北辺の星辰 45

 歳三はその日、早めに仕事を切り上げると、そそくさと箱館奉行所を後にした。
 この間の酒井孫八郎の訪問から五日が経ち、そろそろ強襲をかけられそうな気がしたからだ。酒井の熱心なことはよくわかったが、正直、事態の進展もみられないのに頻繁に訪ねてこられては、歳三の気分がげんなりするばかりであったので。
 ――とりあえず、逃走先は五稜郭ということにするか。
 五稜郭に、特に用事があるわけではなかったが、仕事を切り上げていく先が、遊興の場、と云うのも拙かろう。
 馬を引き出させ、市村鉄之助を供にして、市街地を北へと歩ませてゆく。
 が、凍てついた雪道は、元より己の足でも歩き辛い。
 ただでさえ馬は不得手の歳三は、右に左に大きく揺れる馬の背で、幾度も鞍からずり落ちかけ。
 挙句、街外れまで来たところで、とうとう派手に落馬してしまった。
 雪の上だ、地面に落ちるよりはましだろう、などと甘く考えていたのだが――凍りついた雪は、なまじな土の上よりよほど固くなっている。その上、人が歩いた跡は、凸凹も多く、それが下手な石くれよりも鋭い先端を天に向けていて。
 そこに叩きつけられた衝撃は、一瞬息が止まるほどのものだった。
「……くそ」
 痛む腰をさすりながら起き上り、悪態を吐く。
 と、
 ……くす。
 市村が、思わずと云った態で、笑いをこぼすのが目に入った。
「――笑いやがったな」
 じろりと睨みつけてやると、少年は慌てて真顔になった。
「い、いえっ、笑ってなどっ……」
「笑ったじゃねェか、確かに見たぞ」
 恨みがましく云ってやる。
「――どうせ俺ァ、馬は下手だよ……」
「ふ、副長……そんな、私は、何も……」
 この少年は、未だに歳三のことを“副長”と呼ぶ。
 時々、それを聞くと、遠い過去から呼びかけられているような、不思議な気分にさせられるのだ。
 ああ、自分にとって、新撰組を率いていたのは、遠い昔のことになったのだ――そう思いながら、市村を見やると、生真面目な少年は、まだわたわたと手を振っていた。
「……市村」
「は、はい、何でしょう」
「俺ァもう馬にァ乗らねェ。おめェが乗れ、引いてってやる」
「え!」
 驚愕する少年に、歳三は、意地悪く笑みかけた。
「何しろ馬術が駄目だからな。五稜郭へ着くまでに、どれほど落馬するか知れたもんじゃねェだろ。だから、おめェが乗っとけってんだよ」
「え、で、でも……」
「上官命令が聞けねェのか」
 などと云いながら、歳三は、少年を無理やり鞍上へと押し上げた。
「副長!」
 叫ぶのにも構わず、手綱を取って歩き出す。
 しばらく行くと一本木関門に差しかかったが、歳三は、素知らぬ顔で挨拶を受け、そのまま木戸をくぐり、箱館市外へと歩いていった。関門を守る守備兵たちは、微妙な表情で見送ってきたが――歳三に、下馬して歩く理由を問えば、また面倒なことになると思ってか、何も問いかけてこようとはしなかった。
「……副長、もう降ろして下さい」
 市村が、馬上から抗議の声を上げる。
 が、歳三は笑って聞き流した。
 一本木関門の外には、一面の銀世界が広がっている。
 光をはじく雪の美しさと眩しさに、歳三は思えず目を細めた。
 無論、雪景色など、京にあった時には年毎に見た。灰色に沈む空から降る雪の重さと、踏みしめた足許の薄い氷が、身体を芯から凍えさせる――それが、京の雪だったと記憶している。
 あるいはもっと昔、未だ多摩の地にいたころは、雪はもっと儚く、ほとんど積もることもない珍しいものだった。冬の風は乾いて冷たかったが、芯から底から冷えると云うわけではなかった――薬箱を担いで歩き続けていれば、手足はともかく、身体の芯は冷え切ることはなかった。
 だが、蝦夷地の雪は、そのどちらとも異なっていた。
