神さまの左手 31

 ともかくレオナルドは、絵の構図を考え出すことにした。
 磔刑図は、正直もう捻りようがないので措くとしても、最後の晩餐図に関しては、レオナルドも思うところがなくはなかったのだ。
 レオナルドのかつての居所、フィレンツェには、ギルランダイオやカスターニョなどの最後の晩餐図があったのだが――それらの構図は、いつも決まって長い食卓の向こう側に、ユダを除く十二人――もちろん、キリストを含んでいる――が並び、こちら側にユダただ一人が坐っていると云うもので、しかも、キリストとヨハネ以外の十一人の使徒たちは、ただ茫洋とした表情で坐っているように見えるのだ。
 もちろん、個々の表情をよく見れば、驚愕や哀切や疑惑などの念がそこに浮かんでいるのが見えはするのだが――しかし、一歩遠ざかって見てみれば、それらはけばけばしい背景の中に埋没してしまって、誰が誰であるかすら判然としなくなってしまうのだ。
 それを防ぐためには、人物をある程度大きく描写することと、感情を表す身振り仕種を、若干大袈裟にしてやること、が肝要であると思われた――ちょうど、舞台の上の役者たちが、日常生活の中では見出せぬほど、派手で大きな身振りによって、演じる人物の“感情”を観客に知らしめるように。
 だが、実際の舞台もそうであるように、その人物の感情を表す身振り仕種は、大仰に過ぎず、下品にもならず、なおかつ十二分に観客――この場合は、絵画の鑑賞者――に訴えかけるものでなくてはならぬ。
 ――これは、なかなかに難問だな……
 とは云え、幾人もの、実力の異なる役者を指揮して作り上げる舞台とは違い、絵画は、すべてを己ひとりで構成し、また己ひとりで人物の表情を調整することができる。仕種の匙加減さえ間違わなければ、上げ得る効果は、舞台のそれよりはるかに大きい、と思われてならなかった。
 いや、無論、ばらばらの人間ひとりひとりがその力を結集し、同じ方向を向き得た時のすばらしさは格別なものがあるのだが――それはむしろ、そのあまりの困難さゆえの歓喜とも云うべきもので。
 独りで作り上げるからこその完成度と云うものも、また確かに存在するのだと、レオナルドは思わずにはいられなかった。
 ともかくも、先人の描いた最後の晩餐図の欠点を、とことんまで洗い出してみねばなるまい。
 そう考えて、とりあえずレオナルドの頭に浮かんだのは、ギルランダイオなどの晩餐図における、背景のごたごたとした装飾であった。
 絢爛たる室内の装飾を描くのは、建築をも手掛ける“画家”として、己の力量を誇示することでもあっただろうが――しかしながら、一枚の絵画として、その主題の何たるかを考えてみるならば、およそ背景などと云うものは“添えもの”に過ぎぬ、と云うことなどわかるだろうに。
 ――そう云えば、サンドロの受胎告知図も、けばけばしい室礼の部屋を舞台にしていたな。
 かつて見たボッティチェルリの受胎告知図を思い出して、レオナルドはわずかに苦笑した。
 同時期にヴェロッキオ師の工房に通ってきていたボッティチェルリは、美しい婦人を配した『春』や『美神の誕生』などでフィレンツェの一時代を築き上げた画家であったが――レオナルドは正直なところ、この先輩画家を、認めてはいたものの、尊敬してはいなかった。かれの、絵画における背景=風景描写には、写実性に欠けるところがあったからだ。
 レオナルドは、自身の描く晩餐図の背景を、ごてごてとした、無意味な装飾に埋没させてしまうつもりなどありはしなかった。そうとも、そんな愚かしいことをして、肝腎の絵の主題から人びとの目を逸らしてしまうなど、まったく本末転倒もいいところではないか。
 もちろん、晩餐図の舞台がどこであるのかを示すあれこれの象徴――特定の土地と云うよりは、あくまでも“聖書内”的な――までも描かないわけではない。ただ、極力、晩餐の心理劇に視線を集めるために、無駄な装飾は省いてしまう、と云うのが、まずもってレオナルドの目標であった。
 もうひとつ、ギルランダイオらの晩餐図で不満であったのは、ユダ以外の十一人の使徒たちとキリストが、テーブルの向こうで均等に・規則的に居並んでいて、“裏切り者”のユダのみが、こちら側に孤立して坐している、その構図そのものであった。
 表情よりも何よりも、この“均等に”並んでいるという構図こそが、キリストを使徒たちのうちに埋没せしめ、逆にユダひとりを“殉教者のごとくに”浮かび上がらせることにもなっているのだと、レオナルドはそう確信していたのだ。
 それ故に、そう、劇的にキリストを浮かび上がらせるためには、今までとはまったく異なる構図が必要だった。
 と云って、もちろんレオナルドのことであるから、天使や聖人などにつけられる後光などによって、キリストと使徒たちを隔てよう、などとは思ってもみなかったのだが。
 後光はキリストばかりではなく、使徒たちにも付与される。そんなもので、“人の子”であったはずのキリストを際立たせようとは、レオナルドには思いもしないことだったのだ。
 レオナルドの描きたいのは、そのような奇跡と奇跡の戯れのような絵ではない。人と人とのぶつかり合いの中から生まれてくる一瞬の光輝、人が刹那“神”になる、そのほんのかすかな軌跡、それこそが、レオナルドの描くべき主題だった。
 聖書の説くような、人の似姿たる“神”など、レオナルドの信じる“神”ではない。自然の大いなる転変と生成、流転する世界を秩序だてる何か――それこそが、レオナルドにとっての“神”であった。
 その“神”の子であるキリストが、どのような面持ちで最後の晩餐の場に臨んだのか――その姿は未だはっきりと浮かび上がってはこなかったのだが、しかし、その心のうちを、何とはなしに理解できる、そんな気がしていたのだった。
 それは、云ってみれば“絶対的な孤独”とでも云うべきものであっただろう。愛しく思っていた弟子たちも、自分を指示してくれるものたちも、竟に自分を理解することはないのだと云う、透徹した孤独――
 それは、あるいはレオナルド自身の孤独とも通暁するものであったかも知れぬ。
 誰ひとりとして、己の心にあるのと同じものをわかちあうことはできぬのだと云う、絶対的な孤独。
 だが――
 ――私には、サライがいる。
 二十八も年の離れたあの子どもが、不思議なほどにぴったりと、レオナルドの考えに寄り添っている。
 その意味において、自分はまったく孤独ではないのだ。たとえ、それ以外の人びとの間にある時に、越え難い意識の隔たりを感じるとしても。
 ――しかし、ともかくも、これは使えそうだな。
 この、絶対的な孤独の中にあるキリスト、と云うそのかたちは。
 レオナルドはほくほくとして、手帖の片隅にその言葉を書きつけた。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
「最後の晩餐」構図とか。


