神さまの左手 11

 祝祭が終わってしばらくの間、レオナルドは、例の“騎馬像”に取り掛かるでもなく、ややだらけた日々を送っていた。
 朝遅くなってから起きてきては、以前描いていたらしき素描を丹念に描き直してみたり――但し、依頼があってのものではないので、まったくのお遊びでしかない――、あるいは何やら益体もない――としか、サライには思えない――考察を手帖につらつらと書き連ねてみたり、仕事をする気があるのかどうか、疑いたくなるような態度だった。
 こんなことで、本当にこの人は、画家として食べていけるのだろうか――十をすこし過ぎたばかりの子どもにこんな心配をされる段で、大人としてはかなりどうかと思わなくはないのだが、それでも、サライにとって、レオナルドは神にも等しいひとであったから、仕方がない。
「……なぁ、レオ、馬はどうすんの?」
 それでもおずおすと、サライは怠惰に流れるレオナルドに、そう問いかけてみたのだ。
 いくら、イル・モーロに気に入られていると云っても――そして、先だっての婚礼の祝祭を成功裡に終わったとは云っても、あまりのんべんだらりとしていると、心象が悪くなって、次の仕事が来ないのではないかと心配だったので。
 すると、
「私はようやっと、大仕事をひとつ片づけたのだ。暫くは、もう頭を使いたくない」
 などと云って、枕を抱えてごろごろとしている。これが、もう四〇になろうかと云う人間のやることとは、とても思えない。
「ったって、馬をやんないと、イル・モーロに怒られるんじゃないの?」
 ミラノで暮していくためには、イル・モーロの意に添うようにしなければ――何しろ、イル・モーロこそが、レオナルドのパトロンなのだから。
 サライが云うと、
「わかっている!」
 レオナルドは、苛立った声で云い返してきた。
「だから、私だって考えていないわけではない! ただ……像の重心がどうしてもうまくとれないのだ。だからこうして、良い案が浮かぶのを待っているのだ」
「そんなこと云って、それで本当に何か浮かぶのかよ……」
 レオナルドが最近やっていることと云ったら、昔の素描の手直しと怪しげな“考察”、それから、そう、死体の解剖だ。
 どれもこれも、騎馬像の制作に関係があるとは思われない。
 第一、死体の解剖など――サライは、決して信心深い人間ではないけれど――悪魔の所業としか思われないのだ。
 と云うか、気持ちが悪い、と云うのが本当のところだった――サライも、一度ならず連れて行かれたことがあるが、暗い地下室の中で、蝋燭の細い光だけを頼りに解剖している様は、やはり異様としか云いようがない。
 その上、室内に立ちこめる、死臭と血臭、その他の何とも云い難い饐えた臭い。
 とても、普通の人間の為せることとは思われないのだ。
 そればかりではない。
 レオナルドは、人体の骨格にも夢中で、特に頭蓋骨を偏愛していた。どこから手に入れたものか、磨き上げた頭蓋骨を持っていて、それを机の上に置いては撫でさすっていることもあった。
 誰のものとも知れぬ頭蓋骨を、そんな風に撫でさすっているのを見るのは、はっきり云って気持ちのいいものではない。
「……何で、頭蓋骨なんか持っとくのさ」
 サライは、すこし引きながらも、そう問いかけた。
 が、レオナルドは嬉しそうに、
「お前には、この自然の作りだした、奇跡のような美がわからんのか」
 などと云う――そんなもの、わかりたいわけがあるものか。
「だって、気味が悪ぃよ」
 それは、かつては生きた人間の頭だったのだ。その虚ろな眼窩には何色とも知れぬ瞳が輝き、罅の入った骨の上には筋と皮膚が張られていて、頭頂からは豊かに髪が流れ落ちていたはずなのだ。歯は唇に被われて、そこからは麗しい声がこぼれていたのかも知れないのだ。
 それが、白茶けた色の骨ばかりになって、レオナルドの手のうちに収まっている様は――やはり、決して見ていて気持ちのいいものではなかった。
「だが、この骨が、生きた人間のうちにあるのだと思ってみるがいい」
 レオナルドは、そう云いながら、慈しむように頭蓋骨を撫でさすった。
「この骨が、まだ生きていた時のことを思ってみれば。――これは、ある女の骨だったのだ。どんな女だったのかは知る由もないが……その女が、この眼で世界を見、ものを食べ、言葉を紡いでいたのだぞ。この、小さな骨のなかに収まった脳髄でだ!」
「……気持ち悪ぃよ」
 たとえば、自分が死んだ後、誰かがこの頭だけを持ち去って、骨を磨いて撫でさすっていると考えたら。
 考えるだけで、ぞっとした。
「こんなに美しいのにか!」
 云いながら、レオナルドは、頭蓋骨の口を、かくかくと開閉させた。まるで、古い絵画――「死の舞踏」の――に出てくる骸骨のように、何ごとかを語りかけてくるようにも見える。
サライ、見るがいい、この精巧にできた、顎と頭骨の関節を――この関節がなめらかに動くことによって、人間は、たとえば今、私がそうしているように、喋ることができるのだよ。ほら見なさい、この下顎の骨が、どう上顎と繋がっているかと云うと……」
「厭だって云ってるじゃねぇか!」
 頭蓋骨を持ったまま近づいてくるレオナルドを、思わず払いのけて、叫ぶ。
 と、レオナルドは一瞬、目をぱちくりと瞬かせ――次の瞬間、頭蓋骨の口と一緒にくわっと口を開き、サライに迫ってきた。
「何ということをするんだ、この悪餓鬼め!」
 ――だって、厭だって云ってんのに、あんたが近づいてくるからじゃねぇかよ!
 と、叫び返す暇すら与えられず、追いかけられる。
 結局。
 疲れきったサライが、レオナルドに捕まって、頭蓋骨を押しつけられながらひたすら「ごめんなさい」と云わされたのは、ややしばらくあってのことだった。


† † † † †


ルネサンス話、続き。今回はやや短め。
自堕落先生〜。


この辺は、はっきりしたネタがなくって、結構書き難い……
だって、詳しい研究家の作った年表見ても、この年ちゃんとやった仕事って、前回までの婚礼の祝祭にまつわるあれこれ、だけみたいだし。馬の話も、結構後々まで引っ張ってるので、ここですぱんと決着がつくわけもなし……何てこった。
まァ、あんなネタやらこんなネタやらを(電波的に)仕入れてみたので、あれこれ書いていきますが。


ところで、そろそろこの話(っつーかルネサンス話)書くのに使ってる資料とか、並べ立ててみたらいいのかなァ?
いっつもアレなんですけども、私、割と社会史・文化史的な資料買わない(幕末もそうだけど、ルネサンスも)ので、あんまり人さまの役には立たない資料一覧になりそうなんですが。
ちょっと面白い(私的に?)ネタもあるので、次の項くらいにやってみようかなー。


あ、そうそう、以前云ってた原寸大モナ・リザ、貰って来ました♥
やー、店頭で見てた時もおっきいなーとは思ってたのですが、自分の部屋に置いてみると、本当におっきいですね! 書店貼りのポスター(大体A2くらい)よりもおっきいよ! しかもダンボールなので(……)微妙に壁にも貼れない……仕方ないので、壁に立てかけてます。
これが“小さい”(まァ、tableauですからね)んだから、どんだけ大きかったんだ、ルネサンス絵画。まァ、結構フレスコが多かった時期だから、確かにtableauは小さいんだろうけどさ……


この項、一応終了。
次は、気力があれば、ルネサンス資料一覧。なければ――21日から門司・萩ツアーなので、帰宅後に紀行をUPします……