神さまの左手 7

 スフォルツェコの城門へは、歩いてすぐに行きつける。
 とは云え、大荷物のサライにとっては、その短い道のりも結構なものに感じられた。早足で歩くレオナルドに遅れぬよう、ほとんど小走りであったから、かかった時間はさほどではなかったはずだけれど。
 レオナルドが城門にさしかかると、
「これは、マエストロ」
 城の衛兵たちが、かるく頭を下げてくる。
 レオナルドは、イル・モーロの愛妾、チェチリア・ガッレラーニの肖像――白貂を抱いた美姫の姿――を描いて、ミラノの宮廷内において一躍名を馳せていたので、城内にかれのものを知らぬものはなかったのだ。
 それに、レオナルドの特徴的な姿――中性的な美がもてはやされている風潮の中で、敢えて髭を豊かにたくわえ、またはやりの長い上着でなく、裾の短い上着をもとっている――も、かれを何ものか知らしめるのに一役買っていただろう。
 ともかくも、衛兵たちがレオナルドを見知っていたことに、サライはひとまず満足した。
 ――どうだい、俺の先生の立派なことったら!
 パヴィアの貧しい家に生まれ、こそ泥と掏りとで身を養ってきたサライには、城の衛兵にまで頭を垂れられるレオナルドの存在が、ひどく誇らしく思えたのだ。
 ――こんな人が、俺を拾ってくれたんだぜ。俺のことを、綺麗だって、モデルに欲しいって。
 それは、多分に見た目だけのことであったのだろうが、それでも、パヴィアから、美貌のものなど数多あるだろうミラノにまで、連れてきてくれたと云うそのことに、サライは深く満足していたのだ。
 もっとも、それもレオナルドが「馬に乗れ」と云い出すまでのことだったけれど。
「高い、高いんだけど先生!」
 手綱を引いてもらっているとは云え、十歳のサライには、馬、しかも城の兵士の乗るような軍馬は、あまりにも大きかった。
「大丈夫だ、お前が暴れなければ、馬も暴れはせん」
 と云うレオナルドは、すこし離れたところで、赤チョークと画帳を手に、坐りこんでいる。
「そう云う問題じゃねぇって云うか、足が鐙に届かないんだけど!」
「馬を乗り回すわけでもないのだ、足くらい、届かなくとも構わんだろう」
「……あり得ねぇ!」
 馬の手綱を取ってくれている兵士は、苦笑しながらふたりのやり取りを聞いている。
「いいから、さっさとその布を身体に巻きつけなさい!」
 ――って、どうせあんたが馬に乗れねぇから、俺に云いつけてやがるんだろ。
 ぶつくさと呟きながらも、サライはどうにか、色鮮やかな布を身体に巻きつけてみた。
「どうよ?」
「……うぅむ――もっと身体にぴったりとはできんのか?」
 云われて、巻きつけた布を、締め気味に引っ張ってみる。
 が、
「……ちょっと苦しいんだけど」
 そうきつく巻いたつもりはなかったのだが、幾重にも布を巻くと、それだけで腹まわりがきつめになってくるものらしい。息が止まるほどでもないが、それでもすこしばかり、息苦しさを感じる。
「では、先刻ではないが、マンテッラのようにたなびかせてみてはどうだ?」
「走らないんならいいけど、馬乗り回してっと、ばさばさして邪魔じゃあねぇのかな」
「うーむ……」
 レオナルドは、腕を組んで考えこんだ。
 サライはと云えば、一刻も早く、この馬鹿馬鹿しい、そして少々恐ろしい“実験”から逃げ出したくてたまらなくなっていた。
「……なぁ、先生」
「ん?」
「あれだろ、住んでる場所が変わっても、服のつくりで動きやすさが変わったりはしねぇよな?」
「あぁ、そうだな。気候と違って、身体の機能は、土地が変わっても、そうそう違うとも思われんな」
「じゃあさ、そのナントカ人の服も、兵隊さんの服と、あんま変わりがねぇんじゃねぇの?」
 サライとしては、この“実験”から解放されるための、謂わば口から出まかせであったのだが。
 レオナルドの眼は、その言葉に強い煌きを見せた。
「それは確かにそのとおりだな!」
 厭な予感がする、とサライが感じた次の瞬間には、
サライ、戎服を借りて着てみなさい」
 ――ああ、やっぱり……
 あまりにも予想どおりで、さすがにがっくりする。
「……あのさ、先生、俺の体格じゃあ、どんな兵隊さんの服着たって、でか過ぎて話になんないよ。だろ?」
「むぅ……」
「だから、さぁ、まんま服借りるとかじゃなくてさ、こう、兵隊さんの服をナントカ人風にいじってみるとかそういうの、できねぇのかよ?」
 と云うサライの言葉に、返ってきたのは、
「できるが、それでは、私がつまらんではないか!」
 ――そこかよ……
 らしいと云えばあまりにもらしい、そのような言葉。
 そういう問題じゃあないはずなんだけど、と呟きつつ、サライは食い下がってみた。
「でも、ぶかぶかの服なんか着て見せたって、何の役にも立たないぜ?」
「では、その上から、その布をまとってみてはどうだ?」
「いやいやいや、それ動けねぇから!」
 ただでさえ、布を幾重にも巻きつけていると、動きが制限されて窮屈だと云うのに、これ以上大変なことになど、されてたまるものか。
「このまんま、馬に乗って走りまわれってんならまだしも……」
 と、うっかり呟いた途端。
「今の格好のまま、馬を乗り回すのならいいのだな?」
 またも、レオナルドの双眸が、不吉な輝きに彩られた。
 ――しまった……
 と思うが、覆水盆に返らず、発した言葉も戻らない。
サライ?」
 にっこり。
 サライは、思わず及び腰になっていた。
「……その笑顔、怖いんだけど」
 いかにも企んでいそうなにこやかさが。
「そんなことはない。――馬を乗り回すのは、いいのだな?」
「……俺ひとりで乗れとか云わなけりゃな」
 しぶしぶ云うと、レオナルドがまた笑みを浮かべた。
 にっこり。
 その力強さが恐ろしい。
「では、そのとおりに願おうか」
 嬉しそうに云ったレオナルドに。
 馬鹿野郎とサライが叫ぶのは、それから間もなくのことだった。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
馬の話と云うか。チェチリア・ガッレラーニの肖像(=「白貂を抱く貴婦人」像)は、お名前だけですよー。


