北辺の星辰 46

「で、落馬してそのざまか!」
 案の定、投げかけられたのは、遠慮も何もない笑い声だった。
 千代ヶ岱陣屋の一室に通された歳三は、火鉢に張りつきながら、
「面目ないことです」
 と頭を掻いた。
 馬を引いて千代ヶ岱陣屋の門をくぐると、守衛の兵たちは驚いた様子ながら、歳三たちを陣屋の中へ案内してくれた。
 ここへ立ち寄ったわけを話して、暖をとらせてくれと頼み込むと、陣屋のものは、歳三をこの部屋へ通して火鉢に火を入れ、衣桁に上着を掛けて、代わりの衣も貸してくれたのだが。
 もちろん、この陣屋の主に、歳三の来訪が伏せられるわけもなく。
 そうして現れた中島三郎助――千代ヶ岱の守将にして箱館奉行並でもある――は、また大笑した。
松前攻略功労の雄も、手綱を取っては凡夫と見ゆる」
「凡夫以下でございまするよ」
松前攻めの折とて、騎乗して参ったのではないのか」
「まァ、あの折は兵の手前もございましたので、どうやらこうやら」
 それを聞いた中島が、また大笑いする。
「格好つけには手を惜しまんか! ならば小姓の前でも、それなりにしておればよかろうに!」
「いや、まァ、なかなか……」
 馬術の腕には、逆の意味で自信があったので、歳三は頭を掻くばかりだ。
 中島は、ふんと鼻先で笑った。
「勝の狗めが、猫を被りおって」
 その言葉に、傍に控える市村の目が鋭くなったのがわかった。
 歳三は、冷汗が出てくるのを感じながら、中島の言葉を押し止めた。
「ですから、そのようなことはおっしゃらないで戴きたいと……」
 何の根拠があるかは知らぬが、あまりそのようなことを喧伝されれば、歳三の今後の箱館府内での立場にも影響が出てくるだろう。
 否、そんな先のことを措いたとしても、あまりそのようなことを云われると、仔犬のような市村が、果敢にも中島に噛みついていく、などと云うことにもなりかねぬ。
 歳三は、確かに中島に好意を抱いてはいたが、同時にこの市村のことも非常に可愛がっていたので、ここが噛みつきあう、あるいは揶揄う中島に市村が挑みかかる、と云うのを目にしたいとは思わなかった。
 だが、もちろんそんなことに頓着するような中島ではない。
「何を抜かすか、勝の狗のくせに」
 鼻で笑った中島に、市村の全身のばねが、跳躍する直前のように絞られる。
 止めなければ、と手を伸ばしかけた時。
「――お茶をお持ちいたしました」
 青年の声が云い、障子がからりと開けられた。
 そうしてするりと入室してきたのは、二十歳そこそこの、ものやわらかな風貌の青年だった。
 と、中島が、軽い調子で青年に声をかけた。
「何だ、恒太郎ではないか」
 親しいものに云うような声音、では、この青年は、中島に近いところにある人間なのだろう。
 そんなことを考えながら注視していると、青年は、歳三の前に茶を置いて礼儀正しく頭を垂れ、
「はい。――土方先生には、お初にお目にかかります。中島三郎助が長子、恒太郎と申します」
 宜しくお見知りおき下さい、と云われ、てっきり小姓か従者の類だろうと考えていた歳三は、驚いてしまった。
 いや、云い方は悪いかも知れないが、何と云うかこの青年、とても中島と親子であるようには見えなかったのだ。
 云われてみれば確かに、鼻筋や顎の線などは、血の繋がりを感じさせないでもなかったが――風狂の人と呼んでも良いような父親とは異なり、この恒太郎という息子の方は、実直と云うか、手堅いと云うか、そのような言葉を思わせる風貌であったのだ。
「お前も、俺には似ていないと云いたげだな?」
 中島――父親の方――は、にやにやと笑って、そう云ってきた。
「は、いえ、その……奥方に似ておられるのですか」
 言葉を濁しながら問いかけると、中島はまた、にやりと笑いかけてきた。
「まぁ、確かに俺にはあまり似ておらんな。江戸を脱すると云う時にも、こやつめ、母や幼い弟だけ残していくわけにはゆかん、自分は残ると云いおってな」
