神さまの左手 29

 コモからミラノへ帰りついたのは、もう9月も末になってからだった。
 もう“馬”を作りはじめなければ、11月の末に迫ったお披露目に間に合わなくなる。
「本当に間に合うのですか、マエストロ!」
 イル・モーロの使いは、そう云って急かしてきた――おそらくは、留守中にも、幾度も訪ねてきたのに違いない――が、レオナルドは鷹揚に頷いてみせた。
「大丈夫だ、もうかたちは頭の中に出来ている。――誰も作ったことのない騎馬像をお目にかけますと、イル・モーロにはお伝えあれ」
 レオナルドの言葉に、使者は不安そうな面持ちで頷いてきたが――ともかくも、そうお伝え致しますと云って帰っていった。
「本当に大丈夫なのかよ、レオ?」
 サライも、やや不安げな顔でそう云ってくる。
 だが、レオナルドとて、今の自分の立場がわからぬほど愚かではないのだ。是が非でも“馬”を仕上げねば、イル・モーロの宮廷に自分の居場所がなくなってしまう。そうなれば、今後、どこの宮廷に赴こうとも、身を置く場所が与えられることはなくなってしまうのだ。まさしくこれは、己の身を賭けた勝負なのだった。
 ともかくも、レオナルドは、騎馬像の基部――すなわち、馬の身体から制作をはじめた。
 折り曲げた両のたくましい後ろ足、張りつめた筋肉とそこに浮き上がる血管。尾を乱し、腹から胸を大きく反らして踊り上がるように身体を伸ばす。その、一瞬の緊張を、粘土を叩きつけるようにかたちづくり、目に見えるものとなす。
 思いきって地面に近づけた馬の臀部からは、乱れた尾の毛が大きく広がり、三本目の脚とでも云うべき支点を作りだす。
 後ろ足と尾の三点で支えられた上体を大きく反らす。そこから、蹴り上げるかのような前足の蹄と、人で云うなら肩の部位の、筋の浮いた肉を造り上げていく。目前の敵に今にも躍りかからんとするかのよう。
 鬣は激しく風になびかせ、首のうねるような姿を動的なものに変える。太く浮き上がった頚部の筋、耳はぴんと立て、見えざる敵に意識を傾けているかのように。口は大きく開けられ、嘶きをそこから発するかのよう。
 大まかに騎馬のかたちを作った後は、そこに“鞍”を置き、騎手をその上に跨らせる。
 剣を振りかざした、甲冑の騎士。スフォルッツァの栄光を示す紋章をつけ、精悍な面差しを敵のあるだろう方向へ向けている。
 騎士の顔は、イル・モーロに似ていると云うよりも――あるいはガレアッツォに似ていると云うよりも――、むしろかつての師・ヴェロッキオの作ったコッレオーニ騎馬像に似ていたかも知れない。それはそうだろう、レオナルド自身は、スフォルッツァの名を得た傭兵隊長の顔を知りはしなかったのだから――とは云え、ヴェロッキオ師の仕事を手伝ったことが、こんなにも歳月の経った今も、己の裡に息づいているということに、微妙な感興の念を覚えたのは確かなことだった。
 ヴェロッキオ師は、確かに素晴らしい彫刻家であった。その優れた観察眼と、精緻な造形力が作り上げた彫刻は、“イル・マニフィコ”ロレンツォ・デ・メディチから高い評価を得るに相応しいものだった。コッレオーニ騎馬像しかり、ダヴィデ像しかり――立体を作り上げる造形芸術の匠の中で、しかもかの美の都フィレンツェにおいて、ヴェロッキオ師は、確かに突出した技の持ち主であったのだ。レオナルドの腕前など、師の彫塑に関する技術力の前では、児戯にも等しいものでしかなかっただろう。
 だが、見るがいい。そのレオナルドが、今まさに、師を越えんとしている。彫塑としてはいかにも拙さの残る、だが、圧倒的な臨場感を備えたこの騎馬像によって。
「出来たぞ!」
 騎手の首を作り上げ、レオナルドは歓喜のあまりに叫びを上げた。
 正直に云えば、その像はそう写実的と云うわけではないものだった。
 これがもしもヴェロッキオ師の手になるものであったなら、師はもっと細部までを“本物”に似せて仕上げただろう。叫ぶ騎手の首筋に浮かぶ血管、剣をかざす腕の筋、後ろ足で立ち上がる馬の臀部の筋肉の緊張までを。
 だが、レオナルドは、敢えてそのあたりを簡単な表現に留め置いたのだった。
 かれとても、自身の彫塑の力が師に及ばないことは自覚している。そうであれば、無駄に技巧に走るよりも、像のこの大胆な姿勢の力によって、見るものを圧倒しようと企てたのだった。
 出来栄えを見せようと、サライを工房に呼びつける。
「……すげぇ」
 少年は、騎馬像を一目見るなり、感歎の声をこぼした。
「すげぇ、すげぇな――ほんとに後ろ足で立ち上がってる……!」
 云いながら、サライはぐるりぐるりと幾度も像のまわりを廻っては、巨大な姿を眺め上げる。
 やがて、
「あんた、ほんとにやったんだな、レオ! 間にあわねぇんじゃねぇかって、はらはらしてたけど……」
「あたり前だ、私を誰だと思っている!」
 やや憤然として、レオナルドは云ってやった。
 すると、反論するかと思いきや、少年は素直に頷いてきた。
「うん。流石は天才だ。やっぱ、あんたはすげぇよ、レオ!」
 あまりにも素直なその言葉に、レオナルドの方が面映ゆくなる。
「ん……まぁ、そう云うことだな」
 すこしばかり熱くなってくる頬を感じながら、レオナルドはもう一度、騎馬像を見上げ、誇らしい気持ちを噛みしめた。



