北辺の星辰 26

 松本良順医師と再会したのは、それから幾日も経たぬうちのことだった。
 幕軍は松島へと転陣した後だったが、歳三は、仙台藩との事務連絡や、降伏者についての申し送りなどもあって、未だ仙台城下に留まっていたのだ。
 そこへ、米沢から松本医師が訪ねてきた――米沢城下にて別れてから、ほぼひと月ぶりのことだった。
「幕軍は、蝦夷地に渡航すると決めたそうじゃあねぇか」
 松本医師は、云うなりどっかりと坐りこんで、歳三を見据えてきた。
 医師は、ひどく疲れた顔をしていた――さもあろう、かれは、庄内を目指すことを諦めず、けれど米沢藩の恭順策のために、結局それを断念せざるを得なかったのだ。
 そればかりでなく、どうやら転戦する中で、体調を崩したものらしい。やつれた風で、顔色も悪い。会津戦の中では、藩内のものたちは悲惨を極めたと聞き及んでいる。あるいはその折、病でも拾ったものだろうか。
「他の連中はどうした? もう、松島に移ったか」
「はい。私は事後処理がございましたので、まだこちらに」
 歳三が云うと、医師は深く息をついた。
「そうか……で、土方よ、おめぇも蝦夷地へ往くんだな?」
「ええ。新撰組や、それ以外の諸隊も、私が率いてゆかねばなりませんので」
「じゃあ、話は早ぇ。俺を、その一行に加えてくれ」
「……本気でおっしゃっておられる?」
 思わず、歳三は訊き返していた。
 もちろん、松本医師の、徳川への忠誠心はよく知っている。そうでなければ、医師は会津、米沢、仙台と転戦してはこなかっただろうし、そもそも、江戸を抜けても来なかっただろう。江戸には、彼を必要としている療養所もあったのだから。
 だが、蝦夷渡航は、これまでの転戦とは話が異なっている。ただに徳川家家臣としての意地だけではない。蝦夷へ渡れば――今度は確実に、朝敵の汚名をきることにもなるだろう。
 その上、北の地へ冬期に渡航するとなれば、最悪、戦いどころではなく、寒さゆえに死ぬ可能性もある。
 そんなことを、この前途有用な医師に、させるわけにはいかなかった。
 だが、松本医師の考えははっきりしていた。
「本気も本気よ、決まってるじゃねぇか」
 云うなり、医師は片袖をまくり上げ、歳三の目をじっと見据えてきた。
「ここまで来て、むざむざと江戸へ帰れるかい。それにおめぇら、これから戦をおっぱじめるとなりゃあ、怪我人のこたぁどうするつもりだ。そう云うことになったなら、それこそ俺の出番だろうが。外科ぁ邪魔にぁならねぇぜ?」
 にやりと笑って云ってくる、松本医師の侠気に、歳三は胸が熱くなるのを感じていた。
 この人こそは、本物の“忠義の臣”だ。沈みかけた徳川と云う船を、それでも何とか復原させようとする、この心根こそ真の幕臣だ。
 だが――それ故にこそ、この人を蝦夷地へ渡航させるわけにはいかないと、歳三は感じていた。
 この人は、先々、徳川の家臣のみならず、すべての人に必要とされるだろう。この人は、たかが幕軍の軍医だけで終わって良い人ではない。もっと広く、弟子たちを指揮して人々を救う、そのような術を持つ人なのだ。
 そのような人物を、負けると知れた戦いに捲きこむわけにはゆかぬ。松本医師を、生きて江戸へと帰りつかせ、徳川の臣たちを、江戸の民草を、その仁術によって救ってもらわねばならぬ。勝の考える御一新後の世の中を、勝とは違う手段で支えていってもらわねばならぬのだ。
 だからこそ、
「……私は賛同致しかねます」
 歳三は、敢えてその言葉を口にした。
「何故だ!」
 松本医師は、驚きと怒りの入り混じった声で叫んだ。
「俺とても幕臣の端くれだ。その俺が、ここで戦わずして薩長に降伏など――」
「ですが先生は、前途有用のお方だ。その先生が、敗北ばかりしか先のないこの軍に身を投じられるのは、見るに忍びないのです」
「おめぇも、前途有用だろう、土方」
「とんでもない」
 歳三は、笑って首を振った。
「私なんぞは、野良犬の首魁、頭を使うことにゃあ向いてないんです。戦うしか能がねェんですよ。それよりも――何故、先生はそれほど戦いを求められるのです」
 血を求めるのは、医師の性とは異なっているだろうに。
 医師は、暫の沈黙の後、かりかりと頭を掻いた。
