三浦半島散歩

こないだから行きたい行きたいと思っていたので、行ってきました、三浦半島
っても源平中心と云うわけではあんまりなく、浦賀と鎌倉と云う、源平+幕末折衷的なカンジ。


えーと、8時ちょい過ぎに、沖田番ちの最寄り駅で合流。→新宿→湘南新宿ラインで横浜→京急浦賀に到着。時間は10:30くらい、って、家出てから3時間近くかかってますな――って、倉敷→鞆の浦間より遠いじゃん!!
しかもこの時点で空腹になり、駅のすぐそばの京急ストアで白い鯛焼きを各2個(抹茶小豆&桜餡、沖田番はカスタード&桜餡)と、お茶系を各2本、スモークチーズとカマンベールもGET。
とりあえず、桜餡の鯛焼きを食べながらのスタートです。


っつーか、京急に乗ってから思ってたんだけど、三浦半島って、何かこう、東京〜横浜間と雰囲気違うよねー。上大岡とか金沢文庫あたりから、こう、窓の外の景色が違うんだよね。
何て云うんでしょうか、司馬遼の『街道をゆく 三浦半島記』に書いてあった、佐原十郎義連曰くの「これ(=鵯越)くらいは、三浦のものにとっては馬場」ってのは、こう云うことかァ、と実感したと云うか。何かこう、宅地開発で台地を切り崩した部分はあるんじゃないかと思うにせよ、アップダウンが凄いですよね! いきなり切り立った崖がどーんと迫ってきたりとか、平地がぽかっと開けてたりとか、非常に表情豊か。
そう云えば、昔々、父親が単身赴任(?)時代に戸塚のあたりに住んでて、幾度か行ったことがありましたが、あの辺も結構坂が多かったか――横浜市街地あたりは割となだらかなイメージなのですが、うぅむ。


でもって、浦賀のあたりは、それともまた違う風情――何て云うんでしょうか、浦賀ドック跡があったりするせいかも知れないんですが、何かこう、海賊のアジトみたいな? いやいや、でも何か小さい港町で、しかも漁業が中心じゃないっぽい雰囲気なんですよね。
鞆の浦とかって、きっぱりはっきり漁業の町で、家々の軒先で細魚干してたりとか、魚河岸的なところがあったりとか、魚を獲って暮らしてるカンジがすごくあったんだけど、浦賀はそう云うんじゃない港町、ってカンジだったので――でもって、横須賀方面とも違うカンジだったんで、となると海賊? みたいな(笑)。いやいや。
要するに、漁港っぽくも、昨今の海軍や海上自衛隊っぽくもないカンジなのですね。


浦賀港の東岸を、観音崎通りにそって南下。この辺も海まで崖が迫っており、見上げた断崖の上にマンションが建ってたりする――住んでる人、怖くないかしら。
ちょっと迷うも、近隣の方に道を訊きつつ、まずは東林寺へ――ここは中島三郎助さんと息子二人+中島家累代の墓があるお寺。
本堂向かって左手の奥、墓域の南端の一角に、中島さんとこの区画があります。
手前右が中島さん、その奥が英次郎、正面が中島家累代の墓で、左手が恒太郎、手前左は中島さんのお父さんのお墓じゃなかったかな?
もちろん、函館で最期の地にも行ったし(以下略)なので、生ぬるく微笑みつつ、合掌する。
中島さんの墓石の側面には、本人の手を彫ったんじゃないかって云う歌が一首。読めなかったけど、多分辞世の歌だったんじゃないかしら。
中島さんの手が碑になってるって云えば、佐原義連の墓のある満願寺の入口のところに、芭蕉の句を中島さんの手で書いたものを碑にしたものがあるそうな(永井路子『相模のもののふたち』による)。鎌倉と幕末の意外な接点が、しかも中島さん絡みで、って、ちょっとドキドキしちゃいましたよ。


