箱館奉行所について。

えーと、とある方から「あれって?」と訊かれたので、ちょこっと書いてみる。
鬼の北海行内“箱館奉行所”について。


一般的に“箱館奉行所”って云うと、縮小再建された五稜郭内のアレを指すわけですが。
私の話の中に限っては、箱館市街の中のどこか(公会堂の近辺?)にあったはずの、永井玄蕃さんの詰所的なところの意味で使っております。
何でかって云うと、そもそもの五稜郭内の“箱館奉行所”って云うのは、“江戸幕府”の箱館出張所的なものだったはず、なので。
いや、だってあの当時、箱館って天領でしょう? 下田奉行長崎奉行がいたような感じで、“箱館奉行”もいたわけですし、つまりはこの“箱館奉行所”ってのは、“江戸”を中央として、その出張所とか、地域事務所とか、そう云った意味合いでのものだったと思うわけですよ。


で。
松前江差攻略後、つまりは蝦夷全島制覇後って、五稜郭がかつての“江戸幕府”に近い意味合いでの“箱館政府”(まァ、当時こういう呼び名だったかどうかはともかくとして)の政庁所在地になり、そこと箱館市街地との間に一本木関門が設けられて通行が制限されたとなると――江戸に対応するかたちでの“箱館奉行所”ではなく、五稜郭を政庁とする“箱館政府”の下部組織(?)としての“箱館奉行所”が、市街の中にあったと思うんですよね。
そうでないと、永井玄蕃さんの“箱館奉行”って役職が宙に浮いちゃうでしょう。
↑この場合の“箱館奉行所”ってのは、フィーリング的には、江戸北町/南町奉行所、に近い感じだと思って戴いて結構です。箱館市中の取締りや、一本木関門の木戸賃徴収なんかを、実際に行う部署ですね。箱館新撰組の、平時における上部組織でもあります。


えー、“市街の中にあったはず”って云うのは、例の5月11日の時に、市街戦を逃れた永井玄蕃さんたちが、弁天台場に逃げ込んだから。
だって、もしも永井さんの詰所であるところの“箱館奉行所”が五稜郭内にあったのなら、市街戦が酷くなったからって、弁天台場に行くことはないでしょう?
そう云うわけで、今後も「北辺」内では、“箱館奉行所”と云えば永井玄蕃さんの詰所、と云うことで、宜しくお願い致します。


あ、今「歴史読本」昭和54年9月号(特集“最後の戊辰戦争――五稜郭の戦い”)を見たら、“ドキュメント箱館戦争の全貌”の5月11日の戦い(亀田・神山)とついた地図に、“奉行所”の文字がありましたよ。前の方の「万延元年当時の箱館港」と云う地図と照らし合わせてみると、↑の“奉行所”は、おそらく“御役所”と書かれているところではないかと――古い地図の常として、位置関係が結構適当なのですが、高龍寺の位置から考えると、旧函館公会堂乃至は元町公園のあたりではないかと。
まァそんなこんなでー。


† † † † †


こないだの火曜日に、ふと思い立って、沖田番と日野へ行ってきました。
まァ、いつものとおり、メインは石田寺の榧の木と戯れる、だったのですが。
そう云えば一度も行ってないよね、と云うことで、とうかん森にも寄ってみました。
……う〜ん、まァ、“森”と云えない“森”だってのは聞いてましたが――ううぅぅん。まァ、木はどれもりっぱだったけどね。榧の木も2本ぐらいありましたが、やっぱ石田寺の榧の木の方が全然好きだなぁ。とうかん森の榧の木には、なついてうだうだしたいとは思わないもんなー。まァ、石田寺の榧の木がトクベツなんだろうけども。
とうかん森のあとで石田寺に行き、そっちでは榧の木の下でうだうだとしてました。何か、種らしきものがたくさん落ちてたので、ちょこっと拾ってきましたよ。お守り袋状のものを作って持っとこう、と思いつつ、まだ実行できてません――やれ、自分。
うん、でもホントにあの木は好きだな〜。また行こう。


あー、そう云えば、何か最近「週刊少年チャンピオン」で、結構新撰組の話がやってるっぽい――が、イマイチどれもそそらない。
それよりも、バンチでやってる「天翔の龍馬」の方が気になるなー。実は龍馬は暗殺されてなくて……ってとこからはじまるif話。
こないだの号では、総司が出てきたり(喀血してた)、勝さんが出てきたり。
しかし、いっつも思うんだけど、勝さんのこと小さい小さいってェ、あの当時、勝さんくらい(=158cm)が男性の平均身長よ? 鬼は割と高い方だし、一ちゃんとか総司とか島田とかって、巨人の世界よ? 龍馬も175cm以上だったらしいから、そりゃあ龍馬に比べりゃあ勝さん小さいけどさ、その辺の町のおっさんに「ちっせぇジジイ」とか云われるほどじゃあないはずよ?
……みなさん、どうにかして下さい。


さてさて、次こそ阿呆話、杉の話、って云うか……