「おめぇにこんなことを云うのは何だがな、俺ぁどうにも、榎本釜次郎の考えが気にくわねぇんだ。こっちへ着いてから、奴とは幾度か話をしたが――蝦夷地を徳川の版図にして、開墾するの許可を朝廷に求めるだ? そんなことを、あの連中が許すわけはねぇ。俺ぁ、奴のあの考えの甘さが、どうにも気にくわねぇんだ。だが、そんなことを行ったとしても、奴ぁ蝦夷地へ渡航すると決めている――しかし、あんな脳天気な野郎の下じゃあ、兵たちが可哀想でならなくてな。だから、俺ぁせめて、医者として兵たちを助けてやりてぇのさ」
「……まったく、お言葉ごもっともでございます」
 歳三は頷いた。
 もっとも、蝦夷渡航を唆したのは自分であったのだから、これはひどい欺瞞ではあったのだが。
「榎本さんの楽観には、私とて思うところがないわけではありません。そればかりか、先生のおっしゃることを兵たちが聞けば、賛同するものがほとんどでしょう。――ですが、それでは榎本さんの勢力を、徒に殺ぐことにしかなりません」
 それでは拙いのだ。ここでなし崩しに幕軍を解体させては、戦い切れなかったもののなかに悔いが残る。それが、後々戦いの火種となる危険があるのだ。
 そうなることのないように、幕軍は全力で薩長と戦い、はっきりとわかるかたちで敗北せねばならない。そのためには、ここで榎本の説に、あれこれと難癖をつけるべきではないのだ。
 だが――そのことを、松本医師に告げることはできなかった。
 云えば、聡い医師は、歳三の思惑の元が誰によるものなのかを見抜いてしまうだろう。まして、医師はかねてより、勝とも親交があると聞いている。そうであればより正確に、この差配のあれこれに気づいてしまう――それだけは避けねばならない。
 だから。
「そもそも、この戦い自体、徳川が仆れる時に、誰ひとりとしてそれに殉ずるものがないことを鑑みてのこと。勝算なんぞ考えてのものじゃあありませんよ」
「それならば――」
「だからこそ、良順先生には、生きて戴きたいのです」
 歳三は、力をこめて云った。
「江戸には、先生の手を待ち望んでる連中がたくさんあるはずです。俺にここまで肩入れしてくれた先生のことだ、元の幕臣のことも、きちんと診て下さるでしょう。それが、もう頼るあてもなくなった連中にとっては、何よりの救いになりますでしょうから――ひいてはそれこそが、世のため人のためになるのでは?」
 それを聞いた医師は、しばらく黙りこみ、深く考えに沈んでいるようだった。
 やがて、
「……わかった」
 医師は、こくりと頷いた。
「おめぇがそこまで云うのなら、俺も腹を決めて、江戸へ戻ろう――もっとも、薩長の輩にとっ捕まったら、俺の首もどうなるか知れたもんじゃあねぇがな」
「何をおっしゃいます。先生は、薩長にも広く知られたおひと、万が一捕えられることがあったとしても、生命を取られることはないでしょう――何しろ、先生に生命を救って戴かなけりゃあなりませんからね」
 にっこりと笑って云うと、松本医師はまたしばらく沈黙し、頷いてきた。
「おめぇの云うとおりかもしれねぇな。……だが、おめぇはどうするんだ、土方」
「私は、もちろん蝦夷へ参ります。私なんぞは、戦以外に能のない男だ、戦って、ぱっと散る以外に、生きる道なんぞありゃあしないんですよ」
「……おめぇも難儀な男だなぁ」
 松本医師は云って、すこし鼻をすすり上げるようにした。
「私の何が難儀だと?」
「おめぇ、ひとりでいろいろ背負いこんでやがるんだろう――そんな必要なんぞ、ちっともありゃしねぇってのにな」
 その言葉に、歳三は無言で微笑んだ。
 松本医師の目からは、歳三が何もかもを背負いこんでいるというように見えるのかも知れない。
 だが、歳三自身は、背負いこんでいるつもりはまったくなかった。いや、他のことは知らず、こと新撰組に関しては、歳三が背負わずに、誰が背負うと云うのだろう。隊士たちを募り、新撰組に加えたからには、またかれらがここを離れていくことにも、歳三が責任を持ってやらねばならぬ。隊士たちを一人残らず送り出さなくては、せめて去る機会を与えて選ばせてやらなくては、上に立つものの責を果たしたと云うことなどできぬではないか。
 歳三の笑みを、どう取ったものか。
「……まぁいい」
 医師は、溜息をひとつついた。
「おめぇの云うように、俺は江戸へ戻ろう。戻って、おめぇらが帰り着くのを待っているとするさ。蝦夷に飽きたら、戻ってくるがいい――生きていりゃあ、歓迎してやるぜ」
 にっと笑って云ってくる、医師のその侠気に。
「……ありがとうございます」
 この人ならば、敗北の後も幕府の臣下を支えてくれる――その確信を得て、歳三は、安堵とともに深々と頭を垂れた。


