幕末・会津戦争行 その1

思い立ったら会津行き。
お暇と心の余裕がおありの方は、下からどうぞ〜。


またしても、格安ツアーで会津


どうも、同僚等の話を聞いていると、関東近隣の小中学生ってのは、何らかのかたちで学生時代に会津を訪れていることが多いらしい。
が。
そもそも幼少期を大阪→東京(1年くらい)→北陸(3年ちょい)→名古屋(1年あまり)→東京、と過ごしてきた私。修学旅行は2回も奈良京都だったし、高校のは萩とかだった、ので、まったく学生時代に東北を訪れることがございませんでした。
一方の沖田番は、東京→東北→東京らしいのですが、これまた会津には縁がなく。


「小っせェ頃に行ったってェ話なんですけど、憶えがないんじゃあ、ねェ」


まったくです。


と云うわけで、8時過ぎの東北新幹線で郡山、在来線に乗り継いで会津若松へ。
11時前に現地到着、デリバリーサービスで荷物をお宿に送った後、いざ会津市中巡りです。
市内観光用に、循環バスの「ハイカラさん」「あかべえ」の2種(山手線内回り・外回りみたいな?)があるのですが(1回¥200-、一日乗車券は¥500-)、会津市内はわりとコンパクトなので、とりあえず歩いてみようと云うことで、徒歩。
まずは、昼食の場所を求めて、七日町までGO。
今回の旅行は、温泉と蕎麦、それから白虎隊(?)を求めて、なのです。
が。


蕎麦屋がねェ……!」


いや、なくはないんだけど、イマみっつくらいそそらねェと云うか。「×とりっぷ」掲載の七日町内のお店も、イマイチそそらない上に、激こみで入れない――考えてみりゃ、日曜日なんだよねー。こんでるはずさ。


例の、対望月光蔵さん枕投げ事件(笑)の清水屋跡(この旅館、吉田松陰も泊まったのね――イマイチ話題にならないけど。やっぱ、萩以外では若干アレなのか、松陰)などを経て、たらたらと駅方面へ。
ラムネ飲んだり何だりしながら歩いてくと、およ、向こうに踏切が。ちぇ、蕎麦屋なしかよ。


「……いや待て、この辺って確か……」
「あァ? どうしたんです?」
阿弥陀寺があるはずだ!」


そう、一ちゃんこと斉藤一の墓のある寺が、このあたりに!
しかし、「こ×りっぷ」には、墓参は要連絡、って書いてあったんだけど――フツーに入れるじゃん。
寺の東っ方に参道入り口があり、そこからへろっと入ると、すぐにお墓。看板もあるので、すぐにわかります。
お墓には、比較的新しいお花が供えてありました。人気だな、一ちゃん。アゴなのにな(笑)。
とか云いながら、お参り。何かこう、ビミョーに変なカンジ……まァいいけど。


ともかく、七日町では蕎麦屋は期待できん! と、神明方面へ。大通りがあるようなので、そっちに期待。
が、


「ねェ……!」
「ありませんねェ」
会津は蕎麦が有名なはずじゃなかったのかよ!」


なァんか見当たらん。っつーか、あの、神明通りまで来たら、もちっと南に行ったところに興徳寺と云うお寺があるのですが、ここに秋月登之助さんの墓があるはず……素通り不可(何かいろいろね)だから、お参りしていくか。


興徳寺は、刀狩りの時に秀吉が御座所にしたりとか、伊達の殿が会津を支配してた折に陣屋にしてたとか、蒲生氏郷の墓(遺髪が収められてるそうです)があったりとかする由緒正しいお寺。神明通りの商店街を歩いてくと、ちゃんと石の標があるのでわかりやすいです。
が。
寺はわかりやすいが、秋月さんの墓はわかりづらい。っつーか、あの案内図何! もちっとわかりやすい図にしてくれ!
何とか案内図を判読し、寺の外、駐車場の奥の墓域へ(ちなみに、蒲生氏郷の墓は、本堂のすぐそばにありますよ)。墓域に入るとまた看板があり、こっちは(比較的)わかりやすかったので、するっと墓前へ。
えーと、実家の江上家やらと一緒に、秋月さんは葬られておりました。碑銘を見ると、お父さん(もいるよね?)の江上又八さんたちもここに葬られてるらしい。そっか。
手を合わせて、御挨拶。
ところで、会津城攻めの時に目撃されてるのが最後だと云う秋月さん、アナタ、結局幕軍に追いつきもせず、一体何をどうして会津戦争に参加してたんですか。わかんない人だよなァ。


