芸術と芸能の狭間。

……って云うか、世阿弥が馬鹿、って話って云うか。


や、最近観阿弥に興味がある(メディアワークス文庫の永田ガラの三部作のせい)のですが。
それで能の本とか読んでると、まァ大体、世阿弥は神! みたいなノリなんですよね。
確かに、『風姿花伝』とか『申楽談儀』とか書いた世阿弥は、研究者として優れてたんだろうさ。
でもちょっと待って、優れた研究書を残した世阿弥ってのは、果たして優れた申楽者だったのか?


と云う疑問を覚えるのは、実は世阿弥の観客に対する態度と云うか何と云うか、が少々どうよと思われてならないからです。
ちょっとどの本にあったのか忘れましたが(←憶えとけ)、世阿弥が、“都で支持されなくなったら鄙を回ってその愛顧を力に再起すればよい、と云うが、鄙の観客は都のそれほど厳しい目を持ってはいないから、やっぱり都で活動するべきだ”とか書いてるのですが。
何それ、創作、っつーか表現者として、そう云う態度ありなんだ! とか思って苛ッと致しました。
っつーか、アレだろ、表現するって、一部の“目の肥えた”観客だけを相手にすることじゃないだろ!!
一流の表現者ってのは、モーツァルトにしてもベートーベンにしてもバッハにしても、あるいはみけらにょろにしても先生にしても、訳知り顔のディレッタントから、芸術なんか知りもしねェ庶民まで、触れたものの心を揺り動かすものなんだろ!!
っつーか、そもそも“理想の表現”ってのは、如何にして己の持つイメージを観客に伝えるか、その伝えることのできるパーセンテージが大きいか、にかかってるわけで、それを様式とか何とかでがちがちにしちまう段階で、一流の表現者の枠からは外れるんじゃね? って思います。


何かこう、世阿弥の厭なところって、そう云う観客を選ぶ傲慢さと、そのくせ“自分は控えめに振舞ってます”的な取り澄ました感じとの混淆が透けて見えるところなんだよね。“私にはわかってるよ、君らはどうか知らないけどね”的な――うぜぇぇェェェ!!!!! って叫びたくなるようなカンジ。
っつーか、絶対世阿弥って、義満の寵愛受けたことで調子こいてたと思う。本人“私は控えめだったよ”とか云ってるけど、自分でそう云う奴に、控えめだったのいるか!!! ってのありますよね。っつーか、控えめなら、そもそも“寵愛受けた”とか云わんわ!!!
まァ、人間だから自慢したくなるところはあると思うんですが、それにしても、“万事控えめにしていたので、そう云う気遣いには長けていると云われたものだった”とかって、云われたのは半ば厭味じゃないのか? その“気遣い”が見え見えだったから、結構(贔屓にしてくれた公家・武家以外からは)嫌われたんじゃないかと思うんですけども。


大体、世阿弥って、観阿弥の没あたり(二十歳前後)、親父と別行動だったんじゃないんだろうか。
いやまァ、別行動自体は一向アレなんだけど、ただ、親父は(駿河浅間神社の法楽能を演じ終えて後、そこで没したように)地方巡業に未だ力を注いでいたけれど、息子の方は京に居続けて、地方の古くからの芸の庭を回ったりはしなかったんじゃないか、と思わせるところはあります。
そう云う都会っ子が、いきなり地方巡業もしてた一座の大夫になったって、正直、まともに地方なんか回んなかったんだろうな、と思うわけですよ。
だって、京には、“目の肥えた”観客がいるんだし、そこで自分は基盤も持ってるし、ってなると、地方回るのなんか無駄無駄、って考えるよね、とは思います。
ってことはさ――もしかして、音阿弥さんの父親であるところの四郎(すなわち三郎元清こと世阿弥の弟)とかが、観阿弥と一緒にドサ回りしてたのかな? だとすると、もしかしたら、観阿弥の“正統”な後継者ってのは、四郎の息子である音阿弥さんの方だったのかも知れませんねェ――まァ、観阿弥の直後の“観世大夫”ってのは、確かに世阿弥だったんだろうけども。


うん、夜の闇の彼方のアヤしい世阿弥評を聞いてみると、どうもパパよりも理屈っぽく、ナルシーで(や、だって美貌だったってあちこちに書いてあるわけだし)、“物真似”(←今の感覚の“ものまね”ではなく、ものの本質を真似る、と云う意味での“物真似”)もパパほどではなかったらしい。
っつーか、パパの方は、それこそアレだ、縁側でぼんやりお茶飲んでる(って、一般に喫茶の習慣ができたのは、室町後期くらいだったはず……)時に、いきなり村娘とかになっちゃうんだよ、イメージの中で。そうして、独りで鳥と(村娘として)戯れてると、傍にいても、息子とかは置いてけぼりなわけですよ。
何かそう云う――役のエッセンスとかを抽出して、ちょうど歌舞伎の女形が実物=リアル女よりも“リアルに女”であるように、リアルに“何か”になってたんじゃないのかなァ、と思います。で、息子は置いてけぼり、と。
義満が藤若=世阿弥に対して「ちごはこまたをかかうと思ふども、ここはかなうまじ」と云ったと云うのは、つまりは小手先でやったって観阿弥の“なりきる”技には敵うまい、って云いたかったってことで、要するに世阿弥のは“なりきる”ではなく“演じる”だと。
何かを“演じる”のと、何かに“なりきる”では、やっぱ“演じる”の方が違和感あるんじゃないかと思うんですよね。そこらへんで世阿弥は父を越えられず(マヤと亜弓さん的な)、それで理論化の方向に走ったんじゃないかと。


