神さまの左手 23

 コルテ・ヴェッキアへ、小走りで行く。
 ドゥオモのすこし先にある古い宮殿は、一部を当代のミラノ公であるジャン・ガレアッツォが住まいとしていたのだが、残りの部分は、イル・モーロの抱える画家や建築家に、工房として与えられていた。
 円柱の立ち並ぶ回廊を抜け、レオナルドに与えられている、中庭に面した一室へと向かう。
 本来ならば、この中庭には、例の“馬”の彫像の原型が据えられているはずだったのだが――例によって気の散りやすいレオナルドは、まだ土台すらも作ってはいないような有様で、中庭はぽっかりと空いたままになっていた。
 そこを通って、見慣れた扉を拳で打つ。
「マエストロ・レオナルド!」
 他の工房のものたちの手前、それらしく呼びかけてやる、が、返答がない。
「マエストロ! ……レオ! 入るぜ!」
 焦れたサライは、そう云って、扉を押し開け、中へ入りこんだ。
 案の定、レオナルドは、工房の中にいた。ひとりで机に向い、しかし、何をするでもなく、ぼんやりと白い紙に目を落としている。
「レオ、何やってんだよ」
 サライが呼びかけると、かれは、のろのろとこちらを向いた。
「ああ……サライか」
サライか、じゃねぇだろ。仕事してたんじゃなかったのかよ」
「うん……」
 レオナルドは、ぼんやりとした様子で頷いた。
「て云うかさ、あんた、最近なかなか家に帰ってこないだろ。だから、忙しいのかと思って来てみたんだよ。なのに……」
 と云って、工房の中を見回してみる。画帳ばかりか、彫刻の原型にも手をつけている様子はない。それで一体、ここで何をしているものやら。
「――どうしてだか……何も手につかんのだ」
 レオナルドは、重く吐息して、そう云った。
「……おふくろさんが来るからって、頑張り過ぎちゃったんじゃねぇの?」
 注意深く言葉を選んで、サライはそう云ってやった。
 何しろレオナルドは、その頓狂な行状からは想像しがたいほどに繊細なのだ。迂闊にものを云って、傷つけたりしようものなら、どれだけ引っ張ることになるか――そして、どれだけ長い間ぐちぐちと蒸し返されることになるか、考えるだけでも鬱陶しかったので。
「――いや……そうではない、のだが」
 もごもごと言葉を濁すように、レオナルドは云う。
 と云うことは、やはり母親との何がしかが問題なのだろう。
 ――まぁ、結局は期待のし過ぎ、ってことなんだろうけどさ……
 期待しなけりゃがっかりもしないのに、とサライは胸中で呟いたが――さりとて、期待せずにはいられない、レオナルドの胸の裡と云うものも、また少年にはいやと云うほどわかっていたのだった。
 結局のところ、人間とは、期待せずには生きられないしろものであるようだ、と云うことを、サライは、何よりもレオナルドに対する心持ち故に、実感せずにはいられなかったのだ。
 飽きられるかもしれぬ、捨てられるかもしれぬと日々思いながら、それでも一縷の望みに縋って毎日を生きる、それこそがサライの生活であったから。希望を捨てては生きてなどゆけぬ、数年後は知らず、今日明日はまだともにあれる、そう信じてレオナルドの傍にあるより他にない。サライは今のところ、運よくレオナルドに飽きられても、捨てられてもいなかったのだが――それが期待とひどく違ってしまうとなれば、今のように、多少なりとも気楽な気分ではいられなかっただろう。
 そしてレオナルドは、願っていたあれやこれやとは、ひどく違ったものを、母親に対して感じてしまったに違いなかった。
 ――まぁ、あのカテリーナってひとも、そうそう器用そうじゃあないからなぁ……
 そんな母親と、やはり不器用なレオナルドとでは――すぐさま良好な関係が築けるなどとは、とても想像できなかった。
 とは云え、双方に肉親の情を求める気持ちがないでもなく、またあれやこれやの悪意があるわけでもないのであれば、時間をかけたならば、いずれ関係も修復され得るのではないだろうか。
 もちろん、不器用同士のことであるから、間に立って仲介する人間がいなければ、中々関係が好転することは難しいだろうけれど。
 ――ま、そこら辺が、俺の仕事になるってことかな。
 それがそう簡単な“仕事”でないことは、サライとてもよくわかってはいたのだが。
 ともかくも、まずはこのすっかり意気消沈してしまっている大先生を、どうにかして元気づけてやらなくては。
「……あんまりしょんぼりしてんなよ」
 懸命に、サライは云った。
「あんた天才なんだろ? あんたの作るものをまってる連中がいるんだからさ、元気出してよ、――俺だって、待ってるんだからさ」
 だが、サライの励ましの言葉にも、レオナルドは溜息をついて、うなだれるばかりだ。
 ――仕方ねぇなぁ……
 サライは、ふうとひとつ、溜息をつき。
 伸び上がるようにして、レオナルドの上体を抱きしめた。
「な、何を……」
「おふくろさんが寄ってこなくって、淋しいんだろ?」
 頭を抱えこんで、そう囁きかける。
「抱きしめてもらえなくって、がっかりしたんだろ? わかってるって」
「……そんな、子供のようなことは――」
 レオナルドが、抗議の声を上げる、が、サライはそれを聞き流した。
「大丈夫さ、そのうち、おふくろさんだって、あんたと暮らすのに慣れてくるし――そうでなかったら、俺があんたの母親になってやるよ」
「馬鹿な……」
「なるって。俺、今までだって、結構いろんなもんになってきただろ?」
 レオナルドの弟子であり、友であり、恋人であり。
 そこに、この上“母親”の役がひとつ増えたところで、どうということもないだろう。
「俺、何にでもなるからさ。あんたの弟子にも、友だちにも、母親にも」
 ――だから……俺のこと、捨てないよ、な……?
 最後の疑問は、肚の底に飲み下し。
 にっと笑いかけてやれば、レオナルドは瞬間、顔を赤らめ――
「……私を子ども扱いするな!」
 お前こそ子どものくせに、と云うなり、サライから離れようと、じたばたと暴れだす。
 それを、離さず強く抱きしめて。
 ――ずっと傍に置いておいてくれよ。
 サライは、願いをこめて、レオナルドの額に接吻した。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
凹む先生。


