北辺の星辰 49

 二月は、何事もなく過ぎ去った。
 案の定、貨幣の改鋳――“改悪”――と、その流通に伴って、箱館市中では、細かな騒動が起きてはいたが、それにしても、箱館の民草が一丸となって、旧幕軍に反旗を翻す、と云うほどでもありはせず、概ね平穏な日々が続いた、と云ってよかっただろう。
 本土では、二月は早春であり、半ばを過ぎれば桜の蕾もほころびはじめる頃合いであったが、この蝦夷地の二月はと云えば、まだまだ厳寒のさ中である。三月に入ってもそれは同じことで、箱館の空はまだ雪雲で曇り、見渡す限りの景色もまた、雪の白に覆われたままであった。
 薩長の輩も、この気候ではまだ攻め寄せてはくるまい――そのような気分は、幕軍兵士たちに気の緩みをもたらしていた。
 改鋳された悪貨――“脱走金”――の使用をめぐるごたごたは、相変わらず散見されたし、それ以外でも、幕軍兵士たちの引き起こすもめ事も、少々増加しているように見受けられた。現在の幕軍兵のほとんどは、元々旗本や御家人であったわけではなく、半ば以上は、侠客や浪人崩れであり、規律が緩んでくるに従って、気が大きくなったものか、横柄な振舞いを見せるものが出てきていたのだ。
 とは云え、それが大きな問題にまで発展することもなく、つまりは、概ね箱館は平和であったのだ。
 そのため、歳三自身も、やや気を緩めていたところはあった。
 折を見て中島三郎助に機嫌伺いをしてみたり、箱館市中の商人たちの催す句会に参加したりと、割合に自儘に日々を過ごしていたのだ。
「中々良い身分ではないか」
 などと中島は云うが、まったくそのとおりだとは、歳三自身も感じざるを得なかった。
 確かに俸給こそ少なかったが、しかしほとんど仕事らしい仕事もない状態では、むしろ申し訳ないほどの“高給”である。無論、何も仕事がないわけではないが、それにしても、二両あれば、江戸の家族であれば二ヶ月近く食べていける額なのだ。
 それをただ貰うばかりで、“遊興に耽っている”と云われても仕方のない仕事ぶりであったから、“良い身分”と云うのはまさしくそのとおりであっただろう。
 だが――
 所詮はこれも、雪融けまでのことなのだと、白い大地を眺めやるたびに、歳三は思わずにはいられなかった。
 榎本は、松平太郎や永井玄蕃と諮って、朝廷へ蝦夷地開拓の許しを願い出ていたが、未だに捗々しい返答のないところを見れば、朝廷と、その背後にあるだろう薩長の勢力が、榎本の嘆願を撥ねつける気でいるだろうことは想像に難くなかった。
 まァ、確かに虫のよい話ではあるのだ。榎本ら海軍畑はともかくとして、歳三や大鳥などの陸軍組は、宇都宮や会津などで、薩長土肥の連中と幾度も剣戟を交えてきた。その上、蝦夷地に進行してきてからは、薩長に恭順を表していた松前藩に戦を仕掛け、遂にはかれらをこの北の大地から追い払ってしまったのだ。
 これをして、薩長の輩、それから抜け目のない公家連中などが“逆賊”呼ばわりしてこないなどとは、とても信じられなかったのだ。
 歳三にはわかっている。この冬の最中に、雪に不慣れな薩長土肥の輩が攻め寄せてくるなどあり得ない――だが、裏を返して云えば、雪が融けてしまったなら、かれらは大挙して蝦夷地へ攻め寄せ、数の力でもって、幕軍を打倒するに違いないのだと。
 そのあたりのことは、中島も重々承知の上であるようだった。
「榎本は、どうにも考えが甘くていかん」
 苦虫を噛み潰したような顔で、中島は云うのだ。
「あの奸賊ばらの薩長が、蝦夷地開拓願などをそうそう認めるわけがあるまいに――永井様も、そのあたりを諌めて下さるが筋と云うものではないか」
「――まァ、そう云う部分もございますでしょうなァ」
 曖昧に笑みを返す歳三に、中島がずいと顔を寄せてきた。
「何だ、勝の狗め、随分と榎本に甘いではないか」
「そのようなことは、決して」
 そう返したものの、正直、思うままに行動して、蝦夷地駐留幕軍の勢力が四分五裂するの愚だけは避けたいところだった。
 とは云え、中島の云うところも肯首すべき部分は確かにあったのだ。
