神さまの左手 22

 レオナルドに元気がない。
 コルテ・ヴェッキアからなかなか帰ってこようとしないし、帰ってきても、またすぐに出て行ってしまう――まるで、家に留まっていたくないのだとでも云うかのように。
 つい先日までは、母親が来るのだと云って、浮き浮きと、珍しく部屋の片づけまでしていたと云うのに。
 正確に云うのなら、元気がないのは、その母親がミラノへ到着した日からだった――となれば、やはりその理由は、母親に関係があるに違いない。
 ――やっぱ、がっかりするようなことになっちまったか……
 とは云え、カテリーナと云う名の、レオナルドの母は、サライの家族のようにうるさく金をせびってきたり、あるいはレオナルドの名声を笠に着て、まわりにあれこれ云い立てるような風でもなかったので、そう云う意味では、心配したほどの問題はないように見受けられたのだが。
 となれば、レオナルドが落ち込む理由とは、つまりは“幻滅”であるに違いない。
 レオナルドは、実の母親とともに暮らすことに、ひどく心浮き立つようすだった――それはもう、地に足がついていないのではないかと心配になるほどに。
 だが、考えてみれば――レオナルドの言を信じるのならば――、レオナルドは、カテリーナと云う名の母と、まったく親子として暮らしたことがなかったのだ。
 そうして、片や村の名家の子ども、片や金で女を貰い受けるような男のところへ嫁した女、と云うことになれば、やはりそれぞれの意識も違ってきてしまうだろう。
 要は、レオナルドにとってはカテリーナは“母”であるのだろうが、カテリーナにしてみれば、レオナルドは“息子”ではなく、例えば“坊ちゃん”である可能性もあると云うことなのだ。
 母親に対する憧憬を抱いていたレオナルドが、当の母親から下女か何かのように振舞われたとしたら――その落胆たるや、大変なものとなるだろう。
 ――さぁて、どうしたもんかな……
 このまま放っておくわけにはもちろんゆかぬ。だが、ことがことだけに、どうすればレオナルドが元気になってくれるのかは、サライにもさっぱりわからなかった。
 ――あの婆さんが、母親らしく振舞ってくれりゃあ、一発なのに。
 とは思ってみるが、考えてみれば、あの二人は、レオナルドが生まれてこの方――と云うことは、かれこれ四十年以上――、まったくの赤の他人として暮らしてきたのだった。
 そうであれば、それほど時を経た関係のこじれは、同じだけ以上の時を経なければ修復され得ないのではないか。
 だがそうだとすると、サライには完全にお手上げだ。それ以前に、たかだか十三歳の子供には、荷の重い話である。
 ――どうすっかなぁ……
 ここで、くだくだと埒もないことを考えていても仕方ないことは、サライもよくわかっている。
 そうとも、考えても仕方がないのだ。となれば、直接レオナルドにあたってみるのみ。
 そう思い立って、サライは、勢いよく立ち上がった。
 レオナルドは、今、コルテ・ヴェッキア内に与えられた工房で、独りで“馬”に――あるいはそれは、“馬”以外の何かであったかも知れないが――取り組んでいるはずだ。
 カテリーナに関するあれこれを、当の本人がいるこの家の中でやり取りすれば、聞こえなくとも、何となくの雰囲気は伝わってしまうだろう。
 女は、そう云うところは大体において鋭い。サライの姉たちがそうだった――言葉にしなくとも、かの女らを心の中で罵っただけで、容赦のない平手が飛んできたりしたものだ。
 もちろん、カテリーナが平手でレオナルドを打つ、などと云うことは考えられない――そうでなければ、レオナルドの悩みの半分以上は、そもそも生じすらしなかっただろう――が、自分のことをあれこれ噂されるというのは、やはり気持ちのいいものではあるまいからだ。
 サライは、上着を羽織り、出かける身支度をして、カテリーナの部屋の扉をそっと叩いた。
「……どうぞ?」
「どうも」
 ちょっと頭を下げただけで、サライは部屋の中にするりとすべり込んだ。
「ちょっと、頼みがあるんだけど」
「頼みごと、ですか……?」
 老女は云って、不安げに首をかしげた。
 何と云うか、これは確かに、レオナルドでなくとも、少々考えてしまうに違いない――どうにも、ミラノで高名なマエストロの母親、とは思われない、と云うか、まるっきり下女や何かとしか思われないのだ。
 そんなにびくつかなくたって、と思いながら、サライは頭を掻いた。
「あ――いや、その、ちょっと俺、出てくるんで、留守番お願いしたいなぁ、とか思ったんだけど……」
「ああ」
 カテリーナは、あからさまにほっとした表情になった。
「それでしたら、お引き受けできますわ。何か、注意しなければならないことはございますか?」
「うーん……何かあったとしても、マエストロの部屋には入らない方がいい、ってことくらいかなぁ」
「何か大変なことでも?」
 微妙にではあるが、カテリーナの表情が変わった。“弟子”であるサライが入れるレオナルドの部屋に、何故自分が入ってはならないのか、と思っているに違いない。
 サライは、大仰に肩をすくめてみせた。
「大変なことって云うか――部屋が大変なことになってる感じ?」
「……ああ」
 くすり、とカテリーナは笑いをこぼした。
 あるいは、ヴィンチ村にいた頃から、レオナルドの部屋の凄まじさは有名だったのかも知れない――そんな風にも思えるような笑いだった。
「ま、そう云うわけだからさ」
 サライは、にっこりと笑いかけてやった。
「躓いたりして、怪我でもしたら大変だろ? ……まぁ、何にもないとは思うけど。俺も、すぐに戻ってくるつもりだし」
「大丈夫です。……気をつけてお行きなさい」
 最後の言葉に、わずかに母親らしい気遣いが聞き取れた。
 多分、カテリーナは当惑っているだけなのだ。四十年ぶりの息子との再会を、うまく受け止めきれていないのは、カテリーナとて同じこと。
 だが、かの女の中には、確かに母性とでも云うべきものが存在している。
 それならば、すべては時間が解決してくれるだろう。ふたりがじっくりと歩み寄っていけば、いずれ、絵に描いたような――それこそ、レオナルドの描く聖母子のような――母と息子になれるはずだ。
「――じゃあ、行って来るよ!」
 すこし軽くなった心を抱いて、サライは部屋から駆けだした。
「気をつけて!」
 カテリーナの声に、“母親”のぬくもりを感じながら。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
カテリーナが来てから。


