神さまの左手 28

 コモ湖に注ぐ滝を見る、と云う希望が果たせなかったので、レオナルドは翌日、今度は湖上を北上することに決めた。
 昨日は結局、東岸の途中までしか歩けないで終わってしまった。
 どうも、コモ湖は思っていたよりもはるかに大きな面積の湖であるようだ。館に戻って、使用人に訊ねてみると、滝のあるところまで行くには、ミラノまでの距離以上を歩かねばならないと云うのだ。
「船を使われたら宜しいのですよ」
 使用人はそう云って、窓の外の湖水に浮かぶ船を指差した。
「だが、自由に使える船などないだろう」
 スペッキオも、さすがに個人で船を持つほどの財力はあるまいし、レオナルドにしても、自分用に船を借りるほどの金もない。
渡し船があるのです。誰でもが自分用の船を持てるわけじゃあありませんからね」
 使用人は、片目をつぶって笑いかけてきた。
「ここから、ずっと北のベラーノまでを結ぶ船が出ているんです。それをお使いになれば、歩くよりずっと早く、滝のあるところまでお行きになれると思いますよ」
 詳しく聞いてみれば、船賃もそれほど高いわけでもない。
 とは云え、ベラーノから滝のあるところまでの距離も、そう近いと云うわけでもないようだったから、下手をすると、2日がかりの小旅行になるかも知れない――旅先で“小旅行”と云うのもおかしな話ではあったのだが。
「行くんだろ?」
 サライは、半ば諦め顔で云ってきた。
「あんた、そう云うとこ、絶対諦めねぇもんなぁ。……ま、いいけどさ、俺も見たくないわけじゃあないし」
 そう云いながら、もう既に、出かける準備をはじめている。
「ほら、さっさと行こうぜ。早くしないと、日が暮れちまう」
 などと云いながら、レオナルドの背をぐいぐいと押す。
 確かに、早くしないと陽が中天にかかってしまう。そうなれば、ベラーノに着くのが午後遅くになり、滝まで到るにはさらに夕方ぐらいの刻限になってしまうだろう。せっかくの船で北上すると云う案も、期待したほど時間の短縮にならぬとなれば、意味がないではないか。
「よし、行くぞ」
 頷いて、レオナルドは、コモの街中に近い船着き場へ向かった。
 さいわい、割合頻繁に便があるようで、着いた時にはすでに、出航待ちの船が繋がれていた。
 大きな帆を張った小さな船に、いそいそと乗り込む。少々風が出てきたのか、小さな船は、ゆらりゆらりと大きく揺れ、乗客の中には、青い顔をして船縁にしがみついているものもあった。
「南の風、ではないな?」
 どちらかと云えば、西風に近い。が、逆風の北風ではないので、さほど航行に影響はないのではないか。
 やがて、鐘が大きく打ち鳴らされ、出航を告げる大きな声が響いた。橋代わりの板が除かれ、舫い綱が解かれる。
 そうして船は、ゆっくりとコモの船着き場を離れていった。
 風のためか、結構な速度で、船は湖水の上を滑ってゆく。
「すげぇ! 速い! 速いよ、レオ!」
 初めて船に乗るサライは、船縁から身を乗り出すようにして、舳先の向こうを見つめている。
 レオナルドにしても、船に乗ったことはもちろんあったが、川船ではない、このような大きな帆を張った船は初めてだ。風を受けた帆がいっぱいに膨らむのを見上げ、自分の胸も好奇心でいっぱいになるのを感じる。
 あの帆の材料となる布は何だろう? 順風ではないにも拘らず、船はどうして前に進むことができるのだろう? そもそも、これだけの巨大な帆に風をいっぱいに受けて、船が転覆してしまわないのは何故だろう? 疑問はいくらでも湧いてくる。
 だが、船員を捉まえて訊いてみようにも、かれらは皆忙しげに甲板の上を行き来して、とても呼び止められる雰囲気ではない。
 仕方なく、レオナルドは、舳先ちかくで前方を見つめるサライのところへ寄っていった。
「レオ! ほら、もう北の岸が見えるぜ!」
 少年は、目を輝かせて水の向こうを指差した。
「本当だ!」
 確かに、向こうの方に、岸辺の緑が見えている。
 だが、流石にまだ、ベラーノまで来たわけではないだろう。出航してから、陽はどれほども動いてはいないのだ。
 そう思って後ろを振り返ると、コモの街は、意外なほど小さくなっている。なるほど、確かにこれは速い。馬車などとは較べものにならぬほどだ。
 北の岸壁はどんどん近づいてくる、と思ったところで、船はゆっくりと進路を変え、舳先を東へと向けた。
 やがて、行く手に小さく街並みのようなものが見えてくる。それは徐々に大きくなり、教会の尖塔までがはっきりと見えるようになってきた。
「ベラーノだ!」
 誰かの叫ぶ嬉しげな声が聞こえた。
 あれがベラーノなのか――では、ここからさらに北、アルプスの峰々の方へ向って歩いてゆけば、その先に目指す滝があると云うことか。
 頭上で、するすると帆が下ろされてゆく。それを、船員たちが手早く畳み、くるくると紐をかけて固定する。
 船は速度を落としながら、ゆっくりとベラーノの船着き場に到着した。
「着いた着いた!」
 サライは嬉しそうに云って、他の乗客たちをかわしながら桟橋へ下りたち、こちらへ大きく手を振ってきた。
「レオ! 早く! 陽が暮れちまわないうちに、行っちまおうぜ!!」
 どこかはしゃいだような少年の姿に、レオナルドは微苦笑しながら頷いた。
 さて、ここからは徒歩での道程だ。
 荷物を担ぎ、北へ向かう街道に足を踏み入れる。ミラノ‐コモ間と違って、このあたりは鄙の風情、と云うか、はっきり田舎だと云ってよかっただろう。行きかう人もまばらで、荷車もほとんど通らない。ごく稀に、畑へ向かうと思しき牛を牽いた農夫に行きあうくらいが関の山だ。
 二人は、黙々と歩き続け、正午の鐘が鳴ったあたりで一服したほかは、とにかく歩きに歩きとおした。
 そして、陽がかなり傾いた頃――
 道がすこし上り坂になってきた、と思った頃合いに。
 激しい水音が遠くから聞こえてきた。
 ――着いたか?
 だが、見える範囲には、滝どころか川辺すらも見えはしない。
「水音がするんだから、この辺にあるんだろ」
 サライは云って、音の聞こえてくると思われる森の奥へ、どんどんと踏みこんでいった。
「あ、おい、サライ!」
 レオナルドも、慌ててあとを追う。水の音は、どんどん大きくなってくる。
 どれほど歩いた頃だろうか。
「――すげぇ……!」
 少年が叫んで、足を止めた。
 レオナルドはそのそばに歩み寄り、少年のまなざしの先をふと見上げた。
「――おお……!!」
 木々の緑が切れたその先に、大きな滝があった。
 切り立つ岩肌を幅広な流れが滑り落ち、その水が砕けて飛沫となる。霧か靄がかかったような景色の中に、ちらちらと七色の光が踊る――手の届きそうな近くに現れる、小さな虹の橋。
 滑り落ちる水は、滝壺に落ち込むや、白い泡を立てて跳ね上がり、また落ちる。貴婦人の襟元を飾るレースのような、あるいは真珠の連なりのような、美しくも儚い白い泡沫。
 その儚い白は、まわりの深い緑、その上を覆う天穹の青と相まって、いっそう鮮烈にまなざしの中に焼きついた。
 巨大な落水の壁面に、レオナルドは、大いなる匠――人々が“神”と呼ぶであろう――の業を思い、ただ呆然と立ち尽くす。
 ――……この神的なるものを、どうにかして表せぬものか。
 やがて、レオナルドの胸中にわき上がってきたのは、そのような思いだった。
 自然と云う“神”のつくり出した雄大にして繊細な、この“美”を、いつか己の手で描き出したい。この世のすべての仕組み、謎を解き明かし、目に見えるかたちで人々に示したい――己自身を、“神”の小さな似姿として。
 それは、過ぎたる望みであったかも知れぬ。
 だが、この世のすべてを詳らかに描きたいと云う欲求は、この時、レオナルドの胸にくっきりと刻みこまれたのだった。
「レオ、レオ、これすげぇよ!!」
 はしゃいだように云うサライに笑み返してやりながら。
 レオナルドは、不遜とも云える野心を、胸の内に抱えこんだ。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
まだコモ湖、っつーか滝の話。←ホントにあるの?
若干、ぐだぐだになったような気も……


