神さまの左手 9

 復活祭が過ぎて、しばらくが過ぎた一月の半ば、イル・モーロとベアトリーチェ・デステ、そしてアルフォンソ・デステとアンナ・スフォルッツァのふた組の婚礼の儀が、盛大に行われた。
 サライは、画家の弟子と云う身分のため、公の式に出ることはできなかったが――その分、ミラノ市中のお祭り騒ぎにうつつを抜かしていた。
 ミラノの市民も、イル・モーロの婚儀を見ることができるものなどほとんどありはしなかったのだが、そこはご領主様の婚礼のときだ、それにかこつけ騒ぐのは、いつでもどこでも同じことだった。
 石畳の道のそこここに、イル・モーロの婚礼を祝う花々が飾られている。頭上の窓からは、舞い散る紙吹雪と、美しい花びらの雨。
 艶やかな衣をまとった若い男女が街を練り歩き、まるでこれが、自分たちの婚礼ででもあるかのように、手を取り合って接吻を交わし、睦言を囁き交わしている。
 辻には楽師が立って、リラ・ダ・ブラッチョをかき鳴らし、この婚礼がいかにして成り立ったかを、まことしやかに歌い上げている。その横には、肉を串にさして焼く露店の男、あるいは飴菓子を売りつける若い女
 ――お祭りだ。
 浮き浮きしながら、サライはそれらを見て回った。
 レオナルドからせしめた小銭を握り、菓子を買ってはそれを口に放りこんで、楽師の歌を冷やかして過ぎる。
 ――お祭りだ。
 サライは、このお祭り騒ぎが心から好きだった。
 こそ泥をしていたパヴィア時代、お祭りは、彼の稼ぎ時であったからだが、そうでなくとも、サライは、祭りのこの空気、刹那の華やかさを、とても愛していたのだ。
 撒かれる花弁は踏み散らされ、石畳の上で茶色く変わってゆく。紙吹雪も、踏みしだかれて汚れてゆく。
 だが、その刹那、花が、紙吹雪が、宙を舞うその瞬間、それこそが、ひどく美しく、華やいで見えるのだ――そののちに踏みしだかれるとわかっていればこそ。
 それは、あるいはガラス細工の儚い美しさと、同質のものであったのかもしれない。容易に砕け散るからこその美しさ、踏まれ、汚されるが故の愛おしさであるのかも。
 サライは、浮かれて石畳の上を跳ねまわった。レオナルドに買い与えられたエメラルド色の衣が、風を張らんでひらひらとはためいた。
「……ここにいたのか、サライ!」
 と、聞き慣れた声が叫び、大きな強い手が、サライの身体をひょいと持ち上げた。レオナルドが、息を切らせて、サライを抱え上げていたのだ。
「レオ、何で?」
 サライは、驚いてレオナルドの髭を掴んだ。
 確か今日は、レオナルドは、舞台『ダナエ』の監督で忙しいはずなのに――だからこそ、サライは小銭をせしめて、彼の邪魔にならないように城下へと出てきていたと云うのに。
 そう問いかけてみると、
「私の舞台を見ないつもりか、弟子のくせに!」
 レオナルドは憤然として云い、サライを粉袋のように担ぎあげると、石畳の道を、ずかずかとスフォルツェコへ向かって歩きはじめた。
「ちょ、俺、ひとりで歩けるって!」
 じたばたと暴れると、
「逃げないと誓えるか」
 レオナルドが、怖い顔で睨みつけてくる。
「う……」
 サライは、瞬間、言葉に詰まった。
 “逃げないと誓えるか”、そんなことを云われても、保証などできるはずもない。
 だが、レオナルドは繰り返して問いかけてきた。
「逃げないか」
「――……わかったよ、逃げないってば!」
 遂に、渋々とだが、サライは頷いた。
「宜しい」
 満足げなレオナルドは、すぐに彼を下してはくれたが――片手をしっかり握って離さないのは、よほど信用がないと見える。
 レオナルドは力が強く、とてもその手を振り払えそうにはなかったので、サライはおとなしく、彼の隣りをスフォルツェコへと向かって歩きはじめた。
