北辺の星辰 32

松前を攻めて戴きたいのだ、土方さん」
 五稜郭入城を果たして、榎本に報告に行くと、かれから返ってきたのはこのような言葉だった。
「正気ですか」
 と、思わず云ってしまったのは、雪中行軍を終えたばかりの陸軍兵のことが念頭にあったからだ。
 蝦夷地上陸が二十二日、そして今日は二十六日――五日間の行軍で、兵たちは疲弊しきっている。それで、このまま松前を攻略せよとは、あまりにも無体なもの云いではないか。
「もちろん、陸軍ばかりに任せるつもりはありませんよ。回天と蟠龍をやって、海上からの援護に当たらせます」
 榎本は、胸を張って云うものの、実際、雪にまみれて戦うのは、陸軍の兵士たちなのだ。
 しかも、作戦を聞けば、陸軍はまた雪中行軍をせねばならぬようだ。海軍が、途中まで輸送してくれると云うわけではないらしい。
「道々、あたりの集落の様子も探って戴きたいのです」
 と、云えば聞こえは良かろうが――陸軍兵に無理を強いることになるのは、どう云い繕おうと確かなことだった。
「せめて、あと五日は待って戴けないか」
 歳三は食い下がった。
 かれ自身、鷲ノ木から五稜郭までの行軍で、かなり疲弊しきっている。それでも、馬上にあった歳三などはましな方で、平の兵士たちなどは、手足を凍傷で痛めたものも多いのだ。
 それで、この上、松前までを行軍せよとは――歳三ならずとも、命じることを躊躇するだろう。
 兵たちに充分な休養を取らせ、英気を養わせた上で、出撃するのでなければ、徒に死傷者を増やす結果にもなりかねない。それは、京で新撰組を率いていた時に、骨身に沁みて感じたことだった。
 だが。
「ですが、機は今なのですよ、土方さん!」
 榎本は、ぐっとこちらを見据えてきた。
松前は、もともと夷狄に対する備えとしてある藩です。露西亜などとの接触もあり、そう云う意味では胆力はあるはず――その松前が、薩長に膝を屈すると決めている以上、我らとの戦いは必至。ならば、あちら方が戦いに臨む準備をかためる前に、こちらが叩いておくが吉と云うものではありませんか」
「確かに、“兵は拙速を尊ぶ”と申します、が、疲弊しきったものを鞭打ったとて、成果はさして上がりますまい」
 そもそも、箱館府へ無事入城を果たした以上、兵たちも、これでひとまず休めると、気持ちに緩みが生まれているはずだ。
 それを、すぐさま次の行軍に赴けと云えば、かれらの心の中に、上層部への不満の種を植え付けることにもなりかねない。
 そのことがどれほど組織を揺るがすのか、歳三は、新撰組での日々で、よく思い知っていた。
「せめて五日、いや、三日で結構ですから、兵に休養を取らせて戴き、しかる後に出師すると云うのならば承りましょうが――」
「もはや決したことだ、差し出口を挟むな」
 ぴしゃりと云ったのは、松平太郎だった。
「成り上がり風情が、すこしばかり京で名を知られたと云って、いい気になるな。所詮は貴様は雇われ者なのだ、そうである以上は、黙って我らの云うことに従えば良いのだ」
 その、尊大なもの云いに、歳三は苛として、その顔を睨み据えた。
「私は、ただ事実だけを申し述べているのですが」
「それが差し出口だと云うのだ!」
 居丈高な松平の言葉に、ぎりと奥歯を噛みしめる。
「実際に戦う兵たちを労わってやりもせずに、それでどうして、刮目に値する働きが望めましょうや」
 この男は、かつて陸軍奉行並であったと云うが――おそらくは、一度たりとて、実際に兵を率いて戦ったことなどないのだろう。兵の疲労の度合を顧みずして、戦いを制することなどできはしない。
 そう云う意味では、大鳥の方がよほど、兵の士気を見るのには長けているのかもしれない――もっとも、あの男の場合には、まわりをよく見ていると云うよりは、自身の実感を物差しにしているきらいはあったのだが。
 歳三の言葉に、松平はかるく鼻を鳴らしただけだった。
 ――くそったれ。
 この北辺の地までやってきて、ようやく侍の百姓のと云うあれこれから解放されたかと思いきや、またこの有様だ。
 松平の家が、同じ家名のもののうちでどれほど偉いのかは知らないが、それにしても、ことここに至って、まだ身分がどうのと云う話をされようとは思いもしなかった。
 そもそも、歳三とても幕臣に取り立てられた身、そうである以上は、役職はともかくとして、身分の上では松平との違いはないはずだ。
 それを、頭ごなしに“成り上がり”だのと――無礼にもほどがあるもの云いではないか。
 肚の底からわき上がる思いを、しかし歳三は、ぐっと呑み下した。
 今ここで、無意味な争いをしている時ではない。
「……では、せめて二日、いえ、一日で結構ですので、兵たちに休息を。それから、間道軍の陸軍、額兵のみでは心許ないので、更に人員を増強して戴きたい。この行軍で身体を痛めたものもおります、その補充も必要ですから」
「それはもちろんのこと」
 榎本はにこやかに云った。
「それでは、引き受けて戴けますな? これで安堵した、宇都宮を落とした土方さんならば、松前もたやすくその門を開きましょう」
 滑らかな世辞は、耳に心地よくも聞こえようが、しかし、実際この雪中での戦いを、かれは、かれらはどのようなものか把握しているのだろうか?
 ――くそったれ。
 耳触りのいい言葉で簡単に動かせると思われるのは癪だったが、松前攻略の重要性は、歳三とても理解していたから、こみ上げてくる罵声をまた呑み下す。
「……承知致しました」
 頭を垂れて、身を翻す。そのままいれば、この二人にどんな言葉を投げかけるか、知れたものではなかったから。
 足音も荒く――そうでもしないと、この苛立ちを身の裡に収めておくことができそうになかったので――割り当てられた部屋へゆくと、
「お疲れ様でした。榎本殿は、何と?」
 島田が、火鉢で手をあぶりながら、そう問いかけてきた。
 火鉢には鉄瓶がかけられ、湯がしゃんしゃんと沸いている。
「どうもこうもあるものか」
 歳三がどかりと坐りこむと、市村鉄之助が、その湯でかれらのために茶を淹れてよこした。
「間道軍は、明後日、松前攻略のために出陣せよときた。もうすこし休息をとらせてくれと云うと、成り上がりは黙って命に従えだとさ。……まったく、やってられねェや」
「はぁ、それは……」
 島田も、何とも云い難い面持ちで、黙りこむ。
「……何と申しますか、無茶なお話ですなぁ」
 やがて、かれが口にしたのは、そのような言葉だった。
「無茶も無茶、とんだ無理難題だ」
 とは云え、その無理難題を受諾してしまったのは歳三自身なのだ。
「まったく、額兵や陸軍の連中に、何と云ったもんだか、頭が痛ェぜ……」
 額兵隊の星恂太郎はともかくとして、陸軍隊の春日は、先日の野村利三郎との一件もあって、こちらの云うことを素直に聞きはすまい。
 かと云って、あまり榎本や松平に責任を被らせる――実際には、まったく彼らの責任以外の何ものでもないのだが――ようなもの云いをすれば、それはそれで、反感を買うことになりかねないだろう。
 まったくもって、頭の痛い話だ。
「まぁ、承服してもらうより仕方ありませんなぁ」
 島田が云うのに頷きつつも、
 ――さて、どうしたもんか。
 とは云え、そうそう良い考えが浮かぶわけもなく。
 歳三は、溜息をついて、無駄な悩みを放棄した。


