はにこりと笑った。
「お前が持ち帰った三百円がある。あれだけあれば、家一軒普請するのは難しくとも、お前が養生するための離れを建てるくらいは大丈夫だ」
「も、申し訳ありません……」
 兄とても、妻を養ってゆかねばならぬと云うのに、その上病の弟を抱えることになろうとは。
「案ずるなと云っているだろう。お前は心を安んじて、養生に専念するのだぞ」
「……はい」
 兄は、言葉のとおり、鉄之助のための離れを庭先につくり、そちらへかれを住まわせた。
 鉄之助の面倒を見るのは、老僕がひとり――まるで、沖田のそばにいた老婆のようだと、かれはすこしおかしくなった。
 離れへ移ってから、鉄之助は、自分がめっきり弱ってきたと思い知らずにはいられなかった。
 大垣の冬は、蝦夷には遠く及ばぬにせよ、中々に厳しい。凍る空気が肺腑を縮こめ、ただでさえ弱くなった呼吸を苦しくする。咳きこんだ拍子に胸の奥で何かが剥がれ、それとともにこみ上げてくる、生臭い鉄のあじ
 げほり、と咳をすれば、押しあてた手拭いが赤黒く染まる。
 げほりげほりとこみ上げる咳――息が吸えない、まるで、畳の上で溺れていくかのよう――
 ――沖田さんも……
 止まらない咳に涙が滲む。大きく喘ぎながら、鉄之助は、同じ病で逝ったものたちのことを思い浮かべていた。
 沖田も、玉置も、こんな風に苦しんだのか。ひとりで伏して、去っていったものたちのことを思いながら、こうして水の外で溺れていったのか。
 辛くはなかったのか――自分をひとり置き去りにした、皆を恨みはしなかったのか。
 ――俺には、無理です……
 かれらのように、微笑みを浮かべながら死を待つことなどできはしない。
 せめて、今、いくさ場があったなら――あるいはこれから、動けなくなるまでの間に、死地があるのなら。そうすれば、まだしも鉄之助にも、何かの希望が見出せるのだろうに――
 あるいは。
 沖田も、このような心地であったのだろうか。北へ赴く副長を見送りながら、その背を追っていくさ場へ往きたいと、戦いの最中にあい果てたいと、そう願いながら床に臥していたのだろうか。あるいは、箱館の療養所で、ひとり病と闘っていた玉置は。
 鉄之助にはわからなかった。かれらが、それでも最後まで笑みを絶やそうとはしなかったから。
 わからないまま、鉄之助はただ、嵐の気配を待っていた。平穏を取り戻そうとしている、この明治の世に、まだ吹き荒れるだろう嵐の気配を。
 兄からちらちらと漏れ聞くところでは、昨年の解放令、脱刀令により、武士階級は事実上消滅し、ただ名のみ“士族”と呼ばれ、禄もなく働くすべもなく、困窮するものが多くなっているとのことだった。
「してみると、俺などは、早々にこのように農民になっておいて、却って良かったのかもしれないな」
 などと云って、兄は笑みをこぼしていたが、その兄とても、刀を鍬に持ち替えて、なれぬ農事に就くことは、ひとかたならぬ苦労があるのだろうと察せられた。
 新撰組のものたちは、一体どうしているのだろう――遠い空を眺めやり、鉄之助は考えた。
 兄はまだ、勘定方で、実戦に出ることはすくなかった。だが、相馬や安富、島田などは、もはや人斬りとしてしか生きられぬほどに、戦いと日常とが密接な日々を送っていたはずだ。かれらは一体、“ご一新”後のこの日々を、どのように暮らしていくのだろうか――あるいは、鉄之助と同じように、起こり得る嵐の気配を、息をひそめて待ち続けるのか。
 だが、鉄之助には、もはや時間は残されてはいなかった。
 日に日に身体は病み衰え、咳が肺腑を痛めつけ、喉から血を吐き出させる。褥の中でもがきながら、未だ気配すら見えぬ嵐を待つ――この身が動けるうちに、この息が続くうちに、戦いの気運よあれかしと願いながら。
 息がこぼれる。苦しい、溺れる、溺れてしまう。咳が胸を震わせ、呼吸ができなくなる――
 明治六年の春先には、鉄之助は、すっかり衰えて、もはや立ち歩くこともままならなくなっていた。
 褥に臥して、明るく晴れ渡った空を見上げる。嵐の気配などいかなる意味においても感じられない、美しく澄み渡った蒼穹を。
 ああ、このままここで死にゆくのか――
 そう思った途端、居たたまれない心地に駆られた。
 そうだ、乱はいずれ起こるだろう。それを、ただここで待つでは、鉄之助はその場に間に合うことはないだろう――それならばいっそ、嵐を求めて旅立つべきではないか。
 会津や、かつての奥州同盟の同盟国では、新政府に不満を持つものも多かろう。そこへと出向いて、嵐の吹き荒れる瞬間を逃さなければ、病身の自分でも、いくさ場で散ることが叶うのではないか。
 そうであれば。
 鉄之助は、起き上がって、こればかりは手元から離さずにいた自身の刀を、痩せた腕に抱いて往こうとした。
 だが。
 その瞬間、激しい咳が喉を塞いだ。刀を抱いたまま身を折って咳きこむ、その喉から、ごぼりとあふれる腥い血潮。
 吸いこむ息が毀れおち、ひょうひょうと喉が鳴った。
 溺れる、畳の上で、己の吐き出した血と、吸えない息とに溺れてしまう。
「……ぁ、す……け……」
 苦しい。もがく指先が畳目を掻く。
 苦しい、苦しい、助けてくれ、誰か、このままではすっかり溺れてしまう……!
「……鉄……!」
 兄の声が聞こえた、ような気がした。抱き起こされる気配、だが、それもやがて遠くなり。
 ふと気がつくと、苦しさは嘘のように消えていた。
 と同時に、見慣れぬ場所に佇む己に気づき、鉄之助は、用心深くあたりを見回した。
 灰色の霧の立ちこめる、見知らぬ場所――ぼんやりと、彼方に光。そして、水の流れる音も聞こえてくる。
 そうだ、この光景には憶えがある。ここは、死してのち、生まれ出ずる前に通るべき場所だ。
 それでは自分は死んだのか――もはや息苦しさもない胸を抱え、鉄之助は思った。
 死んだのであれば、自分は大急ぎで、沖田らの後を追わねばならぬ。かれらが次の世へと向かったのであれば、そのように。
 鉄之助は意を決し、灰色の霧の中を歩みだした。