でもって、次は東叶神社。
ここはもっと鎌倉絡みって云うか、アレです、例の文覚上人(平家嫌い)が、平家の滅亡を祈願して建てた社でございます。西岸にも社があり(=西叶神社)、実はそちらが本社なのだとか。
それはともかく、この東叶神社、裏の明神山で勝さんが水垢離をした後、断食して咸臨丸の航海安全を祈願したのだとか。それは行かなくちゃ!
と云うわけで、本殿にお参り後、左手奥の石段を上がって、断食跡へ。石段は200段ほどあるとかで、しかも傾斜も急で、雨上がり後はちょっと危ない――滑るしね。
がまァ、さくさくと上がって碑(?)の前へ。せっかくなので、職場の勝仲間Mさん&S課長様に写メ。清正の井みたいに、待ち受けにしたら運気が上がる、とかならいいのに、と云いながら。
この山頂には、他に小さな社がひとつと、奥の院っぽい社がひとつ、それから南面に浦賀ドックの殉職者の御霊を祀った慰霊塔があります。その辺をぐるっとお参りして、石段を下へ。


降りて本殿に差し掛かると、どう見ても歴女の二人連れがお参りしてました。どうも、勝さん絡みだった模様――沖田番が小耳に挿んだカンジでは、断食跡を探してたっぽい。
我々は、ここでのもう一つの野望であるお守り袋(¥500-)をGET。これは、両叶神社にお参りして、東で袋、西で勾玉をGETし、勾玉を袋に入れて完成すると云うお守りなのです。前々からHanakoとかOZとかで見て、これが欲しかったのです。
袋は2色あり、沖田番はピンク、私は水色をGET。さて、次は西叶神社だ!
と云うわけで、浦賀の渡しを使って、対岸へ。
小さい船(矢切の渡しと違って、フツーのエンジン搭載のもの)に乗るのですが、船着き場に着いたら、何か出港するところ? 駆け込みで飛び乗り、西岸へ。ひとり1回¥150-。対岸まで200mくらいなので、すぐ着きます。


でもって、船着き場からちょっと北上して、次は西叶神社。
東は明神山のお蔭でか、中々男性的な感じのする社だったのですが、西は若干女性的? 境内に銀杏の樹や桜の木があったりして、すこしばかり柔和なカンジが致します。
本殿にお参りして、こちらでは勾玉(¥500-)を戴く。選ばせて戴いて、それを東でGETした袋に納めます。私はPHSにつけましたよー。沖田番の京都土産、身延山の夢叶守と一緒につけます。ふふふふふ。祈念、野望達成!


お守りを完成させたら、次は愛宕山公園へ。ここには、中島三郎助さんの招魂碑があるのです。
階段を上がって、山頂へ。すこし苔生した階段に、散りはじめた桜の花弁が雪のように散って、非常に綺麗。桜は、それほど本数が多いわけではないのですが、狭い階段の上に、屋根を作るように枝が伸びていて、緑とのコントラストも含め、非常に美しい。
今回の散歩は、花見も兼ねていたのですが、出だしから中々の好感触です。
たらたらと階段を上がっていくと、まずは咸臨丸出港記念碑にあたる。っても、これは全然新しいですね、コンクリートにプレートがはめてあるようなカンジ。
さらっと流して、次は中島さんの招魂碑へ。
えーと、こっちは明治24年に、地元の有志によって建立されたものだとか(『東京幕末・明治さんぽ帖』(散達ムック)による)。ちなみにこれの揮毫(?)は釜さんなのだそうです――あれ、釜さんって、中島さんと仲良かったっけ? 中島さんって、釜さん若干馬鹿にしてなかったか?
……まァとにかく、招魂碑に礼。
でもって、その一角(与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑もあったような)がまァまァ桜がきれいだったので、さっき買った白い鯛焼きの残りと、カマンベールチーズで一息入れます。


