源氏vs平氏!

ただ今、鎌倉話を書くためにいろいろ資料を読んでいるわけですが。
その辺で出てきたあれやこれや。の、源氏vs平氏。いや、争いじゃあなく、源平の差異についてと云うか。
相変わらず文が乱脈なのは、ちまちまとモバイルPCで打ちこんでたからですよ……ふふ。


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そもそものはじまりは、五味文彦氏の『院政期社会の研究』(山川出版社)内「院政期政治断章」が元なのですが。
えーと、佐殿とですね、平重盛のあれやこれやを考えてまして、それを調べるために、平家に関して調べはじめて思ったことなんですが。
平家って――マジ公卿化してるのね! いや、してるしてると云われてるのはもちろんいろんな資料(初心者向け)で読んでましたが、それにしてもすごい。っつーか、院政期(白河以降)の平家って、ホントに公卿の間に食い込んでる――
って云うのが、実は『平家の群像』(高橋昌明 岩波新書)とか『日本の歴史6 武士の成長と院政』(下向井龍彦 講談社学術文庫)とかの著述を元に(だから、一次史料には当たれないんだってば!)、院政期〜平家政権下の、天皇家藤原北家本流、善勝寺流と伊勢平氏のざっとした系図を書いてみたのですが、これがめさめさ入り組んでまして。
で、ここに『院政期社会の研究』における、藤原頼長の愛人たち(えェ、男色の)の相関図を書き入れて、後白河院の愛人(えェ、男色の)の相関図も書き入れてみると――ものっそいことになるんですよ、これが。
まず、藤原北家本流の頼長と、善勝寺流の成親が愛人関係にあったでしょう、で、後白河と成親&重盛がやっぱり愛人関係。もしかしたらそこに佐殿も? で、成親の妹と重盛が夫婦で、この義兄弟(あの当時、兄と妹婿がこういう概念の関係であったかどうかは謎なんですが)は仲がいい――後の平治の乱の折、藤原信頼に加担した成親は、縁座して遠流にされかけるのですが、重盛のとりなしで解官で済まされる、と云うことがありました。その後の鹿ケ谷の一件では、すぱっとやられちゃうんですけどね、結局はね。
やー、院政期って、いろいろ爛れてますよねェ。や、橋本治の『院政の日本人 双調平家物語ノート2』(中央公論新社)を読んでると、もっとアレコレ凄いんだけど。


で、それに比して、源氏ってまったくこの相関図に噛んでこないんですよね――いや、佐殿はまァ、後白河関連でいろいろと(以下略)なのですが、母親も藤原氏(但し南家だけど)なのですが、兄ふたり(悪源太義平と朝長)とかってのは、本当に入ってない。義朝パパは、鳥羽院の近臣だったとか云う話なのですが、それにしても、摂関家とはまったく縁がないってのは、清盛なんかとは大違いですよね。まァ、清盛は、白河院落胤だそうなので(当時から公然の秘密だったらしい)、直近の皇胤と、清和天皇に端を発するくらいの遠い皇胤とじゃあ、世間の扱いが違って当然なところはあるのでしょうけれど。
清盛の息子・重盛の母も、高階基章の娘と云うことになっているのですが、実は藤原忠実の不倫でできた子どもだと云う噂……(高橋版『平家の群像』による) こっちも摂家(=藤原北家本流)じゃんって云う。
まァ、その辺の真偽のほどはアレとしても、平家って、そう云う繋がりが割とあるよね、って云う。
その辺で、源氏は、八幡太郎義家が関東以東であんまり勢力を伸ばしすぎたんで、天皇やら公卿やらに警戒されたそうで――その後、中央の要職につけられなかったので、そう云う繋がりもでき難かったってのは、まァ仕方ない話なんですけども。
だから、佐殿の母親は、藤原でも南家の方(まァ、要はまったくの非-主流派)だったりするわけさ。本流=北家の絡みのある姫なんぞとは縁組させてもらえなかったんでしょう。義平兄の母親なんかは三浦氏の出だしね。