† † † † †


鉄ちゃんの話、最終話。これ以上は引っ張れん……
喘息とかそういうのが全然ない(寒い朝に咳きこんで苦しいのは実体験ですが)ので、労咳のアレコレは小耳情報で。


と云うわけで、ちょいラスト半端ですが、これで鉄ちゃん視点のお話はおしまいです――第一稿が、ですけども(苦笑)。半ばくらいまで書いた段で、実は鉄ちゃんの入隊時期がそれなりに前っぽい(司馬遼のより早いらしい)ってので、そこら辺から訂正+やっぱり鬼視点で書いた方が正確っぽいので、そっちのあれこれ優先で、ってことで。
そう云や、スピリチュアルとか云ったのに、前世結局何だったとか云ってないなァ――ははは。えーと、まァ、それは次の連載で(笑)。


えーと、今度、ぶい六の森田くんが以蔵やるじゃないですか、青山劇場で。
あれの記事の関係で、「シアターガイド」最新号の表紙がIZOなんですけども。
何か、すごいイメージに近い以蔵だ……! つーか、以蔵だけじゃなくて、龍馬とアゴ先生(失礼)も。勝さんはちょっと違う+人斬り新兵衛はよく知らないからなァ。
うぅむ、もしチケットが取れるなら、ちょっと見てみたいけど――ぶい六だもんなァ、今からじゃあ、どうだろう。しかも、チケット高い(1万円前後)し。
と思ったら、職場の裏の小劇場でも、龍馬含め土佐の7人の志士たちの話を芝居でやってる様子。こっちは安い(¥4,600-)けど、土佐がわかんないんだよね、私……さて。


そうそう、勝(好き)仲間の友人と、勝語り飲み会を致しました! (「幕末ニッポン」展は、当日間に合わず、翌日に行きました) 渋谷の幕末酒場でやったのですが、えーと、一緒に行った沖田番に「この人たち、勝さんの生い立ちから片言隻句まで、全部頭に入れてるんじゃあ……」と戦慄されてしまいました。そんなわきゃあねェ。
でもまァ、普通の人の範疇はとっくに超えてるくらいには、勝さんのことは知ってるかもな。
いろいろ後悔したり、ほっとしたりなネタ盛りだくさんでした。と同時に、ひどく勝さんに逢いたいなァとも思いましたよ。本当に逢いたい。偏屈になっちゃってても構わないから。


そうそう、先月からの篤姫フェアですが、お蔭さまでそこそこ売れているようです――意外なもの(『江戸幕末滞在記』とか『思想から見た明治維新』とか『大君の通貨』とか)が減っててびっくりですが、やはり龍馬は人気ですね。どどんはやっぱりイマイチらしい――それでも『南洲残影』はすこし動いたぜ!
とりあえず、追加を出しました。チェックしたら、もっと増えた――何せ今月いっぱいやんなきゃだからな!
でもって、ドラマも初回見ました――キャストが気持ち悪いですね、豪華すぎて。平 幹 次 郎と高 橋 英 樹と長 塚 京 三が同じ画面にいるって! 長 門 裕 之と草 刈 正 雄もって! キモチ悪いよ……


この項、終了。
次はバトン、沖田番vs総司で。休日編は、22日の日野散歩後に書きますよー。
そして、いよいよ、誰も見たことのないルネサンスの天才を……