新撰組と云う“組織”。

本日、朝日の「週刊司馬遼太郎」5巻が出たので、仕事上がり後、ちらりと時代小説の棚を見に行ったのですが。
そこで一緒に置いてあった中村稔「司馬遼太郎を読む」(青土社)に、何やら置き捨てならない文を読んだので、ちょこっと。


まァこの本、読んだと云っても、新撰組絡みの部分(『新選組血風録』と『燃えよ剣』の考察)をさらっと読んだだけなのですが。
この人、新撰組や鬼のことが嫌いらしい――いや、別にそれはそれで一向構わんのですよ、ひとの好悪ってのは理屈じゃないし、自分が思い入れがあったって、それを好きじゃない人や興味のない人、嫌いな人だっていて当然(逆に、こっちがかれらの好きなものを嫌いor興味がない可能性だって山とあるわけだし)だからいいんですよ。
それはいいんだけどさ――「新撰組が“組織”として機能したとは思われない」って、しかも、それが例の局中法度故って、そりゃどういうことよ、って云う。
記憶を頼りにうろ覚えで書きますが、「私は、組織と云うものは人情なしに機能しないと考えているので、このような血も涙もない規律でがんじがらめにされた集団が、“組織”として機能したとは思われない」だったかな?
これ読んで、私真剣に、「こいつ阿呆かいな」と思いましたぜ、いや、マジで。


思い起こして戴きたいのですが、新撰組と云うのは、京都守護職御預の、今で云うなら、れっきとした公権力なんですぜ――まァ、位置的にはそりゃあ端っこも端っこだけどさ。
でもって、京師を騒がす“不逞浪士”を取り締まる武力集団、銀.魂じゃないけど、云わば「武装警察」なわけですよ。
しかも、この面子、非-武士階級出身者か、あるいは食い詰め浪人の、腕に覚えのある奴ばっかりで構成されているわけです。不良上がりの警官みたいなもんなので(しかも、下手に腕に覚えがあるもんで)、例えば酒呑んで暴れた、とかやると、まわりの被害が甚大なわけですよ。まァ、そもそもまわりのまなざしも冷やかなんだけどね(苦笑)。
っつーか、そう云うこと(=元・不良の警官の不祥事)がTVや新聞なんかで報道されたら、みなさん「警官のくせになんて奴だ」って思いません? 「所詮は不良上がりか」って思うでしょ? 思いますよね?
そう云うレベルの話で、隊紀をきちんとしておかないと、もとから出が怪しい連中ばっかで評判悪いんだから、ますます評判悪くなるでしょうって云う。


個人的に考えているのは、一定以上の行使可能な物理的攻撃力、平たく云うと戦闘力、を持った集団(個人はまァ、潰しようがあるからな)ってのは、基本的には一般的な社会とは相容れないものがあるのではないかということです。それは、その集団が治安維持に貢献しているとかそういう話とは別のレヴェルの話なのですが。
警察が、どれだけ社会の平穏のために活動しているとは云っても、あの制服を見たり、あるいは白黒ツートンのパトカーの車体を見ると、無意識に身構えることってあると思います。
道に迷った時に、交番でお巡りさんに道を聞けても、車に乗ってて、白バイが近くに寄ってきたら、何の落ち度もなくても、ちょっとどきっとしませんか?
まして、これが自衛隊の演習に赴く隊列と並走することになったらどうですか? 道路交通法云々云われることはないし、いきなり小銃を乱射されることはないとわかってても、やっぱり構えたりしませんか?


新撰組が活動している状態、と云うのは、結局のところ、街中に小銃を構えた自衛官が常駐しているようなものだったと思います。
かれらの仕事は、京洛の治安維持でしたが、取り締まる相手が、大っぴらに刀を差せる連中だったので、それに対抗するには、抜かれたら抜き返すしかないわけで。
そうなると、街中で斬りあいになるのも已むなし、ってところはあったわけですが。
一般の町衆的には、それこそ突発的に街中で銃撃戦がはじまるようなもんで、まァそれだけで評判も悪くなるわけですよ。
それでなおかつ一般市民の生活に支障の出るような不祥事を起こすとなれば、その集団は、正当な任務を行うことすら困難になりかねないわけです――もちろん、旧東独逸や旧ソ連などの秘密警察はその限りではありませんが――あれは、もっと大きな権力握ってるからな。


で、そんな集団の運営に“人情”とか持ちこんだらさ――はっきり云って、百害あって一利なし、ってことになるだけなんですよね。
わかり易い事例(多分)で云うなら、海上自衛隊の事故とか。
潜水艦なだしおやイージス艦あたごの事故の時の、海上自衛隊の幕僚の処分とか、どう思われました? ぬるいと思いませんでした?
あの処分が、組織の運営に“人情”を持ちこんだ“良い例”なんだと思うのですよ。
ちょっとした不注意からだから、今後は二度と起きないようにさせるから、って、人が何人死んだと思ってるんだ! って云う。そんなぬるい処分で済ませるから、似たような事故が、いつまで経っても繰り返されるんじゃん、って云う。そう云うのってあるでしょう。
一般企業なら、軽いミスは“人情”で処理したってまァ構わないかもしれない、けれど、武力を持った集団のミスって云うのは、それだけで大変な罪悪なんですよ。そのせいで、どれだけの人間が被害を被って、しかも組織内で責任をうやむやにされて、被害者は泣き寝入り、ってことになるか、考えてみたら空恐ろしいものがあります。