 正直に云って、サライがレオナルドの傍についていなかったのには、舞台役者たちから邪魔にされると云うこともあったのだ。
 例の小銭泥棒の一件だけでなく、それ以前から、彼らは、子どものサライを邪険にし、突き飛ばさんばかりに押しのけてきたり、あるいはレオナルドとの関係を――事実無根なことを囁き交わして――あげつらったりしてきた。そのような連中の間をただうろうろとして、彼らに蔭口の種を与えることは、サライの意に反していた――だからこそ、今日この日、レオナルドの傍ではなしに、こうして街に繰り出していたのだが。
 当のレオナルドに捕まっては、もう仕方がない。
 路地の向こうに、スフォルツェコの巨大な城門が見えてくる。
「……じきに、舞台がはじまるぞ」
 レオナルドは、足を速めながら呟いた。
サライ、お前は、天国もかくやと云う光景を見たことがあるか?」
「……うぅうん」
 サライは首を振った。
 天国のような光景など、見たこともなかった。
 いや、天国にいるような人ならば見た。今、彼の手を掴んでいる人、“ウォモ・ウニヴェルシターレ”レオナルドこそが、彼の神――レオナルドのいるところがすなわち、サライにとっての天国だった。例えばそれが、どれほど場末の路地裏であれ。
「それなら、お前がこれから見るのは、はじめての光景になるのだな」
 レオナルドは云って、くつくつと喉を鳴らした。
サライ、お前はよく、私のことを碌でなしだの何だのと云うが――見るがいい、私は天才だ、正真正銘、神の盃を受けしものだ!」
 その、誇らかな顔に、サライは思わず息を呑んだ。
 サライの“神さま”は、その瞬間、確かに神のごとくに見えたのだ。
「……う、うん、レオ」
 彼は、こくりと頷いた。
「あんたは天才だよ、本当に神さまみたいだって思ってるよ」
 教会の神を信じるよりも、レオナルドを信じている――彼の、奇跡のような左手を。
「ならば、きちんと私の舞台を見ろ!」
 云いながら、レオナルドは、サライを楽屋の中へと引きずりこんだ。
 と、
「あっ、マエストロ・レオナルド! どこへ行っていらしたのですか、もうじき幕が上がります!」
 楽屋へ入るや否や、役者たちを取り仕切っていると思しき男が、慌てた様子で声をかけてきた。
「わかっている!」
 叫び返し、レオナルドは、サライを振り返ってきた。
「見ろ、サライ。天国の幕開けだ!」
 その言葉が終わるより早く、舞台の方から楽の音が鳴り響き――
 袖に駆けつけたサライの目には、絢爛たる光景が飛び込んできた。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
祭りのあとさき、と云うか(むしろ、先だけ……)。
っつーか、この話、9章でまだ『ダフネ』かよ……『最後の晩餐』は遠いわ……


本当は、新撰組の夏祭り話in京都を書こうかな、と思っていたのですが、久々に下書きありの話(いや、こないだ別件で、下書きありの短い話は書いたんですけども)で、中々筆が進まないと云うか。
ので、下書きなしの祭り話(冬だけど!)を先に。
ルネサンスの祭りの様子はイマイチ不明なので、TVとかの映像+人さまの小説(っても、岩波の『ジョコンダ夫人の肖像』くらいだけど)を参考にしつつ。『〜肖像』の先生みたいだったら、もっとスマートなんだけどもねェ……(苦笑)


実は、下書きを進めてるのはもうひとつあって、そっちは総司と黒猫(?)の話なのですが。
まだ半分くらいしか進んでない……(汗)
そんなこと云ったら、鉄ちゃんの話の書きなおし篇(本館で2までUP)なんか、いつになるやら……まァ、9月から職場がかわるので、ザ.ウ.ル.ス片手に、お昼時に直したいと云う野望はあるのですが。職場環境がイマイチ不明なので、どうなるかは未定……ふふふふふ……


この項、終了。
次は阿呆話、彦にゃ〜ん。