 榎本は、本当に考えが甘い。鳥羽伏見の戦いの後、東下してきた薩長土肥軍――東征軍と称していた――が、錦旗を掲げていたこと、そしてそのことに朝廷側から何の咎めもなかったことでもわかるとおり、もはや朝廷は、そのほとんどが倒幕派の支配するところとなっているのだ。
 かれら反幕府の公卿たちにとっては、おそらく慶喜公を隠居させるにとどめただけでも大層な譲歩であっただろう。徳川家の存続を許し、八百万石の天領を取り上げて駿河一国に転封させた、それとても、かなりの温情をもってしたのだと云うだろう。
 それでこの上、幕臣たちに新たな所領を与えるがごとき蝦夷地開拓の許しなど――歳三が公卿の中にあったとしても、与えようとは露ほど思わぬだろう。
 確かに、それをなし得る可能性を示して、榎本の蝦夷渡航の意見を推したのは歳三自身であったのだが、ことここに及んでまだそれに希望を託す、榎本の見通しの甘さについては、嘲笑したくなる心もわからぬではなかった。
「――ここまで参りました以上は、榎本さんのことを論ったとて、仕方ないことでございますから」
 そう云えば、中島は、皮肉に唇をつり上げた。
「あの松平めが、お前のことを“悪狐”呼ばわりするわけがわからぬでもないな」
「……御冗談でございましょう」
 副総裁・松平太郎が、己のことを“悪狐”呼ばわりしていることは、無論、歳三とてもよく承知していた。と云うよりも、面と向かって悪罵されたことも二度三度ではなく、お互いに心象の宜しくないことはわかっていた、と云うべきか。
 松平の罵りが故なきものではないことは、歳三はよくよくわかっていた。さりとて、元の身分まで持ち出して、自分を悪しざまに云う男に対してまで、同情を示してやる義理などありはしなかったから、自身の松平に向ける悪感情を、別段隠し立てしてはいなかった。
 だが、それについて、中島からこのような言葉を向けられようとは、歳三は思いもしなかったのだ。
 だが、中島はにやにやと笑っただけだった。
「冗談でなどあるものか。お前は、この蝦夷渡航が徒労に終わると知って、榎本を唆したろう。榎本大事の松平が、お前に騙されたと思うも無理からぬことだろうさ」
「……」
 歳三は、沈黙するよりなかった。
 中島は、また声を上げて笑った。
「まぁ、榎本の阿呆は、どのみち負けがこんでこなければ、己の不明を認めはせんだろうさ。それに、奴の思惑など、俺にはどうでも構わんのだ」
「と、申されますと」
「俺は、薩長ごときに下げる頭は持たん。戦となれば散るのみよ」
「……それは」
「お前とて同じことだろう、土方?」
 云われて、歳三は頷いた。
 勝の申し含め――幕軍を敗北させ、歳三自身も死ぬと云う――を措いたとしても、確かに、京洛においてあれほど追捕した薩長の輩に、今さら頭を垂れてゆくなど、歳三の自尊心が許さなかった。
 どのみち、それは相手方とて同じことであっただろう。歳三が降伏すると云ったとしても、かれらにはそれを生かしておくなどと云う選択肢は存在しないに違いない。新撰組は、それほど多くの勤王志士たちを捕え、あるいは斬ってきたのだ。その恨みは深く激しいのだと云うことくらいは、想像を働かせなくてもわかることだった。
 となれば、残されたみちなど、討死以外にあり得ないではないか。
「……とは云え、それも雪融けの後のことではございましょうが」
 蝦夷地の雪融けは遠いと聞いた。本土であれば二月は花の季節だが、こちらではぐっと下って四月近くにならなくては、梅すらも咲かぬのだと云う。雪も、それまでは残っているのだとも聞いた。南の方からやって来る薩長の軍は、当然、不慣れな雪の季節には動こうとはしないだろう。
 幕軍はそれを見越し、あと暫くは雪に耐え、寒気に耐えて、士気を保ってゆかねばならないのだ。
「だが、それもそう先のことでもあるまいよ」
 そう云った中島のまなざしは、はるか遠くを見るかのようだった。
 ――戦の時が……
 迫っている。
 ふた月は、遠い先のはなしではないのだ。心を決めねばなるまい、いかにして戦い――いかにして敗れるかを。
 中島のまなざしの方を追いながら、歳三もまた、己の覚悟を確かめた。



