神さまの左手 21
彼女がやってきたのは、夏の盛りの七月十六日のことだった。
その日、レオナルドは、例の馬の彫像のために、コルテ・ヴェッキア宮殿の工房に出向いていたのだが、来訪者があると云う使いのものの知らせで、慌ててスフォルツェコとドゥオモの間にある、自身の住居へと戻ってきたのだ。
――待っていた人がやっと来た!
レオナルドの足取りは、軽やかを通り越して、羽ばたいてもいけそうなほどだった。
待ち望んでいた対面がやっと叶う――つまりは、実の母、カテリーナとの再会が。
春の終わりに、ミラノへ来たいと云う手紙を貰ってから、数度の文のやり取りの後、ヴィンチ村を出発すると云う手紙が来たのが、つい半月ほど前のこと。
その手紙を受け取ってから、レオナルドは一日千秋の思いで、母・カテリーナの来訪を待っていた。心から、待ち望んでいたのだ。
母の部屋を作るために、がらくた置き場と化していた小部屋をまるまる空け、その、サライ曰くの“がらくた”は、自分の部屋と工房とに振り分けて置いた。
寝台をしつらえ、椅子と小卓を置き、衝立や置物や何やかやで、年配の女性が住むに相応しい――と、レオナルドが考える――部屋の室礼になったはずだ。
結婚もしていない自分が、まだ幼いサライのような少年と居住をともにしていることについて、保守的な田舎の出身である母には理解を得られ難かろうと、サライと二人で、想定問答のような真似までして、母と暮らす日に備えてきたのだ。
「サラーイ! 帰ったぞ、サラーイ!」
家に飛び込み、少年を呼ばわると、サライは、ニ階に続く階段の上から、ひらひらと手を振ってきた。
「レオ、こっちこっち」
と云って、レオナルドをさし招く。
「母は?」
「来てるよ。今、部屋に通した」
居間だと、散らかり放題で見せられたもんじゃねぇからさ、と云う少年に、
「そうか」
と頷いて、階段を上がる。
母が来た、母が来てくれたのだ。
かつてヴィンチ村にいた時も、遠くからそっとその姿を見つめるしかなかった母が、今度こそ、“自分だけの母”になってくれるために、このミラノまで来てくれたのだ。
レオナルドは、天にも昇る気持ちで階段を上り切り、母のための部屋の扉を開けた。
と、部屋の中にいた人物が、びくりとしてこちらを向くのがわかった。
――お母さん。
と云おうとして、レオナルドは動きを止めた。
目の前に、小さく曲がった背の、老いた女がいた。
質素な衣をまとった、老齢の女。ヴィンチ村の女たちがそうであったように、背は曲り、髪は霜を置いたようになっている。皺だらけの痩せた手を、落ち着かなげに捩り合わせ、居心地が悪そうにあたりを見回している、一人の老いた女。
その女は、レオナルドの顔を見るや、目を瞬かせ、小さくおずおずと口を開いた。
「――マエストロ・レオナルド?」
その声は、例えるなら、かれの名声を知った貧者が、救いを求めて上げるそれのようだった。
「……そうだ。――貴女は、カテリーナ、か……?」
問いかけに、女は慎ましく――その慎ましさは、いっそ卑屈なほどだった――目を伏せた。
「ええ、そのとおりです、マエストロ」
その言葉に頷きを返しながら。
レオナルドは、己の心を、失望――むしろ、絶望と云うが近いだろうか――が満たしていくのを感じていた。
カテリーナ――“母”、であるはずだ。彼を産んだ母、産んで、手放して、他の男と結ばれた母。
その母を、レオナルドはずっと恋い慕ってきた。
幾人もいた継母とは折り合いが悪く、いつも父の家から出ていきたいと思っていた――出ていったなら、実の母と暮らしたいと、その腕の中で甘えてみたいと、そればかりを考えて。
ずっと、母と相対したなら、どれほど幸福だろうかと思っていたのだ。