いっつも思うんですが、私の書いてる先生って、こう、年齢相応の外見(この当時なら、ちょうど「最期の晩餐」の大ヤコブみたいな)で考えるとムカつくよなー、って云う。
いや、何かこう、頓狂なあれやこれや、も、爺ィだと思うと可愛いんだけど、いい歳したおっさんがこれかと思うと、ムカつくよね、って云う。禿げて白い髯で皺がいっぱいの爺ィがぎゃあぎゃあ云ってるのは許せても、割とナイスミドルなおっさんだと許せない――そう云うことってありません?
とりあえず、ムカつきがないように、書く時には先生を爺ィver.で考えているのですが――どうでしょう、若い顔で想像できますか? それとも爺ィで想像しちゃいますかね? ……爺ィver.になるなら、ちょっといろいろ考えるかな……


そう云えば、来年早々、ラファエッロの「一角獣を抱く貴婦人」が来るらしいですね。東京都美術館だって!
何か、前売りペアチケットが¥1,800-とか云って(ってことは、1枚¥900-ですよ!)広告が出てて、ちょっと心が揺れ動いてます。
だって、¥1,000-くらい安いんですよ、ってことは一人あたま¥500-マイナスですよ! そりゃ考えるでしょう!
「一角獣〜」は、構図がモナリザのパクリだと云うことなので、ちょっと見ておきたい気がしてます――ラファエッロそのものは、実はそんなに萌えないんだけどね。ベルナルディーノ・ルイーニの方が気になるんだけどね。あ、でもま、「小椅子の聖母」とか、「アテネの学堂」とかは嫌いじゃないですよ。ミケとか先生とかの絵のパクリは好きじゃないけど。だってパクリなんだもん。
あ、「アテネの学堂」のヘラクレイトス=みけらにょろ、の絵、あれだけはミケが自分で描いたんだと思ってます。ラファエッロは、ミケをアリストテレスに擬えたと思うんですが、ミケは厭だったんだろうな――で、自分でヘラクレイトスにして、描きこんじゃったんだと思う。だって、あれだけあからさまにタッチがみけらにょろじゃん! システィーナの絵とかと色づかいや陰翳の付け方が一緒じゃん! ……何であれが、専門家の間でそう云う話にならないのか、すっごい不思議だわ……って、「リッタの聖母」を先生の真筆とか云ってる研究家もいるらしいから、研究家の目だってその程度(失礼)だってことなのか……
しかしラファエッロ、ううぅん、沖田番と行くが正しいか、やっぱ……


そうそう、山口晃氏の「すゞしろ日記」を買っちゃいました。前に公共広告機構のCMの、江戸しぐさのアレの原画を描いてた方ですね。
まァ、絵はもちろん好きだけど、画集買うとこまでいかねェなァ、とか思いつつ、↑これの中をぱらぱらと見ていたら――ちょ、ちょっと、何この「藝術カフェー乃圖」って! ジョットから村上隆まで、古今東西の芸術家が集うカフェーの図、なんですが――先生とみけらにょろが! 先生が温泉マークの浴衣着て、大工の親方風のみけらにょろと同じテーブルで論議! 越後の木綿問屋の隠居風ティッツィアーノが仲裁に入ってるわ!
うひー、これだけでこの本買っちゃいましたよ……(本体価¥2,500-) でもでも、各巨匠の格好が面白いんだもん! インテリ風ルーベンスとか、チャラ男っぽいカラヴァッジョとか、何故か髷で着物のモンドリアン(主水リアン!)とか!
あ、もちろん、普通に漫画(萬画?)も面白いですよ。
っつーか、ホントに山口氏って、絵巧いよね……凄いよなァ……


さてさて、この項終了。
次は阿呆話――ううむ、誰のネタにしようかな……