昨日(10/22)の朝日の夕刊で「レオナルド・ダ・ヴィンチの人物画、か?」(東.ス.ポみたい)って記事が出てましたね。
オークションで170万で落札されたもので、時期的には15〜17世紀の絵(っつーか彩色デッサン的な?)だと云うことで――先生のか? ってのは、表面に、先生のとよく似た指紋が残ってるから、らしいのですが。
う〜ん、個人的な見解ですが、もしも先生の時代の絵で、指紋が先生のだとしても、あの絵を描いたのは別の人だと思うんだけどなァ。先生の絵って、ちょっと少女漫画的な雰囲気がある(ニュアンス汲んで下さい)んですが、あの絵にはそれがなかったからねェ。
アンブロジアナ絵画館所蔵のアンブロージョ・デ・プレディス画の婦人像が、一番雰囲気似てると思うんだけどなァ。どうでしょ。


あ、アンブロジアナ絵画館のリーフレットを見返してたら、例のラファエッロの「アテネの学堂」のカルトンの写真が載ってましたが――うん、やっぱあれにはヘラクレイトスいないよ。あの部分はぽっかり空きスペースになってる。
ってことは、やっぱみけらにょろが描き足したんでしょ、あれは。
って云うか、ヘラクレイトスの脚の筋肉とか、他の画中の人物と較べてご覧よ! 全然違うから! ……何であれで、ヘラクレイトスがラファエッロ画だってことになるのか、ホントに不思議だわ……


あー、やっぱ昨日(10/22)BS朝日でやってた先生の話(って云うか、美の巨人的な1時間番組)見ました。
「美の〜」と違って、一作品を集中してやる、ってわけではない(っつーか、一回一芸術家っつーか)ので、ちょっと中身が薄い感じがしました。
っつーか、大塚寧々の語りが起伏に乏しく、その上矢継ぎ早に喋ってる感じで、イマ三つくらい余韻に欠けており。
うううぅむ、ああ云う番組って難しいのね、と改めて実感した次第。やっぱ、長くやってるだけあって、「美の〜」はよく出来てるんだねェ。


この項、終了、でいいはず。
次は阿呆話、杉にしてやる!