そうそう、先日(十日)、講談社から『週刊世界の美術館』が創刊されましたねー。第一号はルーヴル1で、表紙はモナ・リザ。創刊号は大概お安いので、まァさくさく売れてますね。
とりあえず、それの拡材として、うちには今、原寸大モナ・リザ(もちろん印刷)が来ております。使用後、要らなくなったら、あれもらえないかなー。そしたら、部屋の中に貼るんだけど。ちなみに、今は『ダ・ヴィンチ・コード』のポスターと、こないだの受胎告知来日時のBRUTUSのポスターが貼ってありますが。ふふふふふ。役得、かな?


ところで先日(一日です)、静嘉堂文庫の後に、国立西洋美術館へ行ってきました――開催中のコロー展です。戴きチケットがあったわけではなく、自腹。
こないだから谷中あたりをうろうろしてた時に、いたるところでポスターを見かけ、その“コローのモナ・リザ”こと「真珠の女」目当てに行ったのですが。
えーと、ぶっちゃけ、風景画が良かったです。
いや、この人、印象派のちょい前あたり(ちょうど戊辰戦争近辺)が活躍の時期らしいのですが、絵が、モネとかゴーギャンとかと全然違う! 何と云うのかな、絵の奥行と“空気感”とでも云うようなものが、すごくあって。あァ、これは古典絵画なんだと思いました。先生からレンブラントを経てコローに至る、世界をそのまま描き出すと云う“古典”なのだと。
空気感、って、自分と沖田番用語なんですけども、絵画の中の風の動き、空気の揺らぎ、光の動き、を、画家が感じたままに描いた濃密な雰囲気、的なニュアンスで――ここでポイントなのは、その際、描かれた風景はあくまでも写実的でなければならない、と云うこと。写真のように正確な、けれど写真よりも印象的な、それが古典絵画だと思ってますので。
今度、またフェルメールがいろいろ来るらしいですが、個人的には、フェルメールはドラマティックすぎる感じが致します。何か、陰翳とかが恣意的に過ぎると云うか。それよりは、やっぱコローだよね、ネーデルランド系ならレンブラントだよね、と云う。
まァ、趣味の話ですが。


あ、そうそう、本日(7/11)はブックフェアに行ってきました。や、招待券があったので――だって、本屋だし。
特に会場特典(2割引で書籍購入可能)に惹かれたわけではなかったのですが(だって、社販でも同じ割引率だし)、普段見られないような版元とか来てるので。今年で3年連続ですね。
とりあえず、ブックカバー目当てに角川文庫『氷川清話 附・勝海舟伝』(但し定価販売――セコいなー)と、バーゲンブックで岳真也沖田総司 血よ、花と舞え』(¥670-だった!)、あとキャンバス地のトート(3割引!)を買いました。プチグラさんって、雑貨可愛かった……
今年も新人物さんは出展してなかったなー。一昨年は、龍馬のマウスパッド戴きましたが。っつーか、『箱館戦争資料集』コンパクト版だして欲しいんだけどなー。今度営業さん来たら云ってみるか――っつーか、こないだ編集の人来た時に云っとけば……あああ。


この項、終了。
次は阿呆話、大物(たち)登場!