 だが。
 戦いの風は、雪融けよりもはやく蝦夷に訪れた。
 三月、薩長の有する軍艦五隻が、品川を発し、宮古湾へ入るとの情報がもたらされたのだ。その中には、幕府が亜米利加に発注して建造させた甲鉄艦も含まれているとのことだった。


† † † † †


鬼の北海行、続き。


箱館病院で蟻通と、って云う展開を考えていたのですが。
ちょっとここのところ、蟻通(と八十)にはいろいろ含むところがあって、友好的な書き方ができないなァと思ったのですっ飛ばし。譬えて云うなら、弁慶なんかを前にした佐殿のような気分、って云うか……
気分的に落ち着いて、蟻通のことも含むところなく見られるようになったら、加筆するかもです――かも、だけど。


って云うか、古馴染連中の前で、「最近、佐殿が気になる」的なことを云ったら、みんなが「あぁ(笑)」って云ったのって――どうよ! って云うか、今浮かべたその生ぬるい笑いは何だ!!! 「似てるとこあるよね」って、自分で云うのはアレだけど、他人から云われると何かこう……くそぅ!
どうも、世間的な佐殿のイメージで見られてるんだろうか、と思うと、僻みっぽい気分にならざるを得ません。歴史的評価と世間的評価が、これほどばっきり割れてる人って、他にないからなァ……歴史的評価の方に似てるんなら嬉しいけど、世間的(判官贔屓的)評価の方だったら……凹むわ……
しかし、佐殿と鬼って、やっぱ同じ類の生きものだ――平安末期の坂東武者ってのは、まだまだ荒くれ者揃いで、後世の所謂“武家”とは質を異にしていたらしく。でもって、佐殿はそれを政治的手腕で掌握していたのだそうで。何かこう、鬼が浪人崩れとかを掌握してたってのと、似たところあるよなァ、とか。
幕府の組織立てってのも、佐殿が考えて作った(しかも、結構実力本位で、家柄でその職を押さえる、ってのを回避しようとしてたらしい)そうなのですが、それもやっぱ鬼とちょっと似たとこあるよね。


そして、佐殿関連書籍を探しに、神保町、早稲田と回ってみたのですが。
びっくりするくらい何もなかったよ! 中公や岩波の新書すらないなんて! っつーか、講談社学術文庫の日本の歴史も、鎌倉あたりだけないと云う……何、誰か私のライバルが!? (←そりゃねェだろ)
これはもう、古本屋のネットと密林さんを活用するしかないか……
っつーか、佐殿ホントに人気ないのね……九郎たんは(某「遥か」とかもあるので)まだまだ人気らしいのに……
しかしホント、何で伊達の殿と鬼は良くて、佐殿は駄目なんだ……あの3人、規模が違うだけで、やってることってほとんど一緒じゃん。人間不信なところが駄目なの? 佐殿だってイケメンなのに……!
判官贔屓”って厭ァねェ……
あ、後日また行ってみたら、山路愛山の佐殿の伝記が出てました。お店の人に「ライン引いてありますけど平気?」って訊かれた、って、どんだけ直近の入荷だったの!
ちなみに別の店で佐殿探してたら、「中島三郎助文書」と、姫=阿部正弘殿関連書2冊を発見――「我々を忘れるな」ってカンジですか? でも、姫の「阿部正弘公事蹟」なんか、3万↑するのに買えるかー!!!!! (もう1冊も、同じような古くて分厚い本だった)
とりあえず、佐殿は密林さん活用中です……


この項、終了。結構かかっちゃった……
次は――ちと旅に出るので、また紀行です。ふふ、姫……♥