ともかく、今回の旅行のミッション(笑)のうち、既にふたつをクリアしたので、ちょっと満足しつつ、神明通りを南へ。
相変わらず蕎麦屋を求めているのですが、いっそ鶴ヶ城近くの方があるんじゃないかと云う、根拠のない判断故。
てくてく歩いて鶴ヶ城へ。暑い。蕎麦屋はないし、日蔭もないし。
いや、「そば」の文字は見かけなくはないんだけど、どうにも店がそそらない。
とりあえずたらたら歩いて、鶴ヶ城の休憩所で、揚げ餅と冷やし柚子茶でお茶を濁す――「こ×りっぷ」には気になる蕎麦屋があるのですが、そこは昼は3時までの営業で、場所が結構遠いので。まァ、あと2日あるわけだし、今日じゃなくてもね、って云うのと、これで昼飯食いっぱぐれたらシャレにならん、ってのとで、妥協案。


でもって、人心地ついたら天守閣へ。
っても、古写真で知れてるとおり、鶴ヶ城は、会津戦争時に西軍の砲撃を受けてぼろぼろになってたので、今の天守はコンクリートの最近できたもの。
まァ、大阪城とか名古屋城みたいにエレベーターはなかったので、まだまし(風情的に)と云うか、バリアフリーとか関係ねェってカンジと云うか。
しかしながら、時節柄、鶴ヶ城も“愛”の字が乱舞してる――うぜェェェェェ!!!!!
っつーかもう仕方ないけど、しかし一発短期支配の景勝&兼続主従よりも、割と長期支配だった蒲生氏郷に重点を――いつもは置いてるんだよね、わかってるよ!
蒲生氏郷もいろいろ(以下略)ですけれども、直江よりは全然なー。
あ、そう云えば、展示の中に、所謂“直江状”の現代語抄訳っつーかかいつまみまくって現代訳、があったのですが、超無難な文面にされててびっくり。っつーか、この訳文作った人、すんごい目にフィルターかけないとああは訳せなかったと思うのですが。すげェ。もちろん原文も(すこし)掲示されてたのですが、そっち読むと、こう、直江の爆弾っぷりがまざまざとね……はははははん。


天守閣見学後、城内の茶室「麟閣」をたらりと見学。
この茶室は、利休の息子・少庵が結んだものということで、確かに何とも云えぬ良い佇まい。三畳台目のお茶室と、広間? の四畳半の茶室(確か)の組み合わせ。待ち合いとか腰掛けとか、やはり利休の直系のかおりのする粋の極み、と云うカンジで、流石。
この辺、やっぱり長州とは全然違って、文化の香りが致します。っつーか、長州が文化の香りがなさすぎるんだけどね。どっちも中央から見れば“辺境”だと思うんだけど、その辺不思議不思議。
まァ、長州は実学に重きを置いた部分があるんだろう(だから、維新の立役者が多いんだろう)とは思いますけども。富国強兵には、そっちの方が向いてるもんな。でも、文化って大事よ? それがないと、どんなに強い国だろうが、どんなに豊かな国だろうが、やっぱちょっと馬鹿にされるとこあるもんな、世の中(ワールドワイドに!)ってな。


