北辺の星辰 38

 沖合に見える船体は、大きく傾いで波に打たれていた。
「昨夜の大風で煽られて、岩場に乗り上げてしまったと云うことらしいのです」
 衝鋒隊を率いる永井蠖伸斎は、そう云って、疲れたように吐息した。
「……では、開陽は動けないと云うことなのか」
 と問うと、
「動けぬどころか……船底が岩で大破して、海面下に沈むのも時間の問題だと云うことです」
「何てこった……」
 歳三は、思わず傍らの松の幹を殴りつけた。
 開陽丸は、この蝦夷地攻略後の、対薩長連合軍戦における戦力の要であると聞いていたのだ。榎本の有する艦船は、大きさや艦隊の規模、積載された銃砲の火力などすべての面において、薩長連合艦隊に勝っているのだと――特に、それ一隻で本土‐蝦夷地間の制海権を握るとさえ云われる開陽丸があれば、幕軍は海上においては無敵であるのだと、そう聞かされてきていたのだ。
 それが、こんなところで座礁とは。
「何てェこった……」
 呆然と呟くしか、ない。
 この時、歳三は知らなかったのだが――実はこの開陽、木造艦であるために浮力が大きく、そのため、均衡をとる脚荷として銅塊を船底に積みこんでいた。だが、蝦夷地駐留のための経費がかさみ、それを補填するために、銅塊を売り払ってしまっていたのだ。
 脚荷もない不均衡な状態で、松前特有の北北西の風――地元では、これを“たば風”と呼んでいる――に煽られては、船はひとたまりもなく岩場に打ち上げられてしまったのだった。
 雪混じりの風の向こうで、開陽は、傾いてはいるものの、三本の船檣すべてをまっすぐに天に向けている。
 ――あれが、沈んぢまうってェのか。
 悪い冗談だとしか思えないが、しかし、永井らの表情を見れば、それが冗談などではないことはよくわかった。
 開陽が、沈む。
 海上における戦力の要を失うとなれば、この先の戦いは一体どうなると云うのか。
 歳三が、もう一度松の幹に拳を叩きつけた時。
「……榎本の阿呆めが」
 すぐ近くで、低い、吐き捨てるような声が云った。
 そちらに目を向けてみれば、そこには、初老の男がひとり、険しい面持ちで、傾いた姿を晒す開陽を睨みつけていた。
 身の丈は歳三よりも二寸ほど低い――とは云え、中背と云うよりは若干高い――ほどか、五十がらみ、半白の髪を総髪にした、痩身の男。薄い唇を笑うようにねじ曲げてはいるが、そこに浮かぶ表情は、笑いには程遠い剣呑なものだ。
 ――誰だ……?
 陸軍のものでないのは確かだ――この男のまとっている衣服は、衝鋒、額兵、彰義のどの隊のものでもない――が、それでは必然的に、この男は海軍の人間であると云うことになる。
 榎本を、陰口とは云え呼び捨てにし得る初老の男、となれば、この男は、海軍内でもそれなりの地位にあるのに違いない。
「……失礼ですが、海軍の方とお見受けいたしますが」
 軍艦奉行である榎本を“阿呆”呼ばわりする男に興味をおぼえ、歳三はそう声をかけた。
「いかにも然様であるが、貴殿は」
 途端に、胡散臭そうなまなざしが返るのに、苦笑がこぼれる。
 身についた武士ならぬ立ち居振る舞いは、やはり見るだけでわかるものなのか。
「私は、陸軍松前攻略部隊総督の土方歳三と申します」
 今の立場をそう云えば、相手は若干の黙考の後、
「……土方――では、新撰組の」
「はい、京におきましては、副長を務めておりました」
「ははぁん」
 相手は、大きく片頬を歪めた。
「では、お前が例の勝安房の狗か」
 歳三の胸が、大きく音をたてた。
 “勝安房の狗”。
 それは、
「――江戸脱走の件をおっしゃっておられる?」
 榎本とともに、江戸城開城後の徳川宗家を守るため、示し合わせて江戸を脱した、あの時のことを云っているのか。
 さもあろう――よもや、今、現に歳三が果たしつつある密命――幕軍を敗北させよと云う――のことではあるまい。
 男は、小さく鼻を鳴らしてきた。
「さてな、それはお前がよく知っているんだろう」
 含みのある言葉。まるで、歳三に課せられた密命までも、すべてを知っていると云わんばかりの。
「……失礼ですが、御名を伺えましょうか」
「俺か」
 男は、再び片頬を歪めてきた。
「俺は、軍艦取出方、中島三郎助だ」
「……然様でございますか」
 軍艦取出方がいかなる地位であるかは歳三にはわからなかったが、役職名からして、軍艦奉行に近いところに位置した人物であるに違いない。
 それにしても、この中島という男、軽さの目立つ榎本とは異なり、かなり癖のある性格をしているようだ。初対面の人間に対して、いきなり“勝の狗”とは――よほど皮肉な質をしているに違いない。相変わらずねじ曲げたままの唇からも、それが読み取れる。
 並の人間であったら怒りをあらわにしただろう。だが、歳三は生憎と、こういう癖のある人物が嫌いではなかった。
 と云うよりも、榎本のような如才ない人間よりも、この中島の荒々しいまでの気性を好ましく感じていた。
 あるいはそれは、そのような気質の中に、歳三の兄・為次郎と一脈通じるものを感じた故であるやも知れぬ。
 生来盲目である長兄・為次郎は、自身で「目明きだったら畳の上では死ねなかったろう」と嘯く、豪胆な男であった。大雨で増水した浅川を、渡河することを躊躇う目明きのものらを尻目に、独りで泳いで渡り切るような男であった。そうして、何かと対立しがちだった次兄との間に立って、歳三の肩を持ってくれたのも、この兄であったのだ。
 今、目の前にいる中島三郎助と云う人物は、その為次郎と、どこか似通った雰囲気を持っている、となれば――それは、歳三としては、好意を抱かずにはいられぬだろう。
「……榎本さんのことを“阿呆”とおっしゃっておられましたが……構わぬのですか」
 陸軍の人間に、そのようなことをこぼしても?
 歳三は、笑みを含みつつそう問いかけた。
 中島は、かるく鼻を鳴らしただけだった。
「まことのことを云ったまでよ」
 その言葉に、歳三はまた、笑みをこぼした。
 ――面白ェ御仁だ。
 “勝の狗”呼ばわりの裏に、どのような根拠を持っているかは知らないが、しかし、言葉の棘にも拘らず、声音やまなざしは、どこか面白がっているようでもある。
 この人と、親しく言葉をかわせぬものか。
 正直、榎本や荒井などの海軍畑は気が合わぬ――さりとて、大鳥とも反りはあわぬのだが――が、この人であれば、あるいは、気脈を通じ合せることができるやも知れぬ。
 榎本らに対しては、今回の松前江差攻略で、その作戦のいい加減さに、歳三も辟易気味だった。だが、海軍と完全に切れてしまっては、この後の蝦夷地での戦い――遂に敗れ去るまでの――を、心おきなく戦い切ることはできぬだろう。
 そうならぬためにも、ここで中島と縁を結んでおければ、この先何が起ころうとも、歳三と海軍との間に、わずかにでも繋がりを残しておける。そうも踏んでのことだった。
 とは云え、この手の人物は、いきなり攻めても容易く心を開くようなことはない。搦手から、じっくりと攻めてゆかなくてはならぬ。
 そのためにも、まずは、中島の心のうちに、己の名だけでも刻みこんでおかなくては。
「……いずれ、中島殿のご意見も、じっくりお聞き致したく存じます」
 下手下手にそう云えば、中島はまた、ふんと鼻を鳴らした。
「勝の狗めが、何を抜かすか」
 だが、やはりその声は、かすかに笑いを含んでいるようでもあった。
 ――押せば、落ちる。
「……滅相もないことでございます」
 やんわりと微笑んで見せながら。
 歳三は、確信をもって、この老将との関わりが長く続くであろうことに思いを致した。