で、次は鎌倉なのですが、京急使うと遠回り&地図で見ると、浦賀久里浜間は2kmくらいかな、ってとこだったので、歩いて久里浜まで出ることに。2kmなら余裕でしょ。
浦賀通り(多分)をてくてく西へ。バス通りなので、迷ってもバス停目印にすりゃあ着くでしょう、とか云いつつ歩く。
しかし、ほんの2kmほどしか違わないんですが、浦賀久里浜って空気が違う……浦賀は前に書いたようにやや海賊のアジト風、久里浜は湘南の住宅地ってカンジ。久里浜の方が開けてるっぽい、けど、浦賀の方が面白いよね。あの、田舎の街並みっぽいにも拘らず、妙な熱気のあるカンジとかが。中島さんの性格と、ちょっと似てるかも。っつーか、三浦一族の雰囲気にも似てるのか? そう云や、三浦一族も海軍持ってたもんなー。もしかしてこの辺は、三浦絡みの港だったりしたのかな?
途中、コンビニで沖田番が日焼け止め買ったりしながら、さくっとJR久里浜駅に到着。おお、13:15くらいだ。じゃあ、鎌倉には14時くらいだな。
電車に乗り、逗子で乗り換え。おお、途中の衣笠って、三浦大介さんの居城のあったとこっつーか、義澄の居城もあったはずだよね?
次は衣笠と佐原あたりなー、とか云いながら、14時ちょっと過ぎに鎌倉に到着。


まずは昼飯か? と思うも、白い鯛焼きが結構腹もちがよく、それならばと先に鶴岡八幡宮へ。
段葛をたらたらと歩きます。満開をちょっと過ぎたくらいの桜が両側で咲いていて、なかなかいいカンジ。って云うか人多いなーって思ってたら、そう云やぁこの日は春休み最後の日だったんじゃん。どおりで人出があるはずさ。本屋なんてやってると、曜日はともかく(週刊誌があるからね)、世間の休みとかに疎くなっていけません。
のたのたと歩き、山南役に桜の写メとかしながら、鶴岡の正面へ。
とりあえず、手と口を清め、奥へ進んでいくと、人だかりが――ああ、こないだ倒れた大銀杏ですね。
実くんがそこで暗殺されたって云う大銀杏は、根っ子のところは根っ子をそのまま、幹の方は何か丸太をどんと据えたようなカンジ、で、分けて置かれてました――うーん、何だか……どうなんだろう、これ、復活するのかな。復活しても、ちょっとな……
まァ、あの古い方の石段(銀杏の木のところの――あれがどうも、古い鎌倉からの石段っぽい)が残ってればいいような気もします。
大銀杏跡(?)を横目で見ながら、石段をのぼって本殿へ。
ここ暫く、いろいろ(ホントにイロイロ!)お世話になっております、と思いつつ、ご挨拶。
でもって、せっかくだし、とお守りを――いろいろありましたが、災厄消除の“刀守り”をGET。¥800-。


次は佐殿のお墓!
鶴岡を出て左手へ、道なりに行って、突き当りで左折、また道なりに行って、標識が出てたところで左に入る。桜の植わった細めの道をまっすぐ行くと、大蔵御所跡の碑のある小学校の先が、白旗神社と佐殿の御墓です。
街道をゆく』とか『週刊司馬遼太郎』とかで「淋しい」と書かれてる佐殿のお墓ですが――ま、あんなんでいんじゃない? 背後の山が小さいし、そんな壮麗なの建ててもねェ、って感じは致します。それに(後述しますが)政子や実くんのお墓も、今の基準で云えばかなりしょんぼりだし。あの辺に較べれば、佐殿のお墓、かなり立派にしてると思うけどなァ。
そう云えば、三浦一族は、ここで最期を迎えたのでした。義村の息子の泰村の時代ですね。一族郎党500人ばかりが、一斉に腹を切ったのだとか。
そんなこんなを思い浮かべながら、黙祷。
白旗神社(閉まってる)にもお参りして、さて、と外に出ると、ここは人力車のルートになってるのね、車を止めて、お客さんに説明してる車夫さんがいました。


