神さまの左手 27

 コモ湖についた翌日から、レオナルドは精力的に湖畔を歩き回った。
 サライとしては、せっかくの保養地であるのだし、少々のんびりしたい気分があったのだが――滞在期間が限られている上に短いときているのだから、一分一秒たりとも無駄にはできない、とレオナルドは云うのだ。
 確かに、レオナルドの気持ちもわからぬではなかったが、しかし、コモ湖周辺の散策となると、ミラノ近郊を歩き回るよりも道が荒れていて、疲労の度合いが格段に違う。
 ほぼ手ぶらのレオナルドは構わないかも知れないが、細々とした荷物を背負わされるサライにしてみれば、大変な重労働なのだ。
「ちょっと一服させてよ、レオ」
 朝早くから歩きはじめて、そろそろ陽が中天にかかる頃合いになって、流石にサライはそう声を上げた。
 ミラノの周辺を歩き回る時よりは荷物も少ない――そもそも旅先なのだから当然だ――が、それでも、まだ十三の子どもが背負うには、少々重すぎる荷なのである。その上、木の根の張り出したような山道を、早足で歩く大人を追いかけての道中では、根を上げたくなるのも仕方のないところだった。
「何だ、早いな」
 などと、眉を寄せつつレオナルドは云うが――
 ――んなら、荷物ちょっと持ってくれよ!
 とは、思っても口が裂けても云えないサライである。
 俺って健気、などと思いつつ、サライは、水を入れた革袋を取り出した。
「だって、流石に疲れたし――何か腹も減ってこねぇ? もう昼だしさぁ」
「んむ……まぁ、確かに疲れたかもしれんな」
「だろ!?」
 サライは、勢い込んでそう云った。
「だから、さ、この辺でちょっと休憩しようぜ。ほら、厨房のおばちゃんが、昼飯にって持たしてくれたパニーニもあるしさ」
「そうだな……」
 レオナルドは、頭上の木々を透かして太陽の位置を見、影の長さを眺めやって、やがて頷いた。
「では、すこし休むとするか」
「やった!」
 サライは跳ね上がり、いそいそと昼食を用意した。
 手近な木の根の張り出したものに腰をおろし、パニーニを頬張り、水を飲む。ただの水が甘露と思えるのは、それだけ喉が渇いていたからであるのに違いない。
「それにしても、美しいな……」
 と、食事の手を止め、レオナルドが呟くのが聞こえた。
「何が?」
「コモの水面がだ。見ろ、サライ、この美しい瑠璃のいろを」
 云われて、サライは、木々の間からコモの湖面を透かし見た。
 確かに、美しい紺碧の水面が、枝々の間から見えている。風が、湖面にさざなみを作り出し、そのさざなみが、陽光を躍らせてきらきらと輝く。
 サライは、景色よりも何よりも、食い気が一番の育ちざかりではあったのだが――さすがに、この光景には目を奪われ、暫の間、食べる手を止めて、そのきらめきに見入っていた。
 汗ばんだ肌を、爽やかな風が撫でてゆく。そして、さやさやと木々の枝を揺らし、気持ちをも静めてゆく。
 自分がぽかんと口を開けていたことに気がついて、サライは慌ててパニーニを詰めこみ、もしゃもしゃもしゃと咀嚼した。が、あわて過ぎて喉につめ、胸を叩いて水で流しこむ。
「何をやっているのだ、サライ
 レオナルドは呆れたように云って、ようやっと、パニーニの残りに食いついた。
「……腹が減ってたんだよ」
 この風景に見惚れていたとは云いたくなくて、サライはもごもごとそう答えた。
 だが、口とは裏腹に、まなざしは、湖面に踊る光を追いかけている。
 なるほど、ここが美しいと評判になるはずだ。湖水の青と天穹の蒼、樹木の緑と城館の白――その、麗しい対比。
 その上、空気も涼やかで心地よく、保養地としては申し分ないとくれば、訪れる人間も多くなるに決まっている。
「――ふむ、結構来たようだな」
 食べ終えたレオナルドは、木々の向こうを透かし見て云った。
「これならば、陽が高いうちに滝の近くまで行けるかもしれんな」
 と云うのに、流石にサライは驚愕した。
「滝って、だってそれ、湖の北の端っこだとか云ってなかったか?」
 湖の奥の方、と云えば、そちらの方に違いない。
 確かに、結構な距離を歩いてきたのだから、もうひと頑張りすれば――つまりは、これまで歩いてきたのと同じくらいの距離を歩けば――、滝の近辺まで行くこともできるだろう。
 だが、サライたちは、朝早くから歩きだして、今太陽が中天にかかる時間にここにいるのである。これで、その滝までの距離がこれまでの道程とほぼ同じ、と云うことであれば、到底日暮れまでに行って帰ってくることなどできるまい、と思われるのだが。
 レオナルドにそう云ってやると、
「そんなはずはない、行けるはずだ!」
 と頑強に云うが――それこそそんなはずはない、天使の翼でも貰わない限りは、そうそう行って帰れる距離ではないはずだ。
「や、行けないとは云わねぇけど、帰ってはこれねぇだろ」
 そうなったなら、一体この見知らぬ土地で、どこを寝床にすればいいと云うのだろう。
 今はまだ夏の終わり、あるいは秋の初めであったから、野宿できないわけではないが――それにしても、夕食や翌日の朝食の調達も難しいような森の中で、どうやってもう一日を過ごすのか。
 第一、今歩いている場所からずっと北上したとしても、滝の間近まで行けるわけではない。滝があると云う場所に行きたいのならば、対岸へまわり込んでゆかねばならないはずだ。
 そう云ってやれば、レオナルドは渋々と頷いた。
「……仕方がないな、とりあえず、今日は適当なところまでで切り上げるとするか」
「そうだよ」
 サライはほっとして頷いた。
 対岸にまわり込むつもりであれば、確か宿泊先の近くから船も出ていたはずだったし――そのあたりは抜かりなく、別荘の管理人に訊いておいたのだ――、その方が、湖上の景色も眺められていいと思ったのだ。
 船に乗るとなれば、多少の金が必要となるが、何、レオナルドを満足させるのならば、多少の出費も許されるはずだ。
「ともかくも、出発するぞ」
 やや不本意げなレオナルドに促されて、サライは、大きな荷物をまた担ぎ上げ、山道を歩きはじめた。


