神さまの左手 8

 バルダッサーレ・タッコーネの戯曲は、題名を『ダナエ』と云い、その名のとおり、ギリシア神話のダナエに想を得た物語だった。
 「娘の息子に殺される」と云う神託を受けたアルゴス王アクリシオスが、神託の成就を恐れ、娘ダナエを塔に閉じこめる。だが、黄金の雨に姿を変えた大神ゼウスと交わり、ダナエは、後の英雄ペルセウスを生み――その後は、タッコーネの翻案で、アクリシオスは死なず、ダナエはゼウスによって星にされ、不死の女神となると云う筋書きに変えられている。
 レオナルドは、正直に云って、この翻案のかたちが好きではなかった。
 かれは基本的に、“父親”と云う種類の生き物が嫌いだったので、アクリシオスがペルセウスに殺される、元の物語のかたちの方が、かれの好みにあっていたからだ。
 とは云え、この芝居の上演される時期を考えてみれば、そのような話にするわけにもいかぬ理由は、とてもよく理解してもいたのだが。
 何しろ、この芝居は、イル・モーロとベアトリーチェ・デステの婚礼の祝いの席で上演されるのだ。そのめでたい席に、不吉な影を落とすような筋書きなど、許されようはずもない。レオナルドにできることは、芝居をいかにして盛り上げ、イル・モーロの栄光を讃えるようなものに仕上げていくかに頭を悩ませることくらいなのだ。
 ともかくも、この年の秋から冬にかけて、レオナルドは舞台のことで手いっぱいだった。
 いや、舞台ばかりではない。同じ祝いの席で催される馬上試合についても、かれが演出を任されていたのだし、それがなくとも、
「――サラーイ!」
 レオナルドは、小悪魔の名を呼ばわりながら、楽屋の中を歩き回った。
「サラーイ、どこだ! おとなしく出てきなさい!」
 こうして、あの“小悪魔”を探し回っているのは、あの少年が、またしても、小銭をちょろまかして姿を隠しているからだった。
 しかも、レオナルドの財布からならまだしも、今度の被害者は、舞台の練習に出ていた役者たちなのだ。
「サラーイ!」
 はっきり云って、演出家としてのレオナルドの面目が立たない。ただでさえ、拾ってきた子どもで育ちが悪いの何のと、陰口を叩かれることが多いと云うのに――これでは、名誉挽回どころの話ではない。
「サラーイ!!」
 叫んでいると、
「……何だよ、先生?」
 ようやっと、“小悪魔”少年が、幔幕の蔭から姿を現した。
 レオナルドが捜しまわっていた理由は知っているだろうから、すこしは反省の色も見えるかと思いきや、まったくいつもどおりのふてぶてしい顔つきだ。
 否、幔幕の陰などに隠れていたからには、多少の良心――かどうかは定かではないが――の呵責に苛まれていたのかも知れないが。
「何故、私が捜していたのかは、お前がよくわかっているだろう?」
 レオナルドは、すこし厳しい声で云って、少年を見据えた。
「お前、楽屋で、小銭を盗んだだろう。……今なら、私が穏便に済むようにはからってやれる。だから、盗んだものを出しなさい」
 レオナルドの財布から抜いたのなら、かれと少年との間のことで済ましてしまえる――こんなことを考えるあたり、大概自分も、この子に甘くなったものだと思わずにはいられない――が、第三者が絡んでくると、そう云うわけにもいかないのだ。少年は、盗人として指弾されることになるだろうし、そうなれば、保護者としてのレオナルドの責任問題にもなってくるだろう。自分の責任云々はともかくとしても、この少年に、これ以上肩身の狭い思いをさせたくはないと思っていると云うのに。
 だが、当の少年は、頑なな態度を見せてきた。
「厭だ」
サライ!」
「厭だ、俺、絶対返さねェから」
「出しなさい!」
「厭だ!」
「……サライ
 レオナルドは、困惑して溜息をついた。
 これほど強情を張る少年を見たのがはじめてであったことと、このまま意固地になられては、少年の立場がますます悪くなること故の吐息であったのだが。
「……だって」
 サライは、唇を尖らせた。
「だって、あいつらが悪いんだ」
「……? どういう意味だ?」