 父親の言葉に、恒太郎は苦笑いしている。
「だが、現にここにおられるではありませぬか」
「当然だ。あまりふざけたことを抜かしおるので、刀を抜いて脅しつけてやった。それで、ようよう、と云うわけだ」
 英次郎の方は、二つ返事だったと云うのに、と中島はぼやいた。と云うことは、中島はもうひとり、それなりの年齢の息子――話を聞くに、どうやらこちらは、父親とそっくりな気性であるようだ――を伴って、この蝦夷までやって来たと云うことらしい。そして、江戸表には、年端も行かぬ三男を、妻とともに残してきているのか。
 普通に考えれば、二人の息子のどちらかを残してくるのが筋と云うものだろう――幼い子どもは、しばしば大したことのない病ででも、生命を落とすことがある。まして、父親である中島が江戸を脱したと云うことは、残された家族は、収入の道を断たれたことになる。それで、幼い子どもが病にかかるようなことがあれば――そうでなくとも、単にその子を養育するだけでも、家計はいっぱいいっぱいになってしまうのではないのだろうか。
「なぁに、俺がおらん方が、まだしも食っていけるだろうさ」
 中島はそう嘯くが、確かに、恒太郎の危惧も諾なるかな、だ。
 とは云え、そんなことを中島の前で口にしようものなら、またしても“勝の狗”云々という言葉が飛んできそうであったので、歳三は、注意深く口を拭っておくことにした。せっかく話が逸れたところだ、蒸し返すのはなしにしておきたい。
 湯呑を取って茶を戴く。この僻地だ、茶も香りの飛んだものしか手に入らないだろうが、それでも、その熱さは、凍えた身体には何よりもありがたかった。
「ところで、聞いたか」
 中島の言葉に、歳三は首をかしげた。
「何をでございましょう」
「副総裁の松平殿は、箱館の町衆から、またいろいろと上納金をせしめるつもりらしい。その上、貨幣を改鋳し、そろそろそれを町に流すつもりのようだ――また、町の方から突き上げがくるぞ」
「何と……」
 もちろん、歳三とても、脱走幕軍が金銭的に苦しいことは重々承知してはいた。何しろ、歳三たちの給金とて、雀の涙ほどの額なのだ。京時代の新撰組の給与で云えば、平隊士並である。とてもとても、町に落とすどころの話ではないのだ。
 しかも、それも貨幣を改鋳――無論、この場合は“改悪”である――しての給付になるとあれば、多少金を落としたとて、町衆としては、金を掠め取られたような気分になるだろうことは、想像に難くなかった。
「そんなことをすれば、ますます我々の立場が悪くなるばかりではありませぬか」
「あの男も、幕府の中枢におった頃のことが忘れられぬのだろうさ」
 中島は、ふんと鼻を鳴らした。
「町人どもなど、武家の為すに従えば良いと思うておるからな。しかも榎本の阿呆は、それを止めることすら考えつかんときておる。阿蘭陀へ渡航したか何かは知らぬが、考えなしにも程があるわ」
「――確かに」
 自分も身分を論われるせいで、歳三は、松平太郎のことを嫌うようになっていた。
 財政に難があるのはわかっているが、それを木戸賃のように末端の町人から吸い上げたり、あるいは上納金と称して商人どもから巻き上げたりすれば、それが反感を呼び、却って自らの命運を危うくするだろうに。
 それが、中島の云うように、幕府中枢にあった過去を引きずってのものであれば――そんな男の統率する箱館府など、早晩足許を掬われて倒れる羽目になるに違いない。
 となれば、歳三の想定する箱館府の敗北――死力を尽くして薩長と戦い、その結果として敗北すると云う――とは、大いに異なる結末を迎えることにもなりかねぬ。
 ――さて、そうならぬためには、どうしたものか……
 面白がる風な中島に、とりあえず笑み返して見せながら。
 歳三は、胸中で真剣に、今後の策を考えていた。