次は大江広元のお墓!
この人は、実は毛利元就とかのご先祖様です――ちょっと後の子孫が、毛利庄に本領を得たため、のち毛利氏を名乗ったとか。
佐殿のお墓を出て左にちょっと行き、空地っぽいところの奥に、二列並んだ石段があります。広元のお墓は、左の石段。右の石段は、薩摩のいつぞやの藩主(島津家久?)の墓所に続いています。
広元のお墓の裏のあたりは、どうも子どもの遊び場になってるらしく、あちこちから「たすけて〜」「たすけて〜」と云う、緊迫感のない声が。……君ら、一体何の遊びをしてるんだ。
ともかくも、左の階段を上がり、墓碑のあるところへ。えーと、これ、建てられたの多分江戸時代だと思う――や、原型の石窟はむかしからあったと思うんだけど、お墓の形式がね。前に見た、会津の歴代藩主の墓にちょっと似てるんだもん。亀の背中に載せた事蹟の碑とかがね。
そうそう、お墓は二つ並んでまして、階段の正面が広元の墓、左にあるのが息子・季光の墓。
ところでこのお墓、佐殿のより高い位置にあるんですけど! 家臣なのに何で! と云うと、沖田番が「佐殿の墓所の守りのつもりだったんじゃねェですかねェ」と云う――まァ確かに、艮の方向かも知れませんが――そうなの?
ともかくお参りして、撤退。


漸く小腹が空いてきたので、若宮大路に戻り、先刻気になってた蕎麦屋? へ。鎌倉段葛こ寿々――後で知ったのですが、わらび餅で有名なお店らしい。
でも、とりあえず蕎麦! だったので、とろそば(だっけな)を戴く。……うん、美味しかった、蕎麦は歯ごたえがあるし、とろろもうまい、が、量がちょっと……もの足りなかったです……
もの足りない顔の沖田番に、有名らしいし、わらび餅は? とか訊くも、「甘いもんの気分じゃねェんで」とパス。……そうですか。
混んでるし、待ってる人も結構いるしで、早々に店を後に。
次は寿福寺


鶴岡の前まで戻り、ちょっと土産物屋を覗いて、西へ進む。
道なりに行って、JRの線路を越え、なおも進むと正面が寿福寺です。
このお寺、政子と実くんのお墓があるのもそうなんだけど、そもそもかなり古いお寺らしい――ってのは、こないだ読んだ中野孝次の『実朝考』に、実くんが寿福寺にお参りに行った的なことが書いてあったので。うん、随分古いんだね。
えーと、山門から奥の門までの間が、石畳が敷いてある緩やかな上り坂で、両側の木立の緑が美しく、中々良い風情。ちょこっと写真を撮って、お参りはせず(後ろの人が、写真撮りたがってる風だったので、慌ててスルーしちゃったのだ)、裏の墓所へ――って、墓域の入口封鎖されてるぞ。


「落石のため、墓所へは左へ――って書いてありますぜ」
「左か――あの道か?」


とか云いながら、さくさく進む。
途中、石段が左手にあり、うっかりそっちへ――これが大誤算って云うか。


「……ねェ」
「あ?」
「これ、どう考えてもハイキングコースじゃねェですかい?」
「……そう云やァ、それっぽい格好した連中と行きあうなァ」


ってことで、地元の人っぽい女性に道を訊くと、「ちょうどこの下くらいですよ」との答え。うおぉぉお!
多分この先は源氏山なんじゃないかと思うのですが、時刻は4時過ぎ、日没は由比ヶ浜で希望の沖田番に合わせるには、登り切る時間はない(源氏山の頂上には、佐殿の像があるらしいのですよ)。
滑る道をさくさく下りて、墓域に戻るも、これがまた。
どこにあるとか云う表示がない。谷中墓地より不親切だここ!
とにかく壁面の方にあるだろう、と、崖沿いにあっちを見、こっちを見していると、一番北寄りの崖の面に、お墓の表示が! ここか!
……しかし、実くんのも政子のも、広元の墓と変わんない、っつーか、こっちは補修が(あんまり)されてない分だけ、もっとしょんぼりと云うか。事蹟の碑もないし、門みたいな石の柵(広元の方にはあったのよ)もない。石窟の奥に、宝塔っぽい墓碑があるだけのシンプルなつくり。
ともかくも合掌。
ちなみに実くんの首塚は、秦野の方にあるとか云う噂――波多野氏のテリトリーですね。何でや。


