神さまの左手 4

 ジャコモ――サライは、レオナルドの職業を“画家”だと聞いていたのだが、実際に絵筆を握っているのを見たのは、引き取られてからそれなりに経ってのことだった。
 レオナルドは、とある若い音楽家から頼まれて、かれの肖像画を描いていた。
 レオナルドお得意の、闇の中に射す光と、それに照らされて浮かび上がる人物の姿のコントラスト――とはいえ、この人の例に洩れず、集中して描く顔の部分以外は、まったくもって下描きだけといった進行状況だったのだけれど。
 しかも、手の入っている顔の部分も、入った筆の数の割には、仕上がっていない。それもこれも、レオナルドが好むテンペラ描き、しかも顔料をひどく薄く溶いて延々と塗り重ねていくという、その技法の故だったのだが。
「こうして塗り重ねていくと、微妙な陰翳が作れるのだ」
 と、レオナルドはもっともらしく云っていたのだが――サライに云わせれば、それはまったく、“しみったれ”たレオナルドの性格故の技法に他ならなかった。
「何で、そんなにちみちみちみちみ色を塗るのさ」
 薄く薄く重ねられていく顔料に、つい苛々としてサライは云った。
「もっとこう、がっと塗りゃあいいじゃん、がっと塗りゃあ。そしたら、時間ももっと短くてできるんじゃねぇの?」
「それでは、意味がないだろう」
 レオナルドは、云いながらぺたぺたと色を塗り重ねていく。
「いいか、サライ、陰翳というものは、ただつければいいというものではない。たとえば、これを見なさい」
 そう云って、レオナルドが拾い上げたのは、小さな木切れだった。
 何やら工作をした余りの木っ端であるものか、そのかたちはぎざぎざと入り組んでいる。が、総じて見れば、不思議な刻み目のある箱、と、見えなくもないしろものだ。
「さて、サライ、これはどう見える?」
 レオナルドは云って、サライに木切れの一面を見せてきた。
「……木っ端だろ」
「そうではなく、かたちは? お前の目には、これはどんなかたちに見える?」
「……階段、かな」
 強いて云うなら、階段の一部のように見えなくもない、と云う程度ではあるのだが。
「それでは、こっちは」
 と、今度は別の面を見せてくる。
 今度のかたちは、きれいな長方形だ。
「……しかく」
「では、これは?」
 と、レオナルドは、木片の縦の一片をサライに突き出すように見せてきた。縦の線を中心にして、長方形と、段のついた多角形の二つの面が、サライの目に飛び込んでくる。
「……木っ端」
「だから、そうではなくて」
 レオナルドは、わずかに苛々とした口調になった。
「どうだ、さっきの、木切れの一面を見ていた時と、見え方が違うだろう。どうだ?」
「――うーん……」
 云われてみれば、確かに違う、かも知れない。
 だが、
「木っ端は木っ端だろ」
「違うだろう!」
 そう叫んで、レオナルドは、今度は紙とチョークを拾い上げた。
 ここの床にゃあ、何でも落ちてるな、と呟くサライの目の前で、かれは、紙の上にさらさらと木切れの二つの面を描き出していった。それから、ふたつの面を斜めにこちらに見せるような――ちょうど、レオナルドが見せつけてきたような角度のものも。
 レオナルドの得意とする透視法と、キアロスクーロ――光と影の描き出す、その木切れのかたちは、それをただの“木切れ”とは思わせぬほど。そして、チョークのただひと色で描かれているにも拘らず、その絵の中の“木切れ”は、確かな質感をともなって、サライの目の中に飛び込んできた。
「見なさい、このふたつは、さっきお前に見せたのと同じように、この木切れの一面だけを描いたものだ」
 レオナルドは云って、長方形の面と、多角形の面だけを描いたものを指さした。
「そしてこちらが、この二面を一度に見たとき。……どうだ、全然違って見えるだろう」
「……まぁね」
 実物で見せられると、違いがよくわからなかったが、こうして描かれると――特に、単色で描かれていると、双方の違いがよくわかる。
 ひとつの面だけの方は、のっぺりとして平板な感じがするが、ふたつの面を描いてある方は、その陰翳の違いによって画面に奥行きが生まれ、面と面の接する一辺が、こちらにぐっと迫り出して見えるのだ。
「陰翳をつけてやれば、物体は画面から浮かび上がってくるように見える。と云っても、もちろんいい加減なつけ方では意味がないぞ。目の前の物体をしっかりと観察して、見えるとおりに陰翳をつけていかなければならないのだ。そうでないと」
 と云って、レオナルドはさらに、もうひとつ木切れの絵を描いた。
 今度の絵は、何やらおかしな具合に影がつけてある。お蔭で、同じ木切れを描いたとは思えぬほどだ。こちらへ迫り出していたはずの一辺が沈みこみ、面の一部が湾曲して飛び出しているように見える。かと思えば、もう一面は、何かにぶつけたようにへこんでいるようだ。
「ご覧、いい加減な陰翳をつけると、もののかたちまで歪んで見えるのだよ」
 だから、陰翳を正確につけるのは重要なことなのだ、とレオナルドが云う。
「わかったか?」
「それはわかったよ。だけどさ、それと、絵具をちみちみちみちみ塗ることとに、何の関係があるってのさ?」
 大きくひと色で塗ってやって、失敗したならそこだけ削ればいい、と云うと、レオナルドの返答は、
「それでは、顔料がもったいないだろう」
「……しみったれ!」
「……何とでも云うがいい」
 ぶすりとして、レオナルドは云い――ふと、聞こえてくるドゥオモの鐘の音に耳を澄ませた。
「――おぉ、もうこんな時間か。そろそろ出ないと、打ち合わせに間に合わん」
 椅子の背に掛けてあった上着――もたれかかっていたせいで、すこしばかり皺になっている――を羽織り、かれはサライに向き直った。
「年明けの、イル・モーロの婚礼の祝典の打ち合わせに、すこし出てくる。夕方には戻ってくるが――お前は留守番だ。きちんとやれるな?」
「へいへい、いってらっしゃい」
 サライは、おざなりな態度で手を振った。
 イル・モーロの――正確には、かれと、アンナ・スフォルッツァと、二重の――婚礼の式典で、レオナルドは様々な出し物の衣装や装飾などの考案を任されている。今日の“打ち合わせ”は、おそらくは、舞台の設えなどの打ち合わせだろう。
 となると、サライとしては、ついていっても面白くはない。どうせ、得体のしれないからくりの話やら、こと細かな演出の話ばかりになるに決まっているのだから。
 レオナルドは、かるく眉を寄せた。
「何だ、その返事は。――悪さはせずに、きちんと留守番しているのだぞ」
 そう云って、かれはふと思いついたように、サライの顔を覗きこんできた。
「そうだ、お前、私が留守の間に、この絵に色を塗っておきなさい。何、服や帽子なぞの下塗りだと思えばいい。絵具は溶いてあるからな。……できるな?」
「……そりゃあ、できなかねぇけどさ」
 しかし、サライは生まれてこの方、絵筆を握るどころか、石畳に蝋石で落書きしたことすらなかったのだ。
「でも、俺、絵の勉強なんか全然してないんだぜ? それでも平気なのかよ?」
「構わん構わん」
 レオナルドは、手を振ってよこした。
「所詮は下地だ。お前の云う様ではないが、それこそ上塗りすればいいだけのことだ。――私はもう行く。後は任せたぞ」
「へいへーい」
 サライの返答を聞くなり、レオナルドは、慌ただしく家を出ていった。
 後には、サライと、描きかけの絵が一枚。
「――仕方ねぇなぁ……」
 溜息をひとつついて。
 サライは筆をとり、絵の中の人物に、鮮やかな色の服を着せにかかった。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
絵の話。っても、「最後の晩餐」までは遠いわ……


