花がたみ 〜雪〜 一

 父が旅先の駿河で没したのは、自分が十六の歳のころだった。
 浅間神社での奉納舞の後、病に倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだ――享年五十二歳。大往生と云うには早いが、老境にさしかかってのちの死であったから、悲しみ嘆く心よりも、むしろ驚愕と、途方に暮れたような心の方が多くを占めていた。
 観世座の三郎大夫、すなわち観阿弥と云えば、御所のおぼえもめでたい申楽能の仕手であったから、座の長でもあるその父を失ったことは、自分たちの座にとって大きな打撃となることは、ほぼ間違いのないことだったからだ。
 無論、座は兄の三郎が継ぐに違いなかったが、兄とて未だ二十二、しかも、田舎・遠国まわりをこととしていた父とは異なり、御所や前関白などに贔屓にされていたとあっては、おのずと芸の庭に対する考え方にも、違いが出てこようと云うもので。
 座内は、何とも云い難い、落ち着かぬ空気に支配されていたのだった。
 ――良いか、四郎、都にあっても、鄙の芸の庭を忘れてはならぬぞ。
 父は、自分が稽古をはじめた七つのころから、くり返しくり返しそのように云っていたが――それはあるいは、上つ方に贔屓にされ、次第に遠国へ下ることを厭いはじめた兄を、批判する意味もあったのかも知れぬ。
 ――都には都の花があり、鄙には鄙の花がある。都は小さいが、鄙は広い……まして上つ方の愛でる花など、鄙の花に較ぶればほんの一握りよ。その一握りの花に、己のすべてを賭けようなどとは、ゆめ思うてはならぬぞ。
 父の言葉に素直に頷くことができたのは、兄に対するのとは異なる上つ方の人々の態度が、自分にとって不愉快だったからでもあっただろう。
 御所や前関白の寵愛を受けた兄とは異なり、上つ方の人々にとって、自分はいつまでも“下賤の申楽者”でしかありはしなかった――舞を舞い、謡を謡って褒美を与えられることがあったとしても、かれらは、まるで犬に餌を投げ与えるような風情でしかなく。決して、兄に対するような、蕩けるようなまなざしをくれることなどなかったのだ。
 堂上衆に鍾愛された兄の姿を、父はおそらく、苦々しく思っていたに違いない。
 そしてまた兄の方でも、そのようなまなざしを注いでくる父に、反発を感じていたに違いない――そのように思っていたのだ、父の死の前までは。
 だが――
 驚いたことに、父の死をもっとも嘆き悲しんだのは、他ならぬ兄そのひとだったのだ。
「親父殿が亡うなってしまっては――我らは一体、どうしたらいいと云うのだ!」
 泣き伏し叫ぶその姿を、その時は異様なものに感じたのだったが――考えてみれば、兄はその時、二十二の若輩でしかなかったのだ。それが、これから一座を背負って立たねばならぬ、その重圧は如何ほどのものであっただろう。
 ともかくも、それから兄は、観世の座――その名は、父の幼名からとられたものだった――の長として、皆を率いていくことになったのだった。
 無論、若輩とは云え、兄とても御所や前関白の御愛顧を被ったほどの人間であったから、そのすべり出しはまずまずのものであったのは間違いない。
 だが、ちょうどそのころ、御所の寵愛は、近江申楽の犬王大夫――典雅な芸風で名をなしていた――に移っていた時分でもあったから、それもあって、兄は余計に必死になっていたのだろう。
 御所は、芸の美には厳しい目を持っておられたから、父亡き後は、稚児として賞翫せられたと云うのみでは、あるいはもの足りぬと思われたのやも知れぬ。
