神さまの左手 2

 何だ、この人。
 ジャコモの率直な感想がそれだった。
 ミラノへ到着して、早半月。
 “神さま”だと思った人、すなわち画家であるレオナルド・ダ・ヴィンチと、ミラノで暮しはじめてから半月が経った。
 こちらへ来てからしみじみ実感したのだが、どうやらレオナルドは、パヴィアではかなり猫を被っていたらしい。まぁ要するに、イル・モーロお抱えの画家らしく、泰然としていたという意味だが。
 ミラノでのレオナルドは、あの“神さま”の威厳はどこへやら、正直、本当にジャコモより三十近くも年上なのかと、それすら疑わしくなるほどの駄々っ子ぶりだ。
 何しろ、
「私の上着がない!」
「書きかけのデッサンはどこだ!」
「私の財布はどこだ!」
 などと、
 ――あんた、どんだけガキなんだよ!
 と、本当の子どもであるジャコモが叫びたくなるほどだ。
 挙句に、
「ジャコモ、どこに隠した、云いなさい」
 ときては、正直もう、阿呆らしくて抗弁する気も失せる。
 ――まぁ、そりゃあ、ちょっとは戴いちまってるけどさぁ。
 それとても、小銭や銀筆一本程度のもので――とは云え、小銭をくすねるのも、日常茶飯事ではあったから、一概にレオナルドの疑心ばかりを責められはすまい――、それ以外は本人が失くしているのだから、馬鹿馬鹿しいこと極まりない。
 現に、今レオナルドの騒いでいる財布の所在も、
 ――ほぉら、こんなとこにある。
 床を埋め尽くす木箱の間に落ちている。かれの“失せもの”の所在など、大概はこんなものだ。
「……あったぜ。これだろ?」
 そう云って差し出してやれば、すこし気まり悪げに、けれど、当然と云うように受け取って、詫びのひとつもありはしない。まったく、これが四十になんなんとする大人のやることだろうか。
 ――まぁ、いいんだけどもさ。
 レオナルドの態度が大人げないからと云って、ここを出ていく気は、ジャコモにはなかった。
 それは、単に家が遠いから――大人の足でも、ミラノ〜パヴィア間は二日はかかる――と云うだけではなく、ここが気に入ったからだったのだが。
 家に帰っても、居る場所などない――父親は、綺麗な顔に生まれついた息子を、金持ちのところへ売り払うことしか考えていなかったし、それを逃れるためには、路上で盗みでもするしかなかった。それとても、いずれ強いものに搾取され、あるいは支配されて虐げられる。
 ジャコモの知っているパヴィアとは、そのような街だった――どれほど古い大学をそのうちに擁していようとも、そんな“お綺麗さ”とは縁もゆかりもなかったのだ。
 だが、ミラノは違う。
 偉大なるイル・モーロ、スフォルッツァの当主の治めるこの街は、美しく、華やかで、活気に満ちて、どこもかしこもジャコモの目を引いた。
 それに、ここではジャコモは宿なしの盗人などではないのだ。“偉大なるイル・モーロ”に仕える天才画家の、小さな助手として遇される――身の危険を招いた顔の美しさも、ここではただ賞賛の的となるだけだ。もっとも、ジャコモの手癖の悪さが、かれをただの“画家の助手”とは見做させなかったのだけれど。
 だが、正直に云うならば、ジャコモがおとなしく――かれなりにおとなしく――しているのは、やはりもっぱらレオナルド・ダ・ヴィンチ故だった。
 イル・モーロに仕える“偉大なる画家”は、ジャコモにとっては大人げないひとだったけれど、しかし、宮廷においては、ウォモ・ウニヴェルシターレ、“万能の人”として、その画才を、あるいは技術者としての知恵を、あるいは楽人としての資質を、存分に発揮していた。
 リラ・ダ・ブラッチョをかき鳴らしながら、宮廷の人々に請われるままに即興の歌を歌うレオナルド――その美声に、美しい姿に、聴き手たちがうっとりとなるのがわかる。そのたびに、ジャコモは誇らしい気持ちになるのだ。
 これが、レオナルドだ、この人が、この自分を選んで拾い上げてくれたのだと。
 ジャコモはまた、レオナルドが紙片に描きつける自分の顔が好きだった。レオナルドの繊細な指が描き出すかれの横顔は、やわらかな陰影に彩られていて、鏡を覗いたよりももっと美しく、何か別の生き物であるかのように、ジャコモの眼に映った。厄介事のもとになる自分の顔を、かれはあまり好いてはいなかったが、レオナルドが描いてくれるのであれば、この造作を与えてくれた神にも感謝してやろう、とジャコモは思っていた。
 だが、それ以上にジャコモが好きだったのは、他ならぬレオナルドの顔。
 やわらかく波打つ茶色の髪と髭、はしばみ色の瞳は、何もかもを見透かすよう。流行りから外れた髭に覆い尽くされていてもなお、レオナルドの凛々しい美しさは、ジャコモの心を捉えて離さなかった。
 どれほど大人げなくとも、その美しい容姿と、神のごとき左手が、そしてその生み出すものたちが、レオナルドの欠点を十二分に補っていたのだ。
 さて、その“神さま”レオナルドは、この時ふたつの仕事を抱えていた。ひとつは、翌年に予定されていた、イル・モーロとベアトリーチェ・デステ、アルフォンソ・デステとアンナ・スフォルッツァの婚礼の式典に関する様々な準備、そしてもうひとつ――イル・モーロの亡父・スフォルッツァ公の栄光を称える騎馬像の制作。
 前者は、騎馬の御前試合や祝祭の舞台の衣装など、かれの神のような左手が最大限に活用される仕事だった。だが、後者はと云えば、かれの才能は、十全に生かされているとは云い難かった。
 理由は簡単だ。レオナルドは、神のごとき絵画の技術とは程遠い技量しか、彫刻についての才を持たなかったのだ。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
2話目しょっぱなから、もうこんな。先生が“神さま”から転落するのも、時間の問題ですな……(苦笑)