でもって、そのまま城を後にして、ハイカラさんに乗って(だって、流石に鶴ヶ城からだと遠い!)飯盛山へ。白虎隊のお墓のあるところ。
土産物屋の並ぶ参道(って云うのかな)の入口で、うっかり引っかかって玉こんにゃくを食べる(←好きなんだよ)。
でもって、若干心が折れたので、スロープコンベアで山頂へ。
コンベアを降りて、さらに階段を上ると、広場的なひらけたところに出る――慰霊碑らしきものと、おお、鷲? の像が立っている。
慰霊碑に向かって左手がまたわずかに上がってて、そこがどうやらお墓らしい。線香の煙がもうもうとしている。オフシーズンなのに(だって、旅行代安かったよ!)やっぱり結構な人出なんだなァ。
私どもも線香を買い、白虎隊士の墓前で黙祷。ああ、ゆきちゃんのお墓だ、こっちはもっくん、悌ちゃんや捨くんの墓もあるなァ――当然だけど(←っつーか、この4人しかよくわからないのよ、白虎隊)。
白虎隊士の墓に向かって右手には、それ以外で判明している、18歳くらいまでの会津戦争戦没少年兵たちの墓も並んでいる。
何か、会津の少年たちって、一途だったんだなァ――こんなに少年兵が死んでるってさァ……もちろん、少年兵の戦死は会津だけじゃなかったけど、それにしても、他に比して多いよね、ホントに。
その辺は、昨今の右っぽい言説を弄する方々のお好きな、例の“什の教え”とやらにも表れてるんだと思うんだけど。
でもさァ、やっぱあの“教え”に唯々諾々と従ってるようでは、あの維新の嵐を乗り切るのは難しかったんだろうなァとは思います。
うん、会津の人たちは立派だったさ。だけど、それだけでは守れないものってあったと思うんだ。市街戦までいかなきゃあ、女子供まで自死、とか云うことにはならなかったと思うんだけどね。でもって、そこまで徹底抗戦じゃなければ、戦後、斗南とかにやられて苦労することもなかった――ことはないか、いち早く恭順降伏した仙台だって、いろいろあったみたいだしねェ。まァ、何を云っても繰り言なんだけど。


いろいろ考えながら、すこし山を回った向こう側の、白虎隊自刃の地へ。ここにも慰霊碑が立っている。
黙祷してから振り返ってみれば、市街地の向こうに、小さく鶴ヶ城の姿が。
なるほど、この距離じゃあ、城下が燃えて黒煙が上がってりゃあ、落城したかと勘違いもするか。
しかし、あそこで絶望して自刃しちゃうところが、云っちゃあ悪いけど子どもだよな。うん、状況確認はきちっとする、味方が生き残ってないかの確認はする、味方を発見できたら即座に合流して共闘を図る、が徹底抗戦時の基本ですよ。
っつーか、大人すこしつけてやりゃあよかったのにさ、会津藩士の皆さん――何かの本で読んだけど、白虎隊の悲劇って云うのは、結局年齢別構成の隊(他に、青龍、朱雀、玄武と云うのもあったらしい)をつくっちゃった会津藩士の皆さんにも一因はあると思うのよ。


でもって、下山しようと戻りかけた途中で、唯一の生き残り、飯沼貞吉くんのお墓が。
ここにもお参りして、次はさざえ堂へ――きたぜ先生絡み!
さざえ堂は、“世界でも珍しい”二重螺旋斜路を内側にもつ塔です。
“さざえ堂”と名のつく建物は、他にもいくつかありますが、内部に二重螺旋斜路を持っているのは、この会津のものだけです。
そもそも“さざえ堂”と云う建物は、四国八十八ヶ所堂内巡り(よくありますね、お札とか小さな仏とかが八十八配置されてて、ぐるっと拝んで回ると、四国遍路をしたのと同じことになる、って云うアレ)のためのものらしいのですが、二重螺旋斜路だと、上がってくる人と下りる人がかち合わないで済んでいいのだとか(以上、蘊蓄は「建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ」(長尾重武 中公新書)による)。
さざえ堂の下に立って見ると、おお、確かに外壁の感じからも、中の螺旋構造がはっきりわかります――だって、何か斜めのラインがぐるぐるはいってるんだもん。