 犬王――のちに、御所の法名より一字を賜り、道阿弥と名乗ることになる――であれば、父より年若とは云え、既に四十も越えたる堂々たる大夫ぶりで、兄に水をあけていたのだった。
「己には、まだあれほどの舞は舞えぬ」
 兄は悔しげに云って、唇を噛んでいたが――その言葉の外には、“父であれば、犬王にとておくれをとりはしなかっただろうに”と云う思いが隠されていた、と思うのは、的を外した思いではなかっただろう。
 父・観阿弥は、それほどの芸の持ち主だった。父が没して五十年を経た今でも、あれほどの仕手を目にしたことはないほどに。
 さもあろう、一体いかなる申楽者が、四十を過ぎてなお、婀娜な女にその身を変じ、また稚い喝食ともなることができると云うのか。また、恐ろしい地獄の鬼となり、はた変じて天女ともなる、その変幻自在な芸の技を、いったい何びとが持ち得ると云うのか。
 兄もまた、方々の勧進能の場において、その華やかな能で大衆を魅了してはいたのだが――しかし、上つ方は御所や堂上衆から、下は遠国の田野夫人に至るまで、見るものすべてを魅了してやまなかった父と比してみるならば、まだまだその境地には遠く及ばない、と云うところではあったのだ。
 それを誰よりも知っていたのは、他ならぬ兄自身であっただろう。
 かつて兄は、父の能を観覧された御所に、
 ――稚児は小股をかかうと思うども、ここはかなうまじ。
 と云われたことがあるそうだったが、それは、兄の芸風の狭さを評しての御言葉であったのかと思う。
 兄の名誉のために云い添えておくが、兄とても、決して余人に劣るような芸をしていたわけではない。座を継いだ当初こそ、犬王におくれをとっていたのだが、十年を経ぬうちに、その力は犬王をも凌ぎ、遂には日本一の名人よと、その名を轟かせるまでになったのだった。
 自分はと云えば、仕手として舞うには力が足らぬと、脇方としての技を磨くのに専念していた――そうするより他になかったのだ。
 自分が、兄に較べて花がない、と云うことは、とうの昔に身にしみてわかっていた。容貌は兄に劣るものの、身体つきは大きく、舞台映えはせぬでもなかったのだが、いかんせん、ただ在るだけでひとの耳目を惹きつける、存在そのものの花、とでも云うべきものが、自分には決定的に欠けていたのだ。
 舞やわざおぎ、節とりや謡など、ひとつひとつは人に劣りたることもない、と、父などはなぐさめるように云ってくれたのだが――花がない、と云う根本的な事実は、いかんともし難く己にのしかかっていた。
 だがあるいは、それが自分にとっての幸いであったのかも知れぬ。もとより仕手には向かぬものと、そう思い定めることができればこそ、父をも兄をも恨まずに済んだのかも。
 それに――すべてにおいて自分に勝ると思う兄にも、越えられぬ人はあったもので。
 それこそが、他ならぬ父・観阿弥であったのだ。
 父の持つ花、愛嬌、他を圧するわざおぎの技――子ゆえの偏頗な見方では断じてない、父は、誰よりも華やかで、誰よりも巧みな仕手であった。喝食にも若女にも、荒武者にも翁にも、鬼にも神にもその身を変ず――また、それをいかにもわざおぎの技と知られぬほどの自然さで、父は万人を惹きつけた。御所の寵を観世の座が得たというのも、父がその舞と技、身につけたすべての花でもって、御所を魅了していたが故に他ならなかった。兄の美貌と才気のみで、一座すべてを贔屓にするほど、それほど御所は甘い御方でなどありはしなかった。
 その父を失ったのだ、多少の逆風は致し方のないところであったし、我ら兄弟ともに、その自覚はあったので、一時は勢いが衰えようとも、必ずや再び盛り返してみせるのだと、そのように心に誓っていたのだった。