段々暮れてきたので、先を急げ! 次は和田塚。
墓域から南方面、切りとおし(つーか、崖をくり抜いた短いトンネル)の道を抜け、JRの西側の道をずっと南へ下る。
途中、古本屋やコミュニティスペース的なところをチラ見して、なおも南下――してたら、道を間違えた! どうやら、細めの道を行かなきゃならなかったのに、大きな道なりに進んでしまったので、もっと西に出ちゃったっぽい。
とは云え、和田塚は江ノ電の駅の傍らしいし、線路には出た(……)ので、このままぐうっと東に戻ればいいや。と云う私に、じと目の沖田番。
いやいや、そんな遠くないぞ、とか云いながら、だらだら歩く。和田塚入口と云う標識のところで左折、線路を越えたところで、「ここじゃねェですかい」と沖田番。
ふと目を向けたすこし高い敷地の奥に、いくつかの石碑が建っている。
石段を上がって近づいてみると、確かにここが和田塚っぽい。義盛の墓もありますね。
ここで合掌。
三浦一族墓参の旅かよ(和田は、三浦の分家みたいなもんです)、とか思いつつ、立ち去る。


由比ヶ浜に来た時は、ちょうど夕日が西の山(?)の端にかかりかけた頃でした。
何でこの時間帯がいいのかと云うと、沖田番が以前見た夢の中で、実くんとここであった時間帯が日没寸前だったのだとか。逢う魔ヶ時じゃん、とか思いつつ、波打ち際へ。
海辺に来たら、貝殻拾いはお約束でしょう、とか云いながら、浜辺にしゃがみ込む。鎌倉の海は二枚貝メインなのですが、以前来た時にはツノ貝とか拾ったしね。巻貝もいっぱい拾えたしね。
とか云ってたら、今回もツノ貝とかいっぱい拾えました。流石に初回の時ほど大きいのはありませんでしたが、しかし、タコノマクラとか云うウニの一種? の半分になった殻とかも拾ったよ! 由比ヶ浜の海も、優しくて好きだ。日野の石田寺の榧の木と似てます。
大量に採ったところで、日没。
ところで沖田番、あの日が沈んだところって、多分藤沢あたりだぞ。伊豆半島じゃない。がまァ、夢と同じ日没だったそうな。うん。


明日も仕事だし、そろそろ撤収。とか云っても、帰りつくのが遅くなりそうなので、とりあえず晩御飯。
回る寿司を食らって、もう一度若宮大路北へ。
段葛、提灯に灯が入っていて、これはこれで美しい光景でした。鶴岡の手前まで行って、社に一礼、ののち、段葛を南下して、途中で職場と家に土産を買い、ちょっとお茶してから帰宅。
結局15km近く歩いたんじゃ? いいお散歩になりました〜。


† † † † †


ところで、ここ暫く立て続けに永井路子のエッセイ的な本を手に入れているのですが。
読んでて、この人の書くものに対する違和感の源がやっとわかりました――この人には、政治のことがよくわかってない! あと、鎌倉武士に肩入れするあまり、そりゃねェだろ的あれこれを、かれらに付与しまくってますね。
東武者が権力のピラミッドを作って保持したがる、とか書いてますが、確かに御山の天辺には登りたがるけど、それはあくまでも天辺に立つためであって、鎌倉幕府のピラミッドを形成したのは、佐殿の政治力に負うところが大きいんだぜ! だから、佐殿が死んだ後は、合議制にしてみたり政子を担ぎ出してみたりと紆余曲折があって、和田や三浦や畠山や梶原や、その辺の大きな氏族を滅ぼした後、割と政治力に優れていた北条義時が天辺に立ったりしたんだぜ、と思います。
適材適所を確実にやれるのが政治力で、それがあったから、佐殿には、アクの強い連中も従ってたんだよ。後々北条でもまとめられるようになったのは、幕府の傘下に入って、坂東武者たちからもアクが抜けてきたからであって、その証拠に義時じゃあ、佐殿の穴を埋められなかったじゃん、と思うんですけどね。
嫌われてるせいもあるけど、みんな、佐殿に対する評価低過ぎると思いますよ。佐殿がいなかったら、関東で武家が力を持つのは、あと半世紀は遅かったんじゃないかなァ。
あ、佐殿いなくても、平家は弱体化したとは思いますけどね。中流下流公家の一派になり下がってた可能性は高いと思いますけどね。


さてさて、この項終了。
次はルネサンス