\500-払って、堂内へ。あ、ホントに斜路だ、中心部(ところどころに窓と云うか棚と云うか、があって、そこに六歌仙だか三十六歌仙だかの絵馬が)に向かって、三角っぽい床板が傾斜を作りながら突き刺さってて、滑り止め的な細い木材が配されてる、と云ってイメージ湧きますかね?
江戸時代の人は身長が低い(男性の平均が勝さんくらい=158cmだもんなー)ので、多分良かったんでしょうが、天井が低い。私(=162cm)でも若干腰を屈め気味にしないと頭ぶつけそうだから、うさぎちゃん=桂さんとか一ちゃん、島田なんかはもっと大変だ。
ぐるぐると(多分二周くらい?)回ると天辺へ。でも、別に広間みたいなのも何もなく(踊り場的なものもない!)、そのまま下りの斜路がはじまります。
ちょ、この傾斜、結構危ないんだけど! これは年寄りとかにはきついぞ、って云うか、一緒ぐらいに入ってたおばあちゃん、大丈夫だったかしら。
ぐるぐるっと回って、お堂の背面から外へ。うむ、確かに二重螺旋斜路だった。
で、これが何故先生絡みかと云うとですね、(前掲の「建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ」の説なのですが)この二重螺旋が、フランスのシャンボール城にある二重螺旋階段(先生の設計による)からきているのではないかと云うことだったからです。さざえ堂ができるちょっと前に翻訳されたと思しき建築書に、シャンボール城二重螺旋階段が載っているのだそうで。スケッチの写しもあるそうなので、(間接的にではあるけれど)先生の影響があるだろうと云う話。ふふ、国内で先生ネタ、しかも会津、一石二鳥だわ!


で、さざえ堂を出た後は、階段を下って、戸ノ口堰洞穴へ。ここは、白虎隊が会津若松へ戻る時に、敵に見つかるのを恐れて、隠れて通った水路なのだそう。
水路と云っても(猪苗代湖から水を引いてるとかで)、流れは結構激しい。昔はそうでもなかったのかな? でないと、これじゃああっと云う間に流されちゃうよ。
水路の傍に厳島社があったので、ここにお参り。
それから、水路脇を通って下山。水路の途中に小さな堰があって、流れる水が渦を巻いている――先生好きそうだよね、たくさんスケッチしてたもんね、と云いながら山を下る。
参道入口のところで再び玉コンニャク、と、沖田番のみソース串カツミニを食べて、飯盛山は終了。
その後は、あかべえ(ハイカラさんの内回り的な)を使っても良かったんだけど、大した距離でもないし、と会津武家屋敷まで歩く。
途中、「こ×りっぷ」掲載の蕎麦屋が二軒あったのですが、和田のところよりも石山の方の店が宜しかろうと云うことで、沖田番と意見が一致し、明日は石山の蕎麦屋へ行こうと誓い合う。今日行かなかったのはね――もう四時くらいで、ここで食べると夕飯が入らなくなりそうだったからですよ!


で、天寧寺はスルーして(←……)、会津武家屋敷へ。ここは、会津戦争当時の家老・西郷頼母さんの家を再現してあるのです。ホントの屋敷跡は、鶴ヶ城のすぐそばです。こっちは、会津藩主廟のある院内の方。もうちょっと行くと東山温泉郷です。
午後も遅くなってきたせいもあるけども、主に怪しい雲行きのせいで、あたりは薄暗く。
そんな時に、女子供六人で自決(っつーか心中?)した屋敷(そりゃ、復元した、だけど)に入るってさ――ちょっとアレなカンジ。例の有名な「敵か、味方か」のシーンも再現してあったりしてね……何かこう、もの寂しい気分になるわけですよね、作りものだってわかっててもね!
でもって、たらたらと回って、同じ敷地内にある、見廻組の佐々木只三郎さんの墓(「会津士魂」の早乙女貢が働きかけて、ここに改葬されたらしい)へ行こうと思った、ら、雨が! 慌てて傘をさし、何とかお参り。
出口のところにある土産物屋と云うか物産館と云うか、でたらたらしていると、おお、雨が上がってきた。よし、容保さんのお墓にお参りできるな?


