神さまの左手 19

 その集落は、玩具のような家々が身を寄せ合うように建っている、ごく小さな村だった。
 その集落の端にある、石工の家の戸を叩く。
「……誰だ」
 ぶっきらぼうな声があって、扉の奥から、髭面の男が顔を覗かせた。
「マエストロ、私です、ミラノのレオナルドですよ」
「おお、マエストロ・レオナルドか」
 無愛想なその顔が、わずかに驚きに彩られる。
「遠いところを、よく来たな」
「ええ。先だってのお約束どおり、あなたのお持ちの石を見せて戴きに参りました」
「そりゃあ構わんが――あんなものを見て楽しいとは、画家の先生ってのは、随分と変わってるんだな。……おや、その子は何だ?」
 云われたサライは、ふんと胸を反らした。
「俺はマエストロ・レオナルドの弟子さ。ジャコモってんだ」
「ほぅ。これはまた、随分と可愛らしい弟子もあったものだな」
 声に、かすかに揶揄の響き。
 それを聞き付けてか、サライが牙を剥いた。
「云うじゃねぇか、おっさん!」
「これ、サライ!」
 レオナルドは、慌てて少年を制そうとした。
「はは、“サライ”か、なるほどな」
 石工――マエストロ・マルコはそう云って、その無骨な顔の片側を歪めた。それは微笑みでもあったのだろうが――かれのいかつい顔立ちとあいまって、猛獣の恫喝であるかのようにも見えた。
「申し訳ない、とんだ悪餓鬼で」
「それで“サライ”ですか、マエストロも仲々冗談がお好きだ」
 云われて、レオナルドは曖昧に微笑んだ。
 もちろん、かれは“サライ”の徒名のもとが、ルイジ・プルチの「モルガンテ」を思い出したのに違いない。
「……それで、例の石は?」
 そう、それが今回の訪問の主眼なのだ。
 レオナルドがうきうきとしながら問いかけると、マルコ親方は渋いような顔をして――だが、これは親方にしてみれば、微笑みを浮かべているも同じなのだ――、奥の戸棚の上から、石の塊を下ろしてきた。
 あまり凹凸のない球形の石、を一部分槌で打ち砕いたかのようなかたちの石が、目の前に据え置かれる。
「おお……!」
 レオナルドの唇から、思わず感嘆の声がこぼれた。
 親方の持っている石は、さながら竜の卵でもあるかのようだったのだ。いかにも石然とした、ざらついた丸みのある外殻の中には、色鮮やかな石の層が広がっている。赤と白と茶の縞模様が、中心から外側へと波打つように広がっていっているのだ。
「この、中の方は瑪瑙ですかな」
 多分そうに違いあるまい。赤と白の縞の石と云えば、素人でも瑪瑙と云うだろう。
 案の定、
「ああ、瑪瑙だ。だが、大したものでもない、ただ瑪瑙であるというだけの、くず石さ」
 だから、他の石のように、磨きに出したりはしなかったのだと、マルコ親方は肩をすくめた。
 確かに、中の縞の様子を見ると、宝飾品として売っている石とは異なり、縞の様子もぎざぎざとして不規則だ。その上、ところどころに黒の筋が入っていて、どうにも繊細さに欠けているのだ。
 だが、磨かれなかったことは、却って幸いだった、とレオナルドは思う。
 磨いてしまえば、この石はただの瑪瑙のくず石でしかなかっただろう。この石のすばらしいところは、卵の外殻のような外側と、中の瑪瑙との鮮やかな対比にあるのだと確信していたからだ。
「これ、すげぇな、レオ……!」
 と見れば、サライも目を輝かせ、“竜の卵”を覗きこんでいる。
「すごいだろう」
 レオナルドは、我がことのように鼻を高くした。
 この石は、確かに瑪瑙としての価値は低いし、彫刻などに使えるものでもない。そう云う意味では、石としては価値などないも同然である。
 だが、その造形の美しさは、自然の神秘を見るものに実感させざにはいられなかった。
 だからこそ、
「マエストロとて、この石をおもしろいと思われたからこそ、お手元に置いておられるのでしょう?」
 そうでなければ、石切り場に打ち捨ててきたのだろうから。
「まぁ、そうだな――おもしろいとは思ったな」
 マルコ親方は、にやりと片頬を歪めてきた。
「一見普通の岩の中に、こうして瑪瑙が入っていることは、それほど珍しい話じゃない。だが、その岩のかたちが、こうも滑らかに球や卵のようだってのは……まぁ、俺の知ってる中でも、そう滅多には見かけないからな」
「これを、譲って戴くことは……」
「まぁ、それはちょっと無理ってもんだ」
 かるく一蹴され、レオナルドは肩を落とした。
 実は、ここを訪れると決めた時から、あわよくばこの石を手に入れたい、と考えていたのだ。
 もちろん、断られることも考えのうちにはあったが、それにしても、こうも簡単に一蹴されると、やはり気落ちするのは仕方のないことだった。
 と、
「気ぃ落とすなって、レオ!」
 サライが元気づけるかのように、肩を叩いてきた。
「それに、あんた、あのガラクタ部屋片づけねぇと、せっかく石もらったって、そのうちどこにやったかわかんなくなっちまうんだから」
「……サラーイ!」
「はっはっはっは!」
 レオナルドは、思わず赤面して怒鳴ったが、マルコ親方は機嫌良さそうに笑い声を上げた。
「これは、その子に一本取られましたな、マエストロ。確かに“サライ”だ、口さがない」
「いやいやいや」
 そう云われては、違う意味で赤面するよりない。
「まぁまぁ、それほど落胆されることもない。云ったでしょう、こういう石は、珍しいものじゃあない。今度似たようなものを見つけたら、それはマエストロのために取って置きますよ」
「本当ですか!」
 それは、思わぬ成り行きになったものだ。だが、レオナルドとしては願ったりである。
 マルコ親方は、重々しく頷いた。
「ああ、約束しましょう」
「やったじゃん、レオ!」
 また、ばしんと叩いてくる小さな手。
「痛いぞ、サライ!」
 思わず怒鳴りつけると、
「あっはっは、悪ぃ悪ぃ」
 と云いながら、まったく悪気のない笑顔が返される。“小悪魔”の面目躍如、と云ったところか。
 これには、レオナルドも苦笑をこぼすより他になかった。
 いつもは気難しいマルコ親方も、にこにこと少年の笑顔を見ているばかりだ。
 ――もしかすると、マエストロ・マルコが約束してくれたのは、サライのお蔭かも知れないな……
 サライのこの独特の愛嬌に、さしものマルコ親方も当てられてしまったのかも。
 レオナルドとて落し切れなかった、この職人気質の石工を誑したのだとすれば――サライの“小悪魔”っぷりも、大したものだと云うべきか。
 微妙な心境になりつつも、レオナルドは、親方にまた丁寧に礼を云い。
 まだ得意気に笑い続ける少年の背を、小さな仕種で叩いてやった。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
まだ石の話……