 金を盗まれた役者たちの方に非があるとは、一体どういうことなのか。
 レオナルドの問いに、少年は、きっと頭を上げた。その瞳は、涙でうっすらと滲んでいた。
「だって、あいつら! 俺のこと、あんたのお稚児だって云いやがったんだ!」
 レオナルドは、呆気にとられた。
 たかがそれしきのことで、この子どもは、盗みを働いたと云うのか。
 だが、少年は、ミラノに来てからこの方、“レオナルドの弟子、兼稚児”と云う見られ方をずっとされていたのだし、本人とても、それを知っていたはずだと云うのに。
「たかがそれしき……」
「あいつらは!」
 サライは、なおも云いつのってきた。
「あんたを男色野郎って云ったんだ! 可愛い男の子どもと見りゃ、誰にでも手を出す男色家だって!」
 レオナルドは、ぽかんとしてしまった。
「それは……」
 あながちでたらめとも云い切れない。
 実際、レオナルドは男色趣味があったのだし、綺麗な少年を愛でるのは――肉体的なあれこれを伴うことはないにせよ――楽しいと感じる人間だ。
 それを蔭でとやかく云われているのは知っていたし、気にならなくはないにせよ、そんなものだと割り切ってはいたのだが――この少年は、そういうわけにはいかなかったようだ。
 だが、所詮はそれはレオナルドの問題であるのだし、ここでこの少年が怒ったりするようなことではないと思うのだが。
 そう云ってやると、
「でも、あんた、俺に何にもしてやしないのに!」
 少年は、むきになって反駁してきた。
「あいつらに云われるようなことなんて、何にもありゃしねぇのに! あいつら、好き勝手なこと云いやがって……!」
 云って、悔しげに目許を擦る。滲む涙を拭うかのように。
サライ……」
 レオナルドは感じ入って、かれこそが目を潤ませた。
 サライの目から見てすら、多分レオナルドは、碌でもない人間の筆頭になるに違いない。それなのに、この少年は、敢えてレオナルドの肩を持とうとしてくれる。彼にとっては、生きる糧を得るためなのかもしれないが、それにしても。
 父からも見捨てられたこの碌でなしの自分を、ここまで擁護してくれる人間があろうとは――少年の、この抗議のし方は拙かったけれど、その心根に、レオナルドはいたく感動した。
「――お前が、私のことを思っていてくれるのは、よくわかった」
 少年の肩を抱いて、レオナルドは云い、けれどとその先を続けた。
「考えてもごらん、私は大人で、かれらに反論することもできるが、お前はまだ半人前で、金を盗んだりすれば、それが私のためであっても、問答無用で罰せられるのだよ。……悪いことは云わない、盗んだ金を出しなさい。あとは、私がどうとでもしてやれるから」
 やさしい声でそう云ってやると、少年は、暫の沈黙ののち、不承不承ながらも金を差し出してきた。
 レオナルドは、それを受け取り、少年の心をありがたく思いながら、そっとその頭を撫でてやった。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
タッコーネの『ダナエ』とか、小銭泥棒の話とか。


そう云えば、先日の水曜日(23日)に、国立博物館で「対決!」展を見てきました(またしても自腹)。
長谷川等伯と丸山応挙が見たかったからだったのですが、さして期待していなかった雪村と蕪村が良く。それだけでも行った甲斐がありましたよ。宗達や若沖、等伯と応挙は云わずもがな。
しかし、あれは面白かったのですが、屏風絵は、すこし離れたところから全体を見ると、構成の妙が味わえて良かったです。蕪村の良さは、それでわかったんですが。宗達とか応挙とかも、全体の構成が抜群にいいですね! さすが巨匠!
あと、この↑辺の人たちって、線が細く、繊細で、なおかつ迷いがない。そのくせ、構図はひどく大胆なので、もう、これだから才能のある奴って、って思いますね。
が、これの図録とかは買いませんでした。
代わりに、コロー展の図録は(結局)買っちゃいましたよー。ふふふふふ。


この項、一応終了。
次は阿呆話、さて、どっちにするかいな……