 降るとなれば視界を遮るほどに降り続け、止んでしまえば、からりと青い空が見える。風は氷を含んだように、剥き出しの肌を切りつけてくる。立ち止まれば凍りつくのではないかと思うほど――だが、その頭上で、空はどこまでも青い。
 凍りついた雪が光をはじくのは、京でも多摩でも同じことだったが――蝦夷地では、空気が異なっているのだろうか、その撥ね返る陽光は、京よりも多摩よりも鮮やかに明るく、見るものの目を灼くかのようだった。
 風は凍てつくようであると云うのに、日差しはむしろ灼けつくよう。実際に、この地へ渡って来てから、雪焼けで黒くなったものもあるほどだった。
 異邦なのだ、と、強く思う。
 慣れ親しんだ空でも景色でもない、見渡す限り銀白の、鮮やかな青と対照的な世界――
 ――遠くまで来ちまったなァ……
 身を切るような寒風に、上着の前を掻き合せながら、そう呟く。
 昔――そう、もう七年も昔――、古い仲間たちとともに京に上るときには、よもやその先でこのような運命が待ち受けているなどとは、思ってもみなかったのだ。何より、その間に将軍が大政を奉還し、幕府がなくなるなどということも。
 どこで間違ったのだろう――とは、思いはしなかった。歳三が道を誤ったわけではない、恐ろしい時世の力と云うものが、人も国も、何もかもを呑みこんで動いてきただけなのだから。
 後悔はしない。できるわけもない。悔やんでしまえば、切り捨ててきたものたちは、何のために死んでいったのかと云うことにもなるだろう。かれらの存在を無にしないためにも、後悔などは決してするものか。
 だが、この北辺の地にあっては、そのようなことどもも、遠い時の彼方であるように感じられる。
 あるいはそれは、際限もなく広がる白い大地が、この場所を、かつて生きてきた場所から隔てているからでもあっただろうか。
 遠い遠い北辺の地――あるいは、生の限りない彼方であるような。
 ふと。
 ぞくぞくと寒気が身を震わせ、歳三は大きくひとつくしゃみした。
「副長!」
 市村が、馬上から批難するような声を上げる。
「衣が雪で湿っているのではありませんか!」
 それはよもや、先刻の落馬で雪の上に落ちたからだろうか?
 そう思って背中に触れてみると、確かに布地が重く湿っている。背中についた雪や氷が、体温で溶け出して、衣を湿したものか。
「……参ったな」
 頭を掻きつつ、またくしゃみする。
「早く、お身体を温めないと!」
 市村は云って、器用に馬上から飛び降り、手拭いで背中を拭ってきた。
「ああ、いい、いい。どのみち、五稜郭まで行きつかねェと、衣を替えることもできやしねェんだから」
「ですが……」
 市村は不満そうに云い、ふと、思いついたような顔になった。
「でしたら、ひとまず千代ヶ岱陣屋へ寄りましょう。あそこでしたらすぐですから――衣を乾かされて、それから五稜郭まで行かれたら宜しいではありませんか」
「――千代ヶ岱、か」
 それは、中島三郎助の守備する陣屋ではないか。
 ――落馬して背中打って、その上衣まで濡らしたところで、あんお人に見えるってェのかよ……
 それは、いささかならず格好の悪い話ではないか。
 中島は、きっと笑うに違いない――それも、いつもの皮肉げな笑いではなく、遠慮会釈もなく呵々大笑するに違いない。
 ――格好悪ィ……
 その様を想像すると、憂鬱極まりない気分にさせられる、が、背に腹は代えられぬ。このまま意地を張って、まっすぐ五稜郭を目指したとしても、すっかり凍えて風邪などひこうものならば、その方がいい笑いものだ。
 仕方がない。
 溜息をひとつ、大仰について。
「……おめェの云うとおりにしてやるさ」
 云いながら、つま先を千代ヶ岱陣屋へと向ける。
 かぽかぽと歩む馬の隣りで、市村が、勝ち誇ったようないろを、その目に浮かべるのが見えた。
 