† † † † †


鬼の北海行、続き。
中島三郎助さん登場!


ふふふ、ここに至るまで(はオーバーとしても、つい三章くらい前まで)、どうやって中島さんと鬼が知り合ったのか不明だったんですが――うん、多分この時。確か中島さんは開陽の機関長か何か(それとも砲兵長だったっけ?)をやってたので、開陽座礁後の江差が初対面のはず。
もう、この話、蝦夷渡航後は、中島さんに会うことを目標に書いてきたと云っても過言ではない(←え)ので、やっとこのシーンに到達できてうはうはです♪
この先、中島さんはちまちま登場しますので、私的にはとても楽しいですよ、ふふ♪
やっといろんな資料が使えるわ――っても、あんま資料関係ないか……まァいいけど。
ともかく、思う存分あの人の口の悪さ+アニキっぷり(笑)を書いていきたいと思います。アニキ、アニキ、アニキーっ!!(笑)


そう云えば、全然関係ないのですが、先日(2/17)、豪徳寺に行って参りました――彦にゃんのお墓参り・リベンジ。
先だって行った時は、僅差で閉門時間を過ぎておりまして、お参りできなかったのです。柵の外からそれらしいお墓だけ覗き見て、ちょこっと手を合わせたりはしたのですが。
えーと、豪徳寺は、流石に井伊家の菩提寺だけあって、結構立派なお寺でした。っても、国許のお寺の方が立派だろうとは思うのですがね。何と云うか、古い本堂とか、立派なんだけどコンパクトと云うか、威圧感はあんまり(良い意味で)ないお寺でしたよ。
そうそう、ここって招き猫の発祥の地なんだよね。招福堂とか云う、招き猫だらけの祠もありました。と云うことは、例の“彦根の良いにゃんこ”は、招き……? 何かグッズあれば良かったのになー、っつーか、商店街の中のお店では、招き猫トート売ってたけどね。根付とか欲しかったなァ。


で、彦にゃんのお墓は、井伊家累代の墓所の端っこにありました――東京都の史跡に指定されてるらしく、その旨を書いた標識が立ってました。
お墓のすぐ傍には、山茶花? の木と、杉の木が植わってた……立派なお墓、だけど若干淋しい感じがしたのは何でだろ。姫=阿部正弘殿のお墓は、徳川家墓地のすぐ傍(ってことは、谷中霊園の真ん中)だったけど、同じ墓域内に新しいお墓(要は、一族の方の、本当に最近のお墓)なんぞがわさわさあったせいか何か、何となく賑やかな感じがしたのに。彦にゃんとこは、藩主様のお墓だけだったからかしら。
まァともかくも、お参り。手を合わせて、頭を垂れる。
最近、阿呆話でネタにしてるせいもあるかと思うんですが、やっぱ彦にゃん嫌いじゃないなァ。お茶への情熱とか何とか、嫌いじゃないと思います。っつーか、結構面白い人だよね。アタマ堅いけどね(笑)。
うん、姫のとこもだけど、彦にゃんとこにもまたお参りに行こうと思いましたよ。


この項、終了。
とりあえず、明日(3/2)から、沖田番と京都です。ざうるす持ってくので、向こうから更新できるといいなー。