† † † † †


鬼の北海行、続き。
松前攻略、の手前〜。


っつーか、いくら何でも、五稜郭入城の翌々日の出立って、早すぎだよね、と云う釜さん。
そりゃあ“疾きこと風の如く”と云っても、兵の士気とか見ないとヤバいでしょって云うか。
どうせ、蝦夷に幕軍が渡航してきたってのは、松前はそれなりに前から知ってたはずだし、藩意も決してるんなら、こっちも万全の態勢で行くんじゃないと駄目だったんじゃないのかなァ――結局何とかなりはしたけども。
そう云う釜さんの甘さが、いろいろ後々響いてくるんだけど、っても、本人ちっとも気にしないんだろうけどな。タロさんだけが、横でキリキリしてるんだろうけどな。……釜さんのどこがいいんですかね、タロさん?
どうも、釜さんがあんま好きじゃないなァと、再認識。
あ、タロさんももちろん好きじゃあありません。だって厭味なんだもん。以前、阿呆話でチラ書きしたのは、こんな感じのあれこれだったのですが――タロさんを冷静に見るのは、私には無理っぽい。書き進むごとに、駄目になってく感じ。ふふふふふ……
な、中島さんが早く出したい……ホント、箱館の癒しは中島さんくらいですね……


あ、「箱館戦争史料集」Get致しました。原価の何倍だよって云う(しかし密林さんに出てるのよりは安い……)。
とりあえず、苟生日記が使えそうだなー、っつーか面白そうだなーと。天気とか私見的毒吐きとかがね。しかし、この人(=杉浦清介)、スゲーこと書いてんなァ。っつーか何かい、タロさんと松岡四郎次郎さん(前の阿呆話の中で、伊庭が殴った人)はそんなに駄目か。鬼も嫌いか、そうかー。疑惑の永井玄蕃さんの下にいた人っぽいが……この人は、疑惑に関わってないような気がする。何となく。
しかし、この本も相変わらず抄録ばっかだ……その前後が欲しいんだよ! って云うのが、どうにもね……まァ、私はなくても書けるけどさ!
とりあえず、もの書きさんには、「新撰組日誌」の方が使いやすいかもね……


そして、¥105-で「土方歳三のすべて」もGet……何故、児童書のコーナーに置いているのだ、ブック×フよ……
しかし、この本はあんまり使えないなー。私は小説が読みたかったわけではないのだけどね。小説は小説で買うけどね。まァ、今さら人から鬼の話を聞くまでもないってところはあるからなァ。
しかし、永井玄蕃さんの記事は、全体に少ない……裏付けが欲しい、が、この人だんまりだからなー……釜さんとは対照的。ふふふ……


あ、そうそう、小噺 人物表(こちら/別窓開きます)を更新したついでに、鬼と総司に対する、他の皆様の一言人物評のページを作りました。この二人が、まわりからどう思われてるのか、興味のある方はご覧あれ。
ちなみに、源さんのコメント、対かっちゃんVer.は、「放っておくと、心配だし問題だ」です。どんなよ、ねェ。ふふふふふ……


この項、終了。
次はルネサンス、かな……