† † † † †


鬼の北海行、続き。
ちょっと酒井孫八郎から逃走してみる。


えー、鬼の馬術の腕前については、何だったかで“駄馬の一頭をも御しかねて”的な記事を読んだので、そんなカンジで。っつーか、馬は下手でしょう。自転車は乗れるよ。多分、アレだ、共感能力が低いんだよ。だから、馬とかそう云う、相手と心を通わせなきゃダメなものが苦手なんだ。
まァ、そのお蔭で観察力や考察能力は高いんだと思う(共感できないところを、理論で代替させるので)んですけどねー。


そう云えば、朝日の「週刊マンガ日本史」でブログパーツを配ってて、安彦勝さんがあったので、嬉々として貼り付けてみたら――何ですって、はてなは対応してないんですって! ちぇー!!
はてなって、好きだけど、こう云うとこ不便だよねー。もうちょっと広く対応してくれたらいいのに。
せっかくの安彦勝さんだったのに……くそー。
ところで、「王道の狗」を読んだ時から思ってたんですが、安彦さん、鬼の話描いてくれないかなー。しかも流山以降がいいなー。「王道」の加納さんみたいな感じだったらカッコいいのにー。
個人的には、白泉社版4巻の加納さん=貫大人みたいな鬼が見たいです。って、カッコ良すぎ? でもでも、安彦さんの鬼なら、それくらいでも全然OKなんじゃないかと思います。
うおおぉぉ、妄想だよー! ホントの「マンガ日本史」内の鬼は、碧也ぴんくだもんなー……


あ、そう云えば、勝部真長の「勝海舟」上中下巻(PHP研究所)が出ましたね!
元々は上下巻で出てたのを、(多分)来年の大河合わせで新装版にしたものらしいのですが。
久しく重版未定注文不可だったようで、職場の勝好きMさんが、狂喜乱舞なさってました。同じく勝仲間のS課長様は、「持ってるかも知れないから、確かめてから購入を考える」とか云ってらっしゃいましたが――ちょっと待って、これで課長がお持ちでなければ、うちの入荷分、店内(=店員)だけで終わりかよ! ……それもどうだ。
っつーか、いつも云ってるんですが、同じ職場(=ワンフロアの店舗)で、勝好き歴女が3人もいるって、どんなシチュエーションか。元の職場(=多層階)でだって、新撰組ファンは何人もいたけど、勝ファンはいなかったのに……!
類は友を呼ぶ、とは、まさにこのことか……


えー、着々と進んでいる「北辺拾遺」、ただ今中島登を脱稿し、次の森常吉さんの下書きが3/4ほど書き終わっているところ。
しかし、まだ5/14なので、5/18の五稜郭開城までは、あと丸々4話残っているカンジです。って云うか、その他に伊庭と勝さんの話もあるんですが――あと、まるっと6話……!
それなのに、ずっと凍結していた総司の黒猫話を並行してじわっと書きはじめました――何かこう、ホラーなようなそうでないような、オカルトなようなそうでないような、妄想のようなそうでないような、薄気味悪く後味の悪い話になる予定。っつーか、ちょっと狂的な総司の話と云うか。沖田番は、このネタ厭なんだよなー。でも書くけど。
この二つの装丁とか考えると、すっごい楽しい――話は明るくないのでアレですが、こう、装丁も込みで、いやんな感じに仕上げられたらいいなー。


この項、終了。しかし荒れ荒れなので、本館にログを収納する時には、ちょっと撫でつけ頑張りたいですよ……
えー、次はルネサンス話。カテリーナ来訪後。