えーと、会津藩主廟は、ハイカラさんとかの停留所的にはひとつ先の“院内”から歩いて五分(って、車内アナウンスで云ってた)。但し、もちろん入口までの時間なので、歴代藩主のお墓(ものっそい奥)へは、もっと結構かかります。
時代劇で良く見る木戸みたいな門を抜け、石段を上がっていくと、左手に“西の御庭”の標識が。ここは、初代藩主・保科正之の嗣子で、十八歳で病死した正経などの墓所のあるところ。後でWikiで調べたのですが、この正経くん(幼名は虎菊)、江戸の明暦の大火の折、どこだったかの藩邸の火災を鎮火しに行って、水を被って風邪を引き、そのままこじらせて亡くなったのだそうで。元から身体弱かったのかなー。
他にも、二代藩主・正常のお墓(正経くんの弟。確か、この人のが“中の御庭”にあったんじゃなかったっけ?)とかがあり、そこからさらに石段を(かなり)上ると、“松平”姓になって以降の歴代藩主の墓があるらしい。
が。
“西の御庭”の前を通り過ぎたぐらいで、いよいよ雲行きが怪しく&雷が鳴りだしたりとか!
しかも、ここの石段って、“西の御庭”まで(ってことは、ものっそ入口近く)でも苔むしてたり崩れ気味だったりで、これで雨が振り出したら危ないどころじゃない。
森の感じも若干(……だったかな)歓迎されてないムードで、ちょっとこれは、かなりヤバそう。


「……明日にするか」
「そうしましょうかねェ」


と云うことで、ここは奥に合掌だけして、墓所を後にすることに。


その後は、ひたすらに歩き。
東山温泉郷は、メインの道路が二又に分かれてるのですが、我々のお宿は湯川沿いの右の道。
おおお、何かこう、鄙びたカンジだなァ。昔行った修善寺温泉にちょっと似てる、けど、それに山形蔵王を足して割ったカンジ? 卓球屋とかストリップ劇場とかもありましたぜ(笑)。
てくてく歩くと、“庄助の宿 瀧の湯”とか云うお宿がある――でもここ、我々のお宿じゃないんだよね。ここはちょっとランクが上(基本料金では泊まれない)なので&小原庄助さんはどうでもいい(←オイ)ので、「立派だなァ」(新しくて綺麗な建物なのですよ)とか云いながら通り過ぎる。
崖下みたいな道を抜けて、ちょっと開けた右手、湯川の対岸に、古い立派な旅館(これぞ“旅館”! みたいな)が見える――しかし、ここは“向瀧”と云うお宿で、ここも違う。ちなみにこの向瀧、かつては会津藩士向けの保養施設的なお宿だったらしいです。建物は大正期に建てられたとかで、文化財に指定されているそう。うん、立派。名前の由来は、すぐ傍にある滝・向滝から、だろうなァ……ここもランクが上の宿。
そこを抜けて、さらに行くと、うぉっ、何あの壁に描かれた鬼の顔! はァ、不動滝ってお宿かァ。と思って近づいてゆく、と、湯川のこっち岸のちょい下がったところに、足湯が!
ちらと見に下りてくと、東山温泉の由来の書かれたパネルがある。何々、はー、行基上人、は? 八咫烏? 奈良時代にって、まァ伝承に過ぎなかったとしてもすごいよねー。
湯治にきた有名人の中に、当然鬼の顔も見つけ、生ぬるく笑う。特に沖田番が。


「さるの湯かきつねの湯に入ったんだそうですぜ。キツネがきつねの湯にねェ……(笑)」
「うるせェよ!!(怒)」
「何怒ってんですよ、土方歳三ってェ人の話じゃねェですかい(くくく)」
「本気でそう思ってんなら、含み笑いすんのァ止しやがれ!!!」
「いやァ、ねェ?(うくくくく)」


……感じ悪ィな!!


