いきなり、源平の波が。

“考察”枠かコレ、とは思うのですが、“日常雑記”でもないと思うので、このままいきます。


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来ちゃったよ、源平の波。
っつーか、ぶっちゃけ佐殿=源頼朝熱と云ってもいいのですが。
何かこう、『吾妻鏡』(原文面倒なので、もちろん漫画ですぜ)とか読んでるとね――切なぁくなってきちゃって駄目だ……
いや、もちろん、『吾妻鏡』の佐殿は、陰険だし厭な男ですよ。権謀術数めぐらすし、男は駒で女は食っちゃ捨て的な人ですよ(←こう書くと、ホント酷ェな……)。
でも何かね、そう云うアレコレの裏側の、佐殿の根深い人間不信を思うとね――あァ、あたし幸せだわ、って思うわけなんですよ。鬼だって伊達の殿だって先生だって、ここまで深く根を張った人間不信はなかったよなァ。
殿は、何だかんだで愛やら猫やら小十郎やらに甘えられたし、輝宗パパだって大事にしてくれてた。鬼も、のぶ姉やら為次郎兄やら源さんやら彦五郎さんやら(喜六兄は若干どうだろう……)、甘やかしてくれる人がいたよね。先生だって、サライはもちろん、その時々で大事にしてくれた人、たとえばルカ・パチョーリ師なんかもあったしね。
そう考えると、佐殿ってさァ……心から信じた人って、いないでしょう。ぎりぎり政子? でも、それだって結構晩年にやっとだろうしね。


何か佐殿、後白河法皇の愛人だった説がある(しかも、平安末期〜鎌倉初期あたりの結構な権威の方の説で)らしいのですが。
そうだとしたら、余計に微妙だ……平治の乱に父・義朝が敗れ、それによって伊豆に流されたのが十三歳の時で、愛人だったとしたらその前だそうですから、江戸の衆道もびっくりのU-12ですよ! (江戸時代の衆道の場合、若衆(まァ有体に云えば受の方)は15〜18くらいじゃないと駄目だったらしい) 当時の武家は、所詮は“さぶらうもの”ですから、公家連や、まして上皇法皇なんかには逆らえるはずもございません。つまりは、要求されれば応えなきゃあならんわけですよね。わー、今だったら間違いなく児童虐待っつーか児童買春みたいな?
しかも、その直後に、父親が戦に負けて、伊豆に配流って――そりゃ性格歪むわ。


佐殿の結婚について、永井路子先生は“頼朝三十、政子二十で、どちらも当時としては嫁き遅れ”(←男に“嫁き遅れ”って使うのかな……)とか書いておられましたが。
佐殿が、政子の前に、伊東祐親の娘と恋仲になって子どもをもうけてたとか云う話があるのを考慮に入れたとしても、佐殿十三から伊豆にいるわけだし、政子はずいぶん小さい時から佐殿を見てたんじゃないかと思うんですよね。で、佐殿が伊東祐親の娘と宜しく(?)やってた時にも、じっと待ってたんじゃないかと思う。
伊東祐親の娘の産んだ子供は、生まれてすぐに殺されたそうですが、きちんと結婚しなかったってことは、その娘との間柄って云うのも、そのままなし崩し的に消えちゃったんでしょうね。それがまた、佐殿の人間不信に拍車をかけるわけだ。
政子は結局、それを何とかしたくて結婚したのかなァ――浮気されまくったけど、それでも忍耐して(って云うか、あの激しい嫉妬って、実は佐殿に見せるための嫉妬だったのかな、ってちょっと思う――平然としてると、佐殿、愛情がないんだと思って引いちゃいそうだし)、結局最後まで添い遂げたもんなァ。面倒くさい佐殿相手に、よく頑張ったよなァ。
それって、やっぱり愛なんじゃ、と思わずにはいられません。


九郎たん(←……)って、そう云う意味では、佐殿の扱いを誤ったんだなァ。
確かに、ああいう人間不信甚だしい人には、好き好き云うのはひとつの手ではあるのですが――ただ、云ったらちゃんと完遂しないとね、一遍云っといて、言葉と違う行動をとられると、ああいうタイプの人間は、“やっぱり嘘だった”とか云って、もっと引き籠るから!
そう云う意味では、やっぱ九郎たんお馬鹿だったんだなァ、とか思います。お馬鹿って云うか、佐殿みたいな複雑怪奇な性格のひとにアタックするには単純過ぎたと云うか。
あと、弁慶とかの家臣も、ちょっと単純過ぎたんだろうなァ。っつーかアレだ、新撰組におけるぱっつぁんとか原田みたいなカンジだったと云うか。組織立てしようとしてる佐殿に、「九郎殿は鎌倉殿の弟君なんだから」とかって、特別扱いして当然的な態度だった(だろう、あれは)のは、佐殿的には非常に拙いカンジだったと思うんですよね。それこそ『乙女の日本史』的に“「愛されること」で自分の価値を確かめていた”部分もあったと思うので、自分より九郎たんを優先する弁慶たちってのは、組織論的にもヤヴァいと思ったでしょうしね。


しかし、してみるとやっぱりアレなのが、後白河法皇か――
“日本第一の大天狗”と云う佐殿の言葉ってのは、(幼少期のアレコレを措いたとしても)やっぱいろいろ実感こもってるよなァ……
後白河院、父親とかからは“帝の器じゃない”とか云われてますが、何だかんだ云っても、やっぱり相当な手腕の持ち主ではあったと思います。定見がないとか、場当たり的対処とか云われてますが、裏を返せば臨機応変だったってことだしね。
そう云う意味では、後鳥羽上皇の方が才気走ったところがあったと云うか、走ってこけたと云うか――承久の乱で負けて隠岐に配流って、後白河院ならもっと巧く切り抜けたろうになァ、って思います。
やっぱり、ちょっと後白河院のことも調べてみるべきか……
しかし、後白河院と佐殿って、二十歳年が離れてるんだよね――その年齢とキャリア(後白河院って、保元三年=1158年に退位してるから、すくなくとも佐殿が十歳くらいの時から、政治の第一線にいたことになる……)の差を余裕にできないくらい、後白河院は佐殿のことを(ある意味で)買っていたってことになるか……ちょっと楽しいな、ふふ。


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……とりとめもない話ですみませんねェ。
とりあえず、いずれ佐殿の話は書くつもりです。冷徹で策謀家、なだけじゃない、人間不信ですごく淋しい佐殿が書きたいな。
と云うわけで、そのうちカテゴリに“源平”的なのができるかと思いますが、宜しくお願い致します。
戦国はねー、正直、伊達の殿はほぼ山岡荘八ので満足(敢えて書くとしたら猫がらみだけだな)なので、多分書かなくても済んじゃうと思うんですよねー。
佐殿は、もう悪役ばっかりなので(その点、九郎たんは皆に愛されてていいよね/僻み)、ちょっと毛色の違う、淋しい淋しい佐殿を書きたい。
……しかし、何か過去に書いてた(っつーか書きかけ/汗)DQ8のカリスマ兄弟の話を思い返して、それがほとんど佐殿と九郎たんまんまの話になってるのにびっくり――もちろん、あれはああ云う話なので、失敗した佐殿と成功した九郎たん、って感じではあるのですが。
でも、それでもあの話の兄は、佐殿よりは人間不信じゃなかったなァ。と思うと、どんだけ人間不信なの、佐殿!
ううう、史実を追っかけてくとすごく難しいんだけど、最終的には、ちょっとは幸せにしてあげたいなァと思います。頑張れ自分!


この項、終了。
とりあえず、今度こそ鬼の北海行で〜。