ううう、しかし、高橋版『平家の群像』は、どうも論旨が明確ではないと云うか、読んでてもさっぱり頭に入ってこないと云うか。重盛の母系の血縁関係のあれこれとか、は使えたけど。平家贔屓なのはわかった、が、それで結局何なわけ?
っつーか、高橋昌明氏は文中で“佐殿が武家政権創始者だって云うけど、ホントは清盛がそうなんだぜ!”とか云うことを書いておられるのですが、いや、それはどうか。
だって結局、系譜とか見てると、平家のやってるのって、藤原摂家と同じ外戚計画だもん。公家平家の時忠なんかと組んで、北家本流とかあたりと縁組したり、娘や何かを入内させたりとか、すっかりお公家様ですわよ、やることが!
でもって、地方武士の利害を代表して訴えてやるでもなし、ホントにアンタ、武家の棟梁なんかいな、ってカンジですよね!
正直、そう云う中央政治にしか目を向けてない平家の“武家政権”ってのは、本当の意味での武家政権ではないと思うのです――まァ確かに、その後佐殿が官位を上りつめていく、その“武家が中央政界の官位を極める”足がかりを作ったのは、清盛をはじめとする平家の皆さんだったかも知れませんけども、でも、あれは正直、武家のやることじゃあないよなー。確かに、武家らしく(?)宮中の祭祀とか儀礼的なあれこれとかにはノータッチだったっぽいけど――だからって、それが“武家政権”だったかって云うと、どうよ。“武力に物を云わせた一家独裁”ってのは、厳密に“武家政権”なのか? 地方の武士から共感されないってのに?
ま、清盛、白河院落胤だったわけだし、その辺で意識が“武家”じゃないのは仕方ないのかもだけど。
と思うんですけども、違いますかね?
とりあえず、版元在庫有なんで、安田元久氏の方の『平家の群像』(塙書房)をGetしたいわ……


平氏政権のあれこれは、下向井龍彦氏や橋本治、竹内理三氏(中公文庫『日本の歴史6 武士の登場』)あたりを参照すると、確かに厳密な意味での“公卿”ではないんですが――っつーか、福原遷都とか、すごい乱脈経営みたいで、思わず「清盛、梅毒とかだった?」とか思っちゃった……(梅毒に罹患すると、場合によっては誇大妄想の症状が出ることがあるそうな)
っつーか、内裏とすべき建物もなく、朝議を行う場所もなく、どころか公家や官吏が泊まる家さえ満足にない(一部の高官を除いては、道で立っているしかなかった、とか云う状態だったらしい――もちろん誇張はあるでしょうが)ところに、見切り発車的に遷都って……それで実際に都が動くと思うって、どんだけ俺様世界の中心なんでしょうか。
高倉上皇の初社参を、恒例(石清水八幡宮とか賀茂神社とか春日大社、あるいは日吉神社)から外れた平家の氏神厳島神社にしたってのも、そう云う「俺様中心!」な気分からだったんでしょうかねェ。でも、今でも遠い宮島って、あの当時はもっと遠かっただろうに――橋本治が「あんな遠いところまで、身体の弱い高倉院を連れてったから、それで翌年にこの人死んじゃうんだよ」とか書いてましたが、それはそうかも。っつーか、石清水とかじゃ駄目なわけがわからない。やっぱ権勢の誇示?
こういう無理繰りなやり方してるから、人心がすっかり平家から離れちゃうんじゃん、ねェ。