 この騎馬像は、そののち、スフォルツェコの内庭に移され、11月30日、ドイツ皇帝マクシミリアンと、ビアンカ・マリア・スフォルッツァの結婚式の折に、披露されることとなった。
 人々の称賛の声は引きもきらず、レオナルドに非常な満足を抱かせたのだった。


† † † † †


ルネサンス話、続き。ようやくミラノ帰還。
って云うか、もうじき30章なんですが――実はこの話、もともと32章でendのはずだったんですよね……手許のメモでは、“馬”のお披露目は12章目の予定になってます――倍以上の長さになってますね……ははははは。『最後の晩餐』描き上がるまでだと、70章over、か? 怖い怖い〜。


えーと、アウレリオ・アメンドラの『ピエタ』は、やっぱりちょっと変わった撮り方でした。うーん、何だろう、先に現物を見ていたせいかな……いや、美しいんだけど、うん、うーん……美術出版社の『世界の巨匠』のやつの方が好きかも。ちょっとね。でもまァ、買ったことを後悔したりはしませんが。
っつーか、この本、造本的にも美しいんだよね! 函(と書きたい)の口の部分の天地が丸く作ってあったりとか、非常に丁寧。まァ、再版されないはずさァ。これ作るの、えらい金かかりそうだもん。
しかし、流石に『サン・ピエトロ』は買わないと思う――ミケの画集を買わないのと同じ理由で。だって、みけらにょろ、彫刻家だからさ! 建築は――『建築家ミケランジェロ』でいいや。うん。


そうそう、何故かただ今『御堂関白記』を読んでおります――ええ、藤原道長の日記ですね。はい、きっぱりはっきり船戸明里さんの『マンガ日本史 藤原道長』のせいです。
だって、船戸さんの道長、あんまりにもへなちょこなんだもん! 伊周に出世競争で追い抜かれてぐすぐすしてたりとか(←この時道長28歳)、「烏帽子の中に羽虫が入って厭な気分になればいいのに!」とか、へなちょこ過ぎます!
でもって、角川ソフィア文庫の『御堂関白記』を読みはじめたわけですが――これが! 繁田信一氏の解説がまた良いと云うか何と云うか。
っつーか、どうも↑読んでて、何かこう、道長のイメージが……漢文がでたらめだったり、馬が好きだったり、「こんな日記なんか破いちゃった方がいい」とか冒頭に書いてみたり(平安時代の公家の日記って云うのは、子孫に有職故実のあれこれを伝えるためのものなのです)――佐殿と先生を足して2で割って、末っ子気質を加味すると道長? それって要するに……いやいや。
とりあえず、講談社学術文庫の『御堂関白記』現代語訳版(上中下)を読んでみようと思ってます。それが終わったら、『大鏡』とか『栄花物語』とかだな……


この項、何とか終了(短い……)。どうも“馬”は書き辛かった……
次は鬼の北海行、宮古湾に入る、か?