 座を継いでのち、兄は、後進を育てることに力を注ごうとした。
 申楽をなりわいにするものは、乞食の所業と蔑まれる。父のように一世を風靡する芸能者であればともかく、そうでないものは、嫁取りひとつとっても難しいものがあったからだ。
 それは、御所の鍾愛を受けた兄とても同じことで、三十路に入ってようやっと、妻を娶れたほどであった――父などは、二十歳そこそこで母と一緒になったと云うのにだ。
 そのような具合であったから、兄は、座の将来をひどく案じていたようだった。
 無論、兄に子がないと云っても、それで即座が絶えてしまうようなことはない。座の長に子がなくとも、養子に入った子が後を継ぐなどはざらにあるはなしであった――父にしてからが、伊賀のさる家から山田申楽の座に養子に入ったものだった――し、そのための子と云うのも、食い詰めた百姓が、わずかな金と引き替えに子を売るのが日常であれば、座内にはいつも稚い子の姿が幾たりかはあったのだ。
 残念ながら、観世の座内にあった子らの中に、飛び抜けた上手はなかったのだが――しかし、当座は兄と自分で座を回すにこと足りていたし、そのうちに技巧者を掘り出す希望も失せてはいなかったから、差し迫った危機があった、と云うわけではない。
 ただ――兄は、父・観阿弥の芸の血が絶えるのを恐れていたのではなかったか。
 父の記憶が薄れて消える前に、すべてを書き残しておきたいとでも云うように、兄は、三十を越えたあたりから、父のおしえを文字に変えていった。
「お前は、親父殿にここまでは教わらなかっただろうから」
 と云って、兄は「花伝」と題した書を与えてくれた。
「次郎兄者は亡くなって、小太郎兄者は杉ノ木の家を継いだ――親父殿の芸を継ぐは、己とお前の二人きりじゃ。我ら二人が心を合わせ、観世の座を守ってゆかねばならぬ」
「勿論じゃ」
 頷きを返すと、兄はひとつ息をついた。
「親父殿に較ぶれば、己の芸はまだまだ拙い……親父殿が己の歳のころには、既に伊賀で座を立てていたと云うに、己は継いだ座をまとめるので手いっぱいとは……」
「何の、兄者は御所に鍾愛せられたのだ、凡百の申楽者とはわけが違う」
 力づけるように云ってみるが、兄はただ首を振っただけだった。
「己などは、ただ御所の御愛顧ゆえに華々しゅうも見ゆるのみよ。親父殿のような、まことの花を咲かせるには、まだまだ修練が足らぬわ」
「兄者……」
「せめて、小太郎兄者か、あるいは次郎兄者の歳にでも、己が生を受けておったらの……」
 遠いまなざしで、云う。
 小太郎とは、服部小太郎季次、のち改めて季宗と名乗る長兄だった。十四年上――兄からは八つ年上――のこの長兄は、父の実家である杉ノ木の服部家を継いで武士となった人であったが、その職のとおりの磊落な人柄で、兄と兄弟であるとは思えぬほどであった。身体つきも大柄で、長身の自分や父などと較べても、そのいかつさはきわだったものがあった。
 次郎と云うのは、夭逝した十二上――兄とは六歳差――の、次郎元成と云う人だったのだが――この兄は、元服してすぐ病を得て、はかなくなってしまっていた。自分にとっては顔も朧な“兄”であったが、兄にとっては、すぐ上の、いつもあとをついて回った相手であるようで、何度となく次郎兄の話は聞かされていた。
 確かに、兄がもう八つ、せめて六つ、早く生まれていたならば、それだけ長く父の芸を見、また座を支えたその力を、見て、学ぶこともできただろうに。
「繰り言だ」
 小太郎兄は、その兄の言葉を聞くたびに、そのように云って兄を諌めた。
「親父殿とて、小波多で座を立てた時などは、ひどく窮しておったものさ。己が杉ノ木の家に入ったのも、もとはと云えば、座を回しながらでは、子を満足に食わせてやれぬと、そう云うてのこと――つまりは口減らしであったのよ。名を成してのちの親父殿ばかりを見てものを考えると、たちまち道を誤るぞ」
 確かに、父の昔ながらの芸の庭は、喝采こそ都にもまして大きかったが、入る銭はと云えば、雀の涙ほどのものでしかないところがほとんどだった。
 父が、のちに大和の結崎に移って新たに座を立てたと云うのも、ともかくも、鄙を回るばかりの申楽座では、暮らしがなりゆかなかったためでもあっただろう。大きな寺社のある大和の地では、勧進申楽もやりやすく、その上、伊賀の地にも近いが故に、座を立てる資金も調達しやすかったこともあるだろう。
 兄は認めようとはしなかったが、実は、そうした金回りに頭を悩ませていた父の姿を、小太郎兄の次によく知っていたのは、他ならぬこの自分であったのだ。
 御所の寵愛あつき兄を京にとどめたまま、父はよく、自分をともなってあちこちの芸の庭をまわっていたからだ。
 草深い武蔵野、駿河紀伊から美濃、果ては遠い越の国々まで、父の芸の庭は広きにわたり、その先々で乞われる舞もまた様々であった。
 荒々しい力動風の鬼から、弱々しい砕動風の鬼、翁、天女の麗しい女舞まで――父は、乞われれば何にでもなり、何をも舞った。老いたる小町、地獄の融の大臣、そして得意の自然居士。
 仕手の花を持たぬ自分には、それはまぶしいほどの華やかさだった。
 兄を、才なき仕手と云うつもりはない。
 だが、あの父に較ぶれば――兄もまた、才走った若者のうちでしかなかったのだ。
 兄自身、そのことは百も承知であったようで、届かぬ星に手を伸ばすように、ひたすらに父のあとを追っていたようだった。
 舞台がはね、座のものたちが作物や小道具を片付け、三々五々に散っていった後も、兄はただひとり、その日の舞を繰り返していることが多かった。それは、ただその日の舞台を省みていたというよりも、同じ舞を、父であればどう舞ったか、脇方や連れをどう動かしたかを、思い描くためのものであるように思われた。
 兄の修練の賜物かどうか、近江申楽に圧されていた観世の座は、往時の勢いを取り戻し、興行の収入も、まずまず安定してくるようになった。
 前後して、一時うすれていた御所の寵が、また再び兄の上に戻ってきたようだった。
「稚児の美しさは失せたが、良い大夫になったの、藤若よ」
 御所はそう云って、兄をまたそば近くに招じられたが――兄は、その御言葉だけでは満足せぬ様子だった。
「未だ父の能芸の域には至りませぬ。日々精進これあるのみと、さよう心得ておりまする」
「よい心掛けじゃの」
 御所は笑って扇を打ち振られた。
「観阿はの――生意気な申楽者よと思いもしたが、あの能芸は、余人には真似のできぬものであった……こなたもいよいよ精進致し、父をも超ゆる上手となれよ」
「は、精進致しまする」
 兄は深々と頭を垂れ、それからますます芸を磨くことに力を注いだ。
 そのうちに、まずは自分と妻の間に息子が生れ――その翌年には、兄のところにも男児が授かった。
 仕手と脇、双方の後継ができたと、兄は喜んでいたのだが――さらに翌々年、兄に第二子の男児が生まれたことが、自分や息子、さらには兄の一家の運命をも、大きく動かしてゆくことになる。