うーん、何かこう、観阿弥にハマっていろいろ読んで(っても、普通の能の本は読んでないんですが/苦笑)て思ったことなんですけども……
先生の「最後の晩餐」のあの構図って、多分、先生が舞台のプロデュースとかしてたからこそ出てきた発想だと思います。
あの構図を“舞台のよう”とか書いてる研究書がありましたが、多分まったくそのとおりなんだろうなァ。舞台の上だから、あのオーヴァーアクションなんだろうなァ、と。
とは云え、やり過ぎるとくどいのは、ボッティチェルリの「受胎告知」で重々承知だったと思うので、それでああ云う、オーヴァーなんだけども抑え気味と云う、古典的な最後の晩餐図になったんだと思います。
って、サンドロとかって、舞台の演出しなかったのかなァ?
とりあえず、先生と観阿弥は、おんなじようにスペクタクル大好きー! だと思いますよ。


ところで、『戦国鍋TV』のDVD(壱の方ですね)を、上司から借りて見ていたのですが。
と、とりあえずNOBUママ……! ヒゲが、っつーかこう、うん、ステキ、NOBUママ♥ しかし、こないだ箱根(ちょっと温泉に……帰りは台風直撃でしたが/汗)で生で見た時は、ママは信長でなく、DATEママ+チーママ・小十郎でしたが……
とりあえず、小手森城撫で切りの話だったので、いろいろ痛々しくて悶絶してました……後日、赤ドレスのヒゲが小十郎と聞いて、さらに悶絶しましたけどね!
面白いけど、いろいろイタいわ……特に伊達……
あと、music tonight、七本槍より天正遣欧少年使節団の方が曲が憶えやすかった……


この項、終了。サライ出てこない上に、会話もなし……(汗)
次は、何と久々の阿呆話(予定)で〜。