† † † † †


鬼の北海行、続き。
中島さん、またしてもご登場。


仕方ないけど、中島さん笑いすぎです――そりゃ笑うだろうけどさ!
まァ、こんな人だから仕方ないよね。って云うか、笑い飛ばしてくれるからまだいいのか……これで笑いを噛み殺された方が痛い、よねェ……
あ、中島さんが、江戸脱走の時に、“残る”と云った恒太郎を、刀抜いて追っかけ回したってのは、別に私の創作じゃございませんぜ(「浦賀奉行与力 中島三郎助伝」(木村 紀八郎 鳥影社)参照のこと)。っつーか、5月16日の、大砲に跨って云々然り、中島さんってばアニキ過ぎます! サスケハナ号(だっけ)乗組の米海軍兵とかに「粗野で図々しい」とか云われたのも面白過ぎる――まァ、釜さんとかとは肌合いが違い過ぎますよねー。ふふ。


あ、そう云えば、着々と進んでおります、「北辺拾遺」。現在、森さんの話が終了、引き続き5月15日の島田の話に突入しております。
とりあえず、本篇的な部分は半分まで進めたわけですが、チェックをしてくれている本館参謀殿の「これで最後でこけたら台無しもいいとこよね」と云う言葉が、激しくプレッシャーになっております――っても、終わってるとこも、読み返したらまだ文章の粗が見つかったので、引き続き撫でつけが必要なのですがね、ふふ……
島田の次は、こちらも中島三郎助さんなので、16日を書くのが楽しみ。戦死しちゃうけどさ。
でもまァ、死ぬ話とか負ける話とかばっかの「拾遺」の中では、一番アグレッシヴって云うかポジティヴって云うか、そう云う話になる予定なので、書くときは楽しいだろうなァ――この話のラスト、鬼の5月11日のシーンの次くらいに浮き浮きしそう(←え)です。ふふ。


あ、そうそう、15日まで、両国の両四会館で勝海舟展をやってると、近所に住んでる山南役から教えてもらったので、行ってきました。
そう云や、国技館には行ったけど、勝さんの生誕の地とかははじめてだ。
場所の詳しい位置がわからないまま行ったのですが、両国公園に行きついたら、ははァ、ありました、両四会館。
公民館みたいなのを想定してたら、もっとコンパクトで、昔風のつくりって云うか――昔の寄合所的なカンジ? 中で受付してたのも、近所の年配の方でしたしね。
まァ、ぶっちゃけ内容はとっても(以下略)だったんですが、いかにも地元の方が、和気藹々とやっておられたのに、「勝さん愛されてるな〜」と実感した次第。
展示内容よりも何よりも、それで何かお腹いっぱいになった感じでした。ふふ。
もちろん、勝海舟生誕の地碑も、見てきましたよ。
さァて、生誕地と墓所をクリアしたので、次は氷川の自宅跡だな!
あ、「歴史秘話ヒストリア」見ましたよ。うんまァこんなカンジだよね、って云うか、どうもこの「ヒストリア」ってちょっと作りがイマイチ……まァ、TVってもう仕方ない部分はあるんだけど。
って、勝さんが死んだ時、慶喜くんがばたばた家を飛び出した話はやってあげて! 源氏物語の写本の話はいいから!
っつーか、「JIN」見たせいもあると思う(しかし、最大の原因は多分、朝日の営業さんが持ってきてくれた、安彦勝のピンのポスター……)けど、勝さんの同盟が作りたくて堪らない――どうやりゃいいのか、よくわかんないのにな……ホントに作ってたら、笑ってやって下さいな……


この項、終了。
次はルネサンス。あっちもこっちも進みが遅い……