よく、観阿弥は、息子が義満の寵愛を得たのを足がかりにして、京での活動の足がかりにした野心家、とか書かれることが多いのですが。
そう云う野心って、意外になかったんじゃないのかな。理論とか何とかひねくることも考えないほど、観阿弥って芸事ばっか考えてたんじゃないかと思う――ただ野心家だったなら、犬王道阿弥(近江申楽の名人)が、その命日にいっつも供養してた、とか云う話は残んないと思うんですよね。
でもって、世阿弥が云われるほどすごい名人だったら、例え義満の寵愛をかさにきてた部分があったにせよ、義教・義政両将軍だって、まったく無視or出禁にしたりはしなかったと思うんですが。
そこら辺は、音阿弥さんがいかに素晴らしい申楽者であったにせよ、割り込む余地がまったくなかったわけではないと思うので、佐渡流罪とかって、よっぽどによっぽどのことがあったんだろうなァ(←この辺、観阿弥が楠正成の親族だったので、それが将軍家の不興を買ったんだ、と云う説がありますが――それなら、同じ血筋の音阿弥が優遇されたのはおかしいでしょう)。
ま、それはやっぱり、世阿弥の身の処し方が拙かった、ってことに尽きちゃうんだと思うんですけどね。


うん、世阿弥に対してあたりが厳しいのはわかってる。だって世阿弥嫌いなんだ。
って云うか、山背大兄王とか頼家とか秀宗とかフランチ=メルツィとかの、融通の利かない生真面目さ一辺倒な感じと、それが嵩じての傲慢さ、が感じられて厭なんだ。あと、やたらと貴族趣味に傾倒した、つんと澄ました風なカンジとか(←まァ、こっちは頼家は外れるけどさ)がね。
↑この系統って、鉄ちゃんも同じなんだけど、この辺の轍は踏んでほしくないなァ。まァ、大丈夫だと思いたい、が……


とりあえず、11日に、新宿御苑でやる「森の薪能」を見にいってきます。能の演目は「紅葉狩」――音阿弥さんの息子(七男?)小次郎信光の作だそうで。
シテが平惟茂、って、何か源平合戦期のひとっぽいので、わくわくです。シテは確か宝生のひとで、観世流は監修してたような。
同じころに、夜の闇の彼方で音阿弥さんの猿楽能も見れるようなので、ちょっと見較べてみたいなァと。……ま、夜の闇の彼方のことを、起きてどれだけ憶えてられるかにかかってるんですが。
音阿弥さんの舞は、傭兵上がりのゴリ(仮名)が感動するくらい素晴らしいそうなので、ちょっとかなり愉しみです――憶えてられれば、ねェ……


† † † † †


さて、待ってました、『聖武天皇 責めはわれ一人にあり』(森本公誠 講談社)!
著者は京大卒で、東大寺の元別当、現在は長老のひとりで、イスラム社会経済史が専門(!)のお坊さんです。イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』の翻訳とかされてる方。
とりあえず半分近くまで読みましたが、瀧浪貞子(『帝王聖武講談社選書メチエ)や中西進(『聖武天皇 巨大な夢を生きる』PHP新書)、遠山美都男(『彷徨の王権 聖武天皇角川選書)あたりのあれこれをすっきりまとめ上げたカンジで、面白いです。
やっぱ、東大寺総合文化センター総長(現職)とかだと、見られる資料も多そうだし、イスラム史をやってて、なおかつ華厳宗の僧侶、ってとこも、普通の古代史学者と視点がちがってくる要因なんじゃないでしょうか。
ともかく、長屋王の一件とかも、すとんと腑に落ちる解説で良いです。うふふ。


聖徳太子は、上原和氏の『斑鳩の白い道のうえに』(講談社学術文庫)が面白くて良かった。
っつーか、上原氏も、西洋美術史(ギリシア・ローマ)とかやってた上で、敢えて聖徳太子に戻ってきてて、やはりその広い視野から見た太子像って云うのが、他の古代史家の論と違ってるのが面白かったです。
聖徳太子論の中に、いきなりゲーテの詩の一節が出てきたりとかね。ふふ、ロマンチストだなァ――でも、この人の太子ヴィジョンってのは、意外と外れてないんじゃないかとおもいます。
っつーか、『斑鳩〜』の馬子像がちょっと例を見ないカンジで、中々……あの馬子とあの太子と、それから島田魁秦河勝、と、「マンガ日本史」的小野妹子、で話が書けたら面白いだろうなァ……野望。


さてさて、とりあえずこの項はおしまいで。
次は――多分、能鑑賞記、観劇記と続くと思います……