神さまの左手 6

 レオナルドにとって、絵を描くことの次に愉しいのは、実はお祭り騒ぎだった。
 お祭り騒ぎと云っても、その騒ぎそのものが好きだと云うよりは、祭りの非日常性――例えば仮面をつけての華やかな舞踏会、人びとの衣の翻る艶やかな様、異形を模した仮面のかたち、街中に流れるリラの音色、その奏でる美しい旋律、まき散らされる花と紙吹雪、祭りの後の、石畳の上に踏みしだかれた花弁の哀れなさままで――何もかもが、レオナルドにとっては愛おしいのだった。
 絵や彫刻が永遠のものとなり得るのなら、祭りの華やぎは、一瞬のものだ。
 その、一瞬の光芒が、どれほどレオナルドの目に美しく映ることか――さながら、わずかの間に咲いて散る、儚い花の美しさのように。
 それ故に、イル・モーロから、バルダッサーレ・タッコーネの戯曲の演出を命じられた時、レオナルドは一も二もなく頷いたのだ。一度しかない婚礼の宴の席の、これまた一度しかない芝居の演出など、そうそうできるものではない。
 ちょうどと云っては何だが、スフォルッツァ騎馬像の構想も行き詰っている。レオナルドは嬉々として、芝居中のスキタイ人タタール人の衣装、それから舞台の道具や仕掛けについて、様々のデッサンを描き散らした。
 もちろんのこと、レオナルドは、スキタイ人タタール人を見たことがあるわけではない。
 だが、見たこともない異邦の住人や、彼らの棲む異郷の大地、その上にも広がっているだろう空の色、などを想像していると、レオナルドの心は浮き立つのだった。
 その土地には、どんな鳥が、どんな獣が棲んで、かれら異邦の人間たちと共存し、あるいは相争って生きているのだろう。かれらはどんな言葉を喋り、どんな音楽を奏で、どんな舞いを舞うのだろう――そんなことを、想像するだけでも愉しいではないか。
 そしてもうひとつ、レオナルドの心を動かしたことがある。スキタイやダッタンの人間たちは、馬を駆って生きていたのだと云う。狩りをするにも、ただ遊ぶにも、かれらは馬上にあって何もかもを為したのだと。
 それを考えていると、行き詰っているはずの騎馬像のことが、レオナルドの中で、むくむくと頭をもたげてくるのだ。
 スキタイの人びとは、あるいはタタールの人びとは、どのように馬を乗りこなしていたのだろう。かれらもまた、馬の美しさを知り尽くしていたに違いない。そうであれば、もしもかれらが今ここにあったなら、騎馬像のための美しい馬の姿を、レオナルドのために見せてくれたかもしれない――
 そんなことを考えながら、レオナルドの筆は、いつの間にか、舞台の衣装ではなしに、騎馬像の構想を描き出していた。
「……何やってんだよ、あんた」
 と、サライの声が、呆れたような響きとともに、頭上から降ってきた。
「祝祭の舞台の衣装を考えるとか云ってたんじゃねぇの? それが、何で馬の絵なんだよ?」
「……スキタイ人タタール人も、騎馬の民だと云うことなのだ」
 サライの云いようにいささかむっとして、レオナルドは唇を尖らせた。
「かれらの操る馬がどれほど美しかったかを思えば、自然、馬の姿が頭の中に浮かんでくる。それを描いておけば、のちのち、騎馬像を作る時に、使うことができるだろう」
 そう云いながら、レオナルドは、奔放に跳ねる馬の姿と、その上に跨り剣を振りかざす人物の、ごく簡単なデッサンをいくつか描きとめていった。
「……それはそれで構わねぇけどさ、じゃあこの布のかたまりは、一体どうするつもりなのさ?」
 そう云いながら、少年は、赤や黄色、青や緑の様々な布を、両手いっぱいに広げて見せた。
「……これから、それを考えるのだ」
 その布は、レオナルドの考える、騎馬の民たちの衣装に用いるはずのもので。実際の布の風合いを見ながら考えようと、見本用に調達してきたものだったのだ。
 が、どうも、騎馬の民に馬がないでは、衣装も想像し辛いのが本当のところで。
「……ちょうどいい、サライ、その布を身体に捲きつけてみなさい」
「俺がぁ?」
 すこしばかり厭そうに、少年は眉をしかめたが、それでもぐるぐると、古代ローマのトーガのように、赤の布を身体に捲いた。
「……で、どうよ?」
「ふむ」
 レオナルドは、少年の姿をぐるりと見回し、肩にかけた布の端を、帯のように腰まわりに巻きつけてみた。
 サライは、もさもさとする腰まわりの布を掴んで、余裕を作ろうとするようにぐいぐいと引っ張った。
「腹まわりがきついよ。これじゃあうまく動けないや」
「それでは、こうしてみるとどうだ」
 云いながら、レオナルドは、今度は布の端を、マンテッラのように後ろへなびかせてみた。
「うーん……かっこいいかも知れないけど、このひらひらが邪魔じゃねぇ?」
 サライは、布の端を指先でつまんで、ひらひらと振ってよこした。
「大体、そのナントカ人とかって、どんな格好してんだよ。そっからわかんねぇと、どうにもならねぇんじゃねぇの?」
「かれらの姿を描いた絵はあるのだ」
「じゃあ、それ見りゃあいいじゃん」
「……あるにはあるが、写実には程遠い絵で、まったく参考にならんのだ」
 そう、スキタイやタタールの風俗を描いた絵はあるのだ。だが、どうも東の方――オスマン‐トルコ帝国より東方の絵は、全般にひどく装飾的で、写実を旨とするレオナルドの画風にはまったくそぐわないのだ。
 否、そもそもそれ以前に、その風俗画に描かれた人びとの服装が、どのように布地をはぎ合わせて作られたものか、その美しいやわらかな襞がどのような縫製によってかたち作られているものか、絵を一瞥しただけではどうにもわからないのだ。その絵の彩色や装飾は、文句なしに美しいのにも拘らずだ。
「――大体、フィレンツェにもミラノにも、異邦人は山といるのに、何故スキタイやタタールの人間がいないのだ」
 レオナルドは、八つ当たり気味にそう云った。が、もちろんそう云ったところで、かれらが最果ての地からミラノを訪れてくれるはずもない。
「何阿呆なこと云ってんだよ」
 サライが、呆れたような声音で云って、溜息をついた。
「いねぇもんは仕方ねぇだろ。……ともかく、それじゃあ騎乗の邪魔にならねぇ服を考えりゃあいいじゃん。想像してさ。あんた、そう云うの得意だろ?」
 それは確かに得意だ、が、
「……馬がおらんでは、どんな服が邪魔になるかわからんな」
 いかに自称天才のレオナルドとて、そこまで万能なわけではない。
 呟くと、サライは狭い工房の中を、ぐるりと見回し、肩をすくめた。
「でも、馬なんてここにはいねぇじゃん。どうすんのさ?」
「確かにいない、ここにはな」
 ここには馬はいない。だが、もちろん、いるところにはいるのだ。例えば――スフォルツェコの馬場などには。
 そうだ、何故今まで思いつかなかったのだろう。スフォルツェコの馬場へ赴き、例えばこのサライなどに、動きやすいかたちに布を巻きつけさせて騎乗させれば、きっと騎馬の民に近いかたちの衣がわかるはずだ。
 思いついたら即実行。
サライ、行くぞ」
「えぇ? どこへだよ」
「スフォルツェコだ。馬がいる!」
「えぇッ!?」
「その布を持って、お前も来なさい!」
 云いざま、自分は筆記具と画帳を抱え、工房を飛び出す。
「まッ、待てよ、待てってば!」
 サライが、慌てて叫ぶのが聞こえる。
 振り向けば、少年は、色とりどりの布を抱え、今しもこちらへ駆けてこようとしているようだ。
 それを確かめ、レオナルドは、イル・モーロの居城へと、石畳の上を駆けだした。