えーと、話中の絵は、弟子の作とも云われている「音楽家の肖像」です。
ミラノのアンブロジアナ絵画館に収蔵されてますね。これは見てきました。服とか帽子とか、塗り方がいかにも素人っぽい。しかし、顔は先生の筆だと思いますよ。ふふふふふ。
絵の話、正直、自分でデッサンとかしたことがない(キアロスクーロなんて、夢のまた夢)ので、絵を描く人からしたら変な表現があるかも知れませんが、まァその辺は御容赦。でもまァ、音楽ネタ書くよりはずっと、実感こめて書けてると思うんですけどね。


そして、いきなり老中・阿部正弘ブームが! (not草.刈.正.雄)
ああ、福地桜痴の『幕末政治家』(岩波文庫 もう版切)買っといて良かった〜!
とりあえず、ちょっとこれ読んで、阿部さんにより近づきたいと思います。っつーかあの方、三十九歳でお亡くなりになったのね……草.刈.正.雄だと、歳いっちゃいすぎてんなァ……
さァて、他に阿部さんの載ってる本はないかしら……
とか云って萌え萌えしていたら、職場の新卒あそ男子に「阿部正弘に萌えるなんて、他にいませんよ!」と一刀両断にされちゃった……
えー、でも阿部さん、容姿端麗だし、家柄もいいし、頭いいし若い(今基準でですが)よ? 二十八歳で老中首座だよ? そりゃ確かに地味だけどさ……(道半ばにしてぱったりいっちゃったしな) 萌えでもいいと思うんだけどなー。駄目?


この項、終了。微修正必要かも……
次は、阿呆話――ひ、姫……!