† † † † †


鬼の北海行、続き。
26でまだ仙台……


本当のところ、良順先生と最後に会ったのがいつなのかは謎なのですが、いろいろ考えてみると、多分この辺の時期だろうなァと。いや、単なる勘的アヤしい(以下略)なのですが。
その辺のアレコレを確認しようとして「新選組資料集」正続、を開いてみたのですが、何だ、「蘭疇自伝」載ってないじゃん。東洋文庫に入っている――が、店頭在庫なし、版切重版未定、Webセン在なし(奇跡は二度はなかった……)、多分神田+早稲田も厳しいよう……
一番近いH市図書館に入ってたので、借りてきました。先生の昔の悪戯(やっちゃったー! 的な)とか載ってて面白かったですよ。あと、崎のエピソードとか。ホントにもう、良順先生ったら♥
っつーか、この辺入れといてくれよ、「資料集」……


あ、そうそう、本日(4月29日)、日.テ.レ系で、先生のアンギアーリの戦いの壁画についての特番やってましたね。
以前(本館Historyに載せたミケ話で)、アンギアーリの構図なんかは書いてたんですけども、うぅん、やっぱ思ってたのと違うなァ、日.テ.レの予想図。っつーか、CGだろうと何だろうと、あんな拙い絵を出されても、元の絵の雰囲気はわかりませんよ。ルーベンスの模写(有名な)は流石に雰囲気あるけど、あのCGはなー……かなりがっかり↓です。
まァ、壁画調査(ところで、何で先生のばっかで、ミケちゃんのは調べてくれないんだろ……)は、夏あたりにまた追加報告番組やるらしいので、それを待つかな。
しかし、先生絡みと云えば、モナ・リザのアレコレも、特番作ってたよね、日.テ.レ。アイルワース版の調査結果はどうだったんだろう。
個人的には、ミケの話で、どっちも自分見解書いてますけどね。ふふ。下村寅太郎の『モナ・リザ論考』は、やっぱりいいとこ突いてると思いますよ。


あ、歴史群像presents「ものしり幕末王」買いました(DSね)。
主人公は男で“生方清三郎”、平和改革派、で、早速プレイ。最初に仲間にした有名志士(?)は鬼でした……ははははは(苦笑)。
鬼、かっちゃん、勝さん、杉、相楽総三三条実美中岡慎太郎松平容保佐久間象山大久保利通あたりを連れて歩いてました。結局、桂さんとは遭遇すらしなかった……知識に激しい偏りがあるので(笑)、かっちゃんと佐久間象山に問題の難易度下げてもらってましたよ……
でもって、統一しましたが、桂さん、横井小楠、ますじとも遭遇しなかったなァ、そう云えば。龍馬には、遭遇したけど負けっぱなし……
しかし、他の志士の動向で、「桂さんの説得で、山内容堂が徹底佐幕派に」とか「榎本武揚の説得で松平春嶽武装倒幕派に」とか見ると、冥界再編かよ! と思わずにはいられませんが(笑)。
二度目は“久住恭世”、またも男で徹底佐幕派。とりあえず、最初の同行者は鬼……またかよ! あとはかっちゃん、杉、龍馬、三条実美中岡慎太郎(この人、そんなに腹黒いんですか?)、勝さん、桂さん、ますじもGetしました。あとは全国統一に向けて、頑張りたいと思いますよ。


この項、終了で。
次は――順番から行けばルネサンスなんだけど……ちょっと迷い中ですよ……