うーん、やっぱこう、先生の話は若干書き辛いわ……いや、ただ単に、史料にはっきり残ってる活動とか何とか、が少ないのが原因なんですけども。
新撰組みたいに逐一資料が残ってるわけではないので、どうも事件をでっち上げねばならず、その辺で毎回四苦八苦してる感じですね。
ち、性格的には鬼と同じくらい書きやすいんだけどな、先生って。


でもって、今度は多分、例の「ラロックの聖母」とやらのお蔭か何か、またぞろ先生の関連の本が出てますね。
とりあえず、Penの特集を書籍化した阪コミの本と、何故か日経ナショナルジオグラフィック発行の1万円くらいする大判の本、それから岩波から出た「レオナルド・ダ・ヴィンチの食卓」って、これは裾分さんの知り合いの人らしい――って、この人(女性だけど)も80歳かよ! 年齢高いな、研究者!
っつーか、どうも裾分さん一統は、先生に夢を見過ぎてるきらいがあるよね。個人的には、白水社のチャールズ・ニコル(だっけ)の本みたいなのが、過度に夢を見てなくて好きなんですが。あと、裾分さんとかからは嫌われた「レオナルド・ダ・ヴィンチの空想厨房」とかね(笑)。サライに草を食わせる先生なんか、モロまんまだと思うんだけど……夢を見ちゃうとね、後がつらいよ〜?


あ、そうそう、「ラロックの聖母」、職場近いしなーとか思ってたのですが、絵単品ではなく、お台場共和国とやらの入場チケット¥1,500-が必要だと云うことで、阿呆らしいから見ないことに。
だって、先生のでもない絵を1枚見に行くのに、¥1,000-ならまだしも、¥1,500-はねェだろう。お台場共和国に興味そそられるものがあるならともかくとして、そこまでのアレコレはないもんな。
それなら大枚はたいてルーヴルに行って、学芸員さんに頼みこんで、例のサライの模写(図像が外国の本に載ってたので、まだあるはず)を見せてもらった方が、なんぼかましなような気がしますよねー。
って云うか、むしろアイルワース版モナ・リザが見たい、アイルワース版が! あっちの方が(以下略)だと思ってますので、是非、それの確認のためにも! それこそ、やってくれないかな、フジTV。そしたら¥1,500-でも見に行くよ!


この項、終了。
次は阿呆話――何かネタあったっけ……