† † † † †


先生とサライの話、続き。
脱線ばっかの先生――メモもこんな調子なので、後世の学者が困る困る(笑)。
まァ、史実的には間違ってない、はずだ……すくなくとも、私にわかる先生はこんなんですよ……(苦笑)


それにしても、最近思うのですが、何だって世の人びとは、あんなにも史料至上主義が多いんでしょうかねェ。
先生がモンナ・リーザの絵を描いているって云うことが書かれた手紙が、ドイツで見つかったって記事(実は結構前の話ですが)に関して思ったんですけども。
っつーか、先生がモンナ・リーザの絵を描いてたのが事実だとして、ルーブルのあの絵が本当にモンナ・リーザを描いたものかなんて、タイムマシンででも確かめない限りはわからないわけだし、そう云う史料があると云うなら、ルイジ・ダラゴーナの「故ジュリアーノ・デ・メディチの嘱託による、実物から描かれたフィレンツェの婦人像」って言葉はもっと重視されてもいいと思うんだけど。描いた本人から聞いた話なんだしさ。
まァ、こういうこと(=研究者的に都合の宜しくないお話は無視される)は新撰組だって(以下略)なんだけどもさ。
結局、誰もかれも、自分の思いこみに都合のいい史料しか見ねェんだよなァと思うと、それで“史料至上主義”ってのも可笑しくね? って思うんですけどもォ。
恩.田.陸の『小説以外』を読んでたら、「男の子は議論が白熱してくると、段々話が狭い方に入りこんでしまう」的なことが書いてあったような気がするんですけど――結局、歴史研究家の人たちのアレコレもそれと同じなのね、と思わずにはいられません。
史料をあたるのは、確かに大切(まァ私も、パリ手稿だのマドリッド手稿だのを見に、国会図書館とか都立図書館とか行ったけどね)だけど、先生の手稿が散逸してしまっているように、史料だって散逸してるものは多いわけだし、まして事後しばらく経ってからの手記なんか、本人の都合の良いように記憶の改編も起きた後だったりするし、結局のところあてになんぞなりゃしないってェのにねェ。
っつーかホント、ああ云う研究家のひとたちの思い込みってすげェよなァと云うかなんですけどもね。最近、研究者が嫌いになってきたみたいだ――それでも、その著作のお世話になってるのも事実なので、複雑なところではあるのですが。


この項、終了。
次は阿呆話、段々なぞ〜。