ともかく、そんなこんなで本日のお宿「くつろぎ宿 新滝」に。
ここの売りは、昔、会津藩主の別荘だったということで、そのころからの岩風呂がある、と云うところ。容保さんと同じ風呂!
と家云って、沖田番はものっそいワクワクしてたっぽいのですが。
チェックインして、渡廊下近くにあったその岩風呂の入口の所に、「工事中につき 使用できません」の文字。
沖田番、大ショック。


「何てこった、俺ァ、容保さんの入った風呂に入りたくって、この宿にしたってェのに……!」


あまりの悲嘆っぷりに、案内してくれたにいさん、申し訳なさそうに謝ってくれた……


まァしかし、岩風呂しかないわけじゃあもちろんないので、他の湯を堪能しましょうと云うことになり。
部屋に荷物置いて、入浴準備をしながら障子をあけ、ふと窓の外を見ると――あれ、さっきの足湯が川向こうに見えるぞ。……ってこたァアレかい、あの壁面に鬼の絵の描いてあるこっ恥かしい建物ってな、我々のお宿だったのかよ!
案内パンフなどを見ると、どうもここのお宿、元はこの本館(=不動滝)だけだったっぽいような。で、新館として「新滝」ができて、そのうち新館が本館を呑み込んだっぽい。ま、どっちも今どきの鉄筋の建物なんで、どっちがどうでも今さら、って感じはありますが。


ともあれ、汗を流しにまずは“わたり湯”へ。川に面した湯で、露天ではないのですが、川の流れを耳にしながら入るお風呂です。もちろん向こう岸にも旅館はあるので、目隠しがしてあって、川面を見ることはできません。
髪や身体を洗って、ちょっとのんびりしたら、次は裏手にある露天風呂“猿の湯”へ。っても、これは鬼が入ったかも、の湯ではありません――だって、お湯が熱くって川に飛び込めるような場所にある風呂、ったら、やっぱ川べりじゃないとね(とは云え、湯川の流れはこの辺では浅め、っつーか岩場があって底が浅くなってるので、飛び込んだら足折ったりすると思いますけどね(笑)。飛び込んだっての、ガセじゃあねェのか?)。
猿の湯は、これはこれでいい感じ。と云うか、温泉は露天派の私ども、お腹が鳴るまでたっぷりつかって、さていよいよ夕食です。


部屋食ではない(部屋食コースは高いのよ……)私ども、浴衣を着こんで、いざ食事処へ。
えーと、コースは(本日は)会津の郷土料理中心のメニューでした。会津人の正月には欠かせない(らしい)“こづゆ”と云う具だくさんのお吸い物? や、地元の野菜を使った料理の数々は、とっても美味しかった……!
個人的には、先付で出てた“烏賊三升”と云う、烏賊の塩辛みたいなのが美味しくって。っつーか、私、塩辛とか苦手なんですけどね。これはいけた。
ツアーのおまけでお酒がついてたのですが、追加で(や、それは銘柄決まってたらしい――お店のひとが、片っ方は別の種類に変えてくれましたが)頼んだ“会津中将 純米原酒”が、濃厚辛口で烏賊三升によく合ってね……! 作り方訊いときゃよかった、って、ググればきっと出てくるよね!
ここのご飯は、ご飯の炊き方の種類を選べて、それもまた良し。白米、玄米、五分づきとあったので、ここは迷わず五分づきで。白米より、分づき米の方が好きなのよ、私も沖田番も。
他に天麩羅とか陶板焼きとかいろいろありましたが、どれもおいしくて良かった――しかし、大食らいの我々でも、結構かなり腹はち切れそうな量でしたよ。美味しかったからいいけど。
コーヒーとデザートまできっちり戴き、夕食終了。


でもって、酒をtotal三合(二人で)呑んだので&本日は10kmほど歩いたので、早々に撃沈。
何とか風呂(またしても猿の湯)に入り、12時頃には就寝、っつーか撃沈。
本日はここまで。


† † † † †


この項、終了。
2日目に続きます〜。