† † † † †


と云うわけで、世阿弥の話、と云うか、四郎たんの話。


すみません、既に“4回”とか云うのも嘘になってます――多分、全7回、かな……?
いや、もうある程度書いてるのですが、まだ世阿弥の××が××するところ(ネタばれ)で、四郎たん怒鳴りこまれてないからね……ふふ……
そうそう、タイトルの後ろについてる“雪”、これは「花がたみ」の三部作つーか三つでひとつっつーか、の1番目に付けてる符牒的なものです。雪・月・花で一揃いで、“月”は音阿弥さん、“花”は世阿弥にするつもり。
世阿弥まわりの話とか云ってますが、ホントの中心は観阿弥→十郎元雅のラインです。そんな話。
昨今の能をよくご存知の方には「???」なことも結構あるかと思いますが、まァ室町の話なんで。今の能とは全然違いますんで、その辺宜しくお願い致します。


しかし、この話を書くんで、世に出回ってる世阿弥絡みの小説をいろいろ読んでみたのですが。
やっぱ、古いけど杉本苑子の『華の碑文』が一番いいような――四郎たんが、世阿弥べったりで、その辺釈然としないものは感じますが。
瀬戸内寂聴の『秘花』は、最近のものだけど、あんまり出来が宜しくない……
藤川桂介の『二天を戴かず 禁島の世阿弥』は、うんまァ、藤川桂介だわねと云うか――『宇宙皇子』駄目だったので、読み通せませんでした……
倉田美恵子『世阿弥残影』、いらん政治情勢の説明が多い割に、世阿弥まわりの説明が少な……読み辛い。
森本房子(この人、鎌倉御家人の話も書いてるそうですね)『幽鬼の舞』、何か描写が……! 現代の、蛍光灯のついてる稽古場で稽古してるみたいなカンジで、違和感。
東山緑『世阿弥』、美辞麗句並べ立て過ぎ! しかも、この人、室町と江戸時代の文化や生活レベルの差をまったく考慮しておらず、「ねェわ!!!」って描写てんこもりでした。
っつーか、参考資料上げてる人たち、網野善彦の著作を一冊も上げてなかったのですが、それで中世の職能民の端くれたる申楽者の生活とかわかるのか? だから、江戸の町娘みたいなのを出しちゃったりするんだよ! 色鮮やかな小袖なんぞ、あの時代の庶民には手に入らんわ!!!
……と云うわけで、やはり杉本苑子が一番でした。
あと、秋月ともみ『秘すれば花 観世三代記』と倉田美恵子『花のかたみ』、朝松健『暁けの蛍』を読むつもりですが……さて、いいのはありますかねェ……


あ、この話の世阿弥まわりの人間関係は、基本的には例の上嶋家文書(当然、本に載ってた簡単な系図ですが)を参考にしてます、が、他に、確実だけど限りなくアヤしい情報も参考にしてます。ので、出典何だと訊かれても、お答えできません、すみません……
とりあえず、夜の闇の彼方で見た音阿弥さんの舞は、今の能とは全然違いましたよ。
音阿弥さん名手だそうですが、ピカ=鹿苑院義満公やら二条良基さんやら、に云わせると、「世阿弥はあんなもんじゃない」そうです。観阿弥は、世阿弥と同じくらい巧く、好みは分かれるけど、あれはあれですごいんだそうな。そうですか……
まァまァ、その凄さが巧く書ければいいな……


この項、終了。
次はルネサンスですね、どどどうしようか……