で。
この中村稔ってひとは、弁護士らしいのですが、検察や公権力と戦うべき立場の人間が、この程度の認識でやってけるんだ、へェー、と、ムカつく気分でいっぱいになりました。
公権力や武力集団の犯した些細な過誤が、どれほどの重大な被害をもたらすのか、長年弁護士やってた(この方、どうやら戦前〜戦中の生まれらしいので)人間なら、すぐにわかって良さそうなもんなのにね。
確かに、失策即切腹ってのは、非常に厳しい処罰かも知れない、が、それが、武器を振り回して一般市民を容易に殺傷し得る立場の人間に対してである場合には、必ずしも厳しすぎると云うことはないと思うのです。特に、相手が野良犬まがいのアウトサイダーばかり、しかも腕に覚えあり、であれば、組織を統括するサイドは、こちらも力でもって支配するのだと云う態度を、毅然として見せてやらないと、なァなァにしたら、舐められて終わりですよ。なんたって、奴らオスガキだもん。力で抑えなきゃあ、云うことなんか聞きゃあしねェ。
力の強い猟犬の群れには、その暴走を抑えるための、太い首輪と強い鎖が必要なのです。奴らが暴走して、その辺の誰かに怪我でもさせたら、咎められるのは飼い主の方だもんね。


誤解されそうだと云われたので追記しておきますが、私の云いたいのは“元不良=駄目”と云うことではありませんぜ。
ただ、この社会、基本的に一度貼られたレッテルを剥がして生きてくってのは、大変に難しいことなので、いろいろあった人は、所謂“一般人”より激しく身を処しても、いろいろ後ろ指さされることになりがちだと云う話です。
まして、そう云うのがつるんでると、何にもなくてもとやかく云われるもので――まァ、私の古馴染み連中は、基本的にそんな奴らが中心だしな。
そう云う社会だから、前科なんか持っちゃうと、過失が小さくても社会復帰が困難になっちゃうんだよね――この体質はどうにかしてほしい。それで再犯率が上がったりするんじゃん。
世間の懐の広さが欲しいですよね、マジでね!
あ、私、男は基本的にオスガキか、そうでなければ学のある馬鹿(←めっちゃ始末に悪い!)だと思ってますので、その辺は流して下さい。私だって似たようなもん(ええ、オスガキと)だしな……個人的には、学のあるオスガキが理想なんですけどね、ふふふ……勝さんとかね……ふふ。


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……ってなことを、ぐだぐだと考えていたわけですよ。
あー、すっきりした。
しかし、この中村稔と云う人、一応経歴チェックのためにググったら、いまいちアレな評価のブログ(同じhatenaでしたぜ、ふふ……)が引っかかってきて、そうかァ(ニヤリ)と云うカンジ。やっぱ駄目な人なんだ。まァ、武力組織について、あんな阿呆な見解書きやがる段で、大した奴じゃあなかろうとは思ったけどね。


あ、今日の「決着! 歴史のミステリー」(だっけ、テレ東のアレ)で、直江と伊達の殿のアレコレがやってたので、ちらっと見ましたが――「この、傍小姓上がりの陪臣風情が!!」と云う、非常にアレな気分でいっぱいになりました。
って云うか、直江、馬鹿だろ、馬鹿なんだろ? 伊達の殿だけじゃなく家康にも喧嘩売って、無礼な真似してさ――本当に賢い奴は、慇懃に振舞いながら、内心で舌を出すんだぜ、ばーか、とか思っちゃった……はは。
まァ、直江は結構、上杉家中でも爆弾だったんだろうな……でなきゃ、筆頭家老(だよね?)なのに、戒名に「院殿」がつかない(直江の最初の戒名は“達三全智居士”――“英貔院殿”とつけられるのは、上杉鷹山公の治世になってから。もうすぐ幕末ですがな)なんてこたァあり得ねェだろ。まして、奥方(知行持ち)の方は、ちゃんと“院殿”ついてたってェのに(「名将の決断」No.14のコラムに依る)。
まァ、私は伊達寄りなので、直江は嫌い。っつーか、傍小姓上がりの陪臣風情が、って、マジ思います。経営能力とか、戦略能力はあったかも知れないけど、ホントにあッタマ悪いよアイツ。大っ嫌いだ、マジで。
直江については、云い訳なんぞしませんぜ。


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……ってわけで、いろいろ吐き出したので、今度こそルネサンスで〜。