街で見かける赤子は皆、母親に抱かれて幸せそうにまどろんでいた。泣いている子ですらも、母があやして笑みかけてやれば、やがて機嫌を直して、笑い声をこぼし出す――その姿に、どれほどの憧憬を抱いたことだろう。
それ故に、母がミラノへ来ると聞いた時には、舞い上がらんばかりの気分だった。母と相対するならばきっと、抱きしめて、抱きしめ返され、生まれたばかりの母子のような時間を取り戻すのだと、その喜びに心震わせていた。
だが――今、自分たちの間に流れる、この何ともぎこちない、そしてどこかよそよそしい空気はどうだ。
これが母なのか。あれほど焦がれた“母”であるのか。
「――カテリーナ」
レオナルドは、母を名で呼んだ。“母”とは呼べなかった。その言葉が口から出てこなかったのだ。
カテリーナは、小さくこちらを向いた。街中で、役人に呼び止められた女のように、どこか落ち着かない様子で。
「カテリーナ……私は、この家に、そういつもいるわけではない」
レオナルドも落ち着かなかった。
わからない。わからないのだ、この女とどういう風に相対したらいいのかが。
「だから、この家のことは、貴女に任せよう。家事を仕切るも、このまま下女のマグダレーナに任せておくも、貴女の好きな様にすればいい――サライ、貴女を迎えたあの子どもが、家のことは把握している。あれに訊いて、それから先は貴女に任せよう」
そう云うと、カテリーナは、どこかほっとしたように頭を下げてきた。それは、“母”ではなく、見知らぬ下女のような態度だった。
「――では、私は、工房に戻る」
レオナルドは、耐え切れずにそう云って、部屋を出て、閉じた扉にもたれかかった。
“母”! これが“母”か――再会しても、抱きしめることもない、親子らしい会話のひとつもない。
腕の中に抱いて、抱きしめ返される夢は散った。ここにあるのは、巨大な空虚だけだ。腕の中にも、心の中にも。
レオナルドは目許を押さえ、滲むものをそっとぬぐった。
「……レオ?」
と、サライが階下から、小さく声をかけてきた。
その声にはっとして、あわてて涙の痕跡をぬぐいさる。小さな子どものように、母の愛の得られぬことを嘆いていたなど――そんな様子は見せられぬから。
「何だ、サライ?」
云いながら階段を降りてゆくと、心配げなまなざしにぶつかった。
「大丈夫なのかよ、ずい分早かったけど……」
母子の対面のことを云っているのか。
サライに気遣われて、また何かがこみ上げてきそうになるのを、ぐいと飲み下す。
「大丈夫だ。馬が、微妙なところで放り出してきたので、心配でな」
そう云って、何とか笑みらしきものを浮かべてみる。
「母が何か望んでいたら、なるべく意に添うようにしてやってくれ。……私は、コルテ・ヴェッキアに戻るから」
「わかったよ。――今日は、遅いのか?」
「わからないが、夕食はうちで食べるようにするさ」
それだけを云いおいて、レオナルドはそそくさと家を出た。
気遣わしげに見つめてくる、サライのまなざしには気づかなかったそぶりで。
† † † † †
ルネサンス話、続き。
カテリーナ来た。
えーと、今回の話の結構な部分は、実は3年前にこっそりやってた「レオナルドの薔薇」と云う非公開BBSで、日記的に書きなぐってたもの。
がっかりする先生の姿は、当時夢で見たものです。結構くっきりした夢だったので、あの家の間取りまで思い出せるよ。廊下の突き当たりの窓のかたちとか、そのすぐ傍の、階段の様子とか。
とは云え、流石に書きなぐりの文章で、結構粗があったので、今回ちまっと手は入れてますけどね。
あのBBSで書いてた断片は、結構使えないのもあるからなァ。ま、それを云うなら、沖田番の小話ブログ掲載のサライの話も、「神さまの左手」での焼き直しとかは難しいんだけどね。
この項、終了。
次は阿呆話――初心に戻る、か?