えーと、滝を見たらとっとと帰らないと、マジで“馬”がやヴぁいです、先生。
っつーか、“馬”(の原型)完成させないと、「最後の晩餐」に行きつけないんですけど!
いやー、やヴぁいやヴぁいですよ……さっさと帰れー!
あ、船のスピードは、もちろんそんなに早いわけはないのですが。基本帆船なので、実は開陽とか蟠龍とかより、ちょこっと遅いくらいかなーとか思ってます。や、向こうは外海だし、マストの本数とか帆の数とかも違いますがね。でもまァ、在来線と特急くらいの違いだと思う――のぞみとかとじゃあないだろう、多分。


それはともかく、密林さんに出てたので、アウレリオ・アメンドラの写真集『ピエタ』をGet致しました――っても、まだ手許に届いてませんが。
昔、古本市で¥5,000-で出てた時に買っときゃあよかったんだけど、迷って翌日行ったら、入れ替え日でもう撤収されてたんだよね……(泣)
まァ、今回は比較的安かった(だって、割と痛み有で¥23,000-とかついてるし!)ので、まァまァ勘弁してやろう(←何を!?)って気分です。
いいんだ、ロンダニーニのピエタが、アウレリオ・アメンドラの写真で見れるんなら。↑この人、凄い写真が美しい、って云うか、凄いみけらにょろ好きなんだと思うんです――だって、この人の写真集って、『ピエタ』の他に『サン・ピエトロ』『メディチ礼拝堂』で、どれもみけ関連なんだもん。でもって、『メディチ礼拝堂』の聖母子像が美しかったので、『ピエタ』も期待大なんだもん。版元岩波だから、品切れっぱなしにされてますが……っつーか、これが先生のだったら、結構版が重ねられてたのかなァ……みけ、ちょっと人気ないからね、先生に較べるとね。
あ、もちろん、美術出版社の『世界の巨匠』シリーズの写真もいいんですけども。あれは、出版年が昔だから、印刷がちょっとね……でも、みけに関しては重宝してます、素描とか。
タッシェンのは、先生のは買った(でかい方)けど、みけのは買ってません――みけの本の方が既に場所とってるからな! それに高いし!


この項、終了。
次は鬼の北海行、宮古湾海戦への道?