でもって、橋本治も何だかかんだか――『双調平家物語』は、まァ私が読んでも仕方ない小説なんだろうなァ、と思いますね。
っつーか、『院政の〜』読んで、ちょっとメダパニ食らってたんですが、この人は、政治とか戦略とかのセンスはないっぽいね――平家追討の時に、佐殿が九州に範頼を派遣した件を「何で?」って書いてるんだけど、あのさァ、ぶっちゃけ、佐殿関東は押さえてるけど、畿内以西は勢力範囲外なんだよね。でもって、平家は曲がりなりにも西側が勢力圏なんだよね。ってことは、無闇に突出して、もしも九州が平家に味方した場合、一大勢力を築かれて面倒なことになったと思うんだよね――何しろ向こうは安徳天皇を擁しているわけだし、三種の神器も握ってるわけですから。いくら皇位の正当性を保証するのが院だったとしても、やっぱり祭祀とか何とかで、いろいろと問題になりますからねェ。
そう云う連中が、掌握されてない南海地方の武士たちと手を結んでこられちゃあ、正直すっごく面倒くさいわけですよ。佐殿が(一応)後白河院に提示した、“東は源氏、西は平氏が統括するってことで、どう?”って云う申し出も、宗盛とかに、清盛の遺言(「我が墓前に頼朝の首を供えよ」とか云うの)を楯にとって拒否られちゃってるしね――や、あれで平家が乗ってきたら、佐殿それはそれでおとなしくしてたかもなんだけどねー。多分、意外と面倒くさがりだから。……いや、それはないか、後でいろいろ面倒なことになるのは目に見えてるわけだしな。


しかしまァ、ホント、橋本治の考察は、快刀乱麻と云えば聞こえはいいけど、些かならず論旨が荒っぽいよなァ……


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ところで、竹内理三氏の『日本の歴史6 武士の登場』を読んでて思ったんですけども――何かい、子どものころの佐殿は、そんなに可愛かったのか!?
だって、平安〜院政期の貴族社会について、“醜さは罪”的なことが書いてるんですよ! 見目が美しくって誰某を取りあった的なことも書いてあるんですよ! (ちなみに、竹内氏の↑の本は、歴代の天皇の所業について「〜なさった」的敬語で書かれている――やっぱ戦前生まれの人なんだなァ)
後世の「平家物語」や「源平盛衰記」なんかでも“イケメン貴公子”扱いの佐殿なので、まァそれでも不思議はないんだけど――でもさ! たかだか12〜3歳のお子様(今の数え方で云えば、11〜2歳ですぜ)を、皇后宮権少進→上西門院(=元の←の皇后宮が、院号宣下で“上西門院”に)の蔵人(まァ、秘書官的な? 子どもにその官職を与える場合は、多分に後世の稚小姓的な意味合いではあったと思いますが)にしたり、それを二条天皇が内蔵人にしたり、って、どんだけ争奪戦だったの! (ちなみに、上西門院の蔵人になったの→二条天皇の内蔵人になったの、ってのは、同じ1159年のことです)  二条天皇のアレコレは、仲の悪かった後白河院に対する意趣返し的なものかもしれませんが、それにしても!


でもって思ったのは、結局、長兄の悪源太義平や次兄の朝長なんかは、そんなにイケメンじゃなかったのか、って云う――だって、佐殿が生まれるあたりから、義朝パパは京で活動してるわけだし、パパは鳥羽院の近臣だった、ってことは、まァまァイケメンだったってことだよね。で、そのパパの息子で、ある程度の年齢で京に来ていただろう義平兄は無官で、朝長兄はどこだったかの七等官、なのに11歳の佐殿がはじめから四等官とかで出仕で、なお且つその後は奪い合い、ってさ――顔だろ、顔なんだろ!?
しかし、してみると、清盛とか重盛とかってのは、まァまァイケメンだったのかなァ――まァ、重盛の息子惟盛は“桜梅の少将”とか云われた美形だったそうなので、その父である重盛や、祖父である清盛なんかも推して知るべし、なんですけども。


そして、どうやら(当時の京的基準としては)醜女の部類だった(しかも、それでも北条の姉妹の中ではマシな方らしい……)政子が、京の貴人に近い感覚の佐殿の正妻だった、ってのは――それなりには愛されてたのか、政子……


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さてさて、この項、終了。
次は、阿呆話、か、思いつかなかった(←や、ちょうどいいのが、ね――ネタ自体はいつもテンコ盛りなんですが……)ら、鬼の北海行で。