† † † † †


ルネサンス話、続き。まだコモ湖
うおおぉぉお、いつになったらミラノに戻れるの……


しかし、ホントに先生の話は資料がない――っつーか、いつ頃何やってたかってのが、政治家とかじゃないから当然わからないわけですよ!
今の源平の方が、よっぽど行動に関して資料があるってどういうことさ! (源平はほ約800年前、先生は約500年前) まァ、公人じゃあないから、仕方がないんだけどね……
とりあえず、新しい手稿とかが見つからないと、今後資料が増えることもないだろうし――っつーか、アレだ、アトランティコ手稿のファクシミリ版出してくれないかなァ……あれ、実はちまちまとメモが残されてるっぽいんだよね。あと、やっぱり日本ではファクシミリ版の出てないレスター手稿(ビル・ゲイツの持ってるアレ)とか。
パリ手稿やマドリッド手稿、解剖手稿や鳥の飛翔に関する手稿なんかは見た(あ、トリヴルツィオ手稿もね)ので、あとはその辺なんだけどなァ。
あと、手稿のメモって、結構学者さんにとってとるに足りないものでも、私なんぞから見たら面白いものもあって(例の、サライに金貸した後の、ラテン語の書きこみとか/笑)、そう云うの見れたらいいのに、って思うんですけども。イタリア語も英語も不自由なので、難しいんだよなァ……ちぇ。


っつーか、そう云やァこの時期って、パニーニとかあったんだっけ? スパゲティはないはずだけど、パンそのものは紀元前のローマとかからあったわけだしなァ。
この時代のミラノ周辺って云うと、ポレンタとかだと思うんだけど、トウモロコシ粉じゃないものから作られた(←この当時、まだトウモロコシはヨーロッパには来てないはず)ポレンタよりは、重かろうが固かろうが、パン食べた方が美味しかったと思うんだけど。
そう云やァ、トマトとかもまだなかったはずだよね。ルネサンスの食卓って……今の人間には辛そうだよね……


この項、終了。
次は――下書きがほぼ上がった鎌倉の2話目と、ぶっつけ殴り書きの鬼の北海行、さて、どっちにしましょうか……