まァ、皆様よもや本当に“神さま”なレオナルド・ダ・ヴィンチを(私が)やるとは思ってらっしゃらなかったと思いますのでアレですが――普通のレオナルド信奉者的には、かなりアレな先生なんだろうなァとは思います。
でも、こんなですから! 大体、生涯に2万枚(実際には、これの数倍)の紙を消費し、なおかつ保管しておいた男が、整然とした部屋に住んでたわきゃあねェ&研究者も匙を投げるほど脈絡のないメモをとった男が(以下略)。
とりあえず、この木箱一杯の部屋は、以前夢に見たレオナルド・ダ・ヴィンチと思しき人の部屋がモデルです。でもって、その時も先生っぽい人は、「上着がない!」と叫んでた……あんまやってること変わんねェよ(苦笑)。
そんな先生です。ははははは。


あ、関係ないのですが、山南役から、「幕末維新美男best10を出せ」と云う要請が来たので、リストアップ。まわりの意見も聞きましたよ(あ、20歳以下は入れませんでした)。
マイナーな人もいますので、簡単な補注付で。

  1. 山川大蔵 … 会津藩家老。幾度も書いてますが、エキセントリックで気難しい美形。
  2. 桂小五郎 … 木戸孝允さん。心はうさぎのハンサムさん。
  3. 鬼 … すなわち土方歳三。一応入るらしい。20代の頃ならより、って云われたよ……
  4. 秋月登之助 … 伝習第一隊長。結構鉄火。
  5. 星恂太郎 … 額兵隊隊長。侠気に溢れてます。
  6. 伊庭八郎 … “隻腕の美剣士”様。
  7. 中島三郎助 … 御歳はかなり上ですが、入れてもよかろうと云うことで。
  8. 武市半平太 … すなわちアゴ先生。でもテロリスト……
  9. 藤堂平助 … 少女漫画に出てくる高慢な美少年のような感じで。しかし魁先生……
  10. 原田左之助 … “顔だけ”と云う留保がついた……原田よ……

でもって、次点でかっしー、その次あたりに勝さんがくる(嬉!!)ようです。総司はもちろん入りませんよ。順位は、その人の価値基準によって前後しそうだという話……
ちなみに、タロさんは30位くらい、春日(左衛門)さんは35位くらい、慶喜君は25位くらいだそうです。幕末って美形多かったんだね……


この項、一応終了。若干手を入れる、かも……
とりあえず、次は新撰組の阿呆話ですよ〜。