神さまの左手 33

 構図の問題を少々棚上げにして、レオナルドは、画中の人物のモデルを探すことにした。
 と云っても、難しいことがわかりきっているキリストとユダは措いておいて、描けそうなあたりから物色していくのだが。
 とにかく、劇中の一場面のように画面を構成しようと云うからには、“登場人物”の性格も、それなりには作り上げてやらねばならぬ。
 幸いにも、聖書のひとこまと云うことは、その聖書の中から、それぞれの人物の性格をくみ上げてやり、それとわかるように動作や表情などをつくってやれば話は簡単だ。
 と云うわけで、聖書を開いたレオナルドではあったのだが、
 ――多いな……
 そもそも使徒の数が十二人で、キリストを加えると十三人、そのそれぞれの性格はもちろん聖書に書かれてはいるのだが、絵に表して区別をつけるとなると、これは中々の大仕事だ。
 とりあえず、キリストに最も愛された弟子・ヨハネは従来の表現に従うとしても、疑り深いトマス、怒りっぽいペテロや激情家の大ヤコブなどの、はっきりと聖書に記載のある面々はまだ良い。
 問題は、はっきりと性格の描かれていない使徒たちなのだ。
 特に問題なのが、名前ばかりが伝わるタダイで、どこの生まれで、誰と縁続きなのかもわからない。
 名前や殉教の地がわかっているものたちにしても、容姿や性格に関する詳細な記述があるわけでもなく、実際に絵の主題として描く場合には、教会から求められるように描く場合が多く、その際にはそれ用の資料の提供を受けて描くのだが――今回は、教会からの直接の依頼ではないため、そのあたりのこともあまり期待できそうにない。
 と云うことは、かなり自由度が高い、とも云えそうなのだが、
 ――そうそううまい話があるわけはない。
 甘い顔を見せておいて、後で話をひっくり返すなど、教会にはよくある話だ。
 そのあたりのことは、レオナルドはフィレンツェで受けた『東方三博士の礼拝』で、痛い目を見ていた――あの絵の依頼主は、下絵を描き上げるごとに、注文内容が二転三転する厄介な相手だった――から、どうしても慎重にならざるを得なかった。
 ともかくも、まずはキリストとユダ、それから中心となる使徒たち――ペテロ、アンデレ、ヨハネ、トマスたち、からはじめるとしよう。
 レオナルドは、場面をキリストが「この中に私を裏切るものがいる」と云った直後にしようと考えていた。その言葉の与える衝撃で、使徒たちがざわめき、また隣りのものと言葉を交わす、その瞬間がもっとも劇的であるように思われたからだ。
 ――さて、使徒たちは、どんな反応をするだろう?
 性格を――でっち上げになるが――決めてしまわねば、その性格付けに相応しい容貌の主など探せるわけがない。
 ヨハネ――女性的な容姿で表されることの多い――は、いっそもうモデルを廃し、レオナルドの好きな中性的な容姿――例えば「岩窟の聖母」のウリエルのような――にするとして、他のものたちはどうする?
 ――マタイとシモンは、徴税人と兵士から選ぶとするか。
 職業がはっきりしている使徒は、そこから選べばよい。漁師はミラノ近隣にはいないのだが――漁師出身の使徒はペテロとアンデレ、ヨハネ大ヤコブとトマスの五名、いずれも性格が比較的はっきりと描写されているものたちだ。
 となると、考えなければならないのは、ピリポ、バルトロマイとタダイの三名か。
 いや、そもそも、これら十三名のものたちを、どのように晩餐の席に配置する?
 かれらの使徒内に占める位置やその性格によって、座る場所は異なってくるはずだ。そうして、それによって、キリストの言葉の衝撃の与える大きさも、変化が出てくるはずなのだ。
 ――ああ、考えがまとまらん!
 考え出すと、きりがない。
 それに、またしても構図の問題に話が戻ってきてしまっている。
 ――結局は、構図の問題を抜きにして、モデルなど決められんと云うことか。
 さて、振り出しに戻ってどうしようか、と思ったところへ、
「レオ、飯持ってきたぜ!」
 ばんと扉を開け放ち、サライがずかずかと入ってくる。
 そうして、レオナルドの手許を覗きこみ、
「何だ、ちっとも進んでねぇじゃん」
「進んでいなくはない!」
 思わずかっとなって云うが、少年はにやにやとして、
「だってさぁ、そのデッサン、昨日からちっとも代わってねぇだろ。何、行き詰まってんの?」
 と、まったく意に介さぬ風である。
「……人物の配置がうまくいかんのだ」
 レオナルドは、渋々とそう認めた。
 それに対するサライの返答は、驚くべきものだった。
「配置って、そんなの、だーっと一列に描いちまやいいじゃん!」
 瞬間、レオナルドは呆気にとられた。
 一列。一列にか、それは考えなかった!
 基本的に、最後の晩餐図はキリストと使徒たちを長テーブルにつかせていたのだが、横一直線に配置しているものは見かけなかった、そう云えば。
 なるほど、確かにそれならば、テーブルのどこにどの使徒を割り当てるかは、もうすこし楽になるかも知れないが――しかし、
「……一列のどこに誰を置くかが問題なのだがな?」
 やや皮肉をこめて云ってやるが、サライのこたえは、またしても予測の斜め上をいっていた。
「絵の中心って決まってんの?」
「もちろん、キリストに決まっている」
「じゃあ、キリストを中心にして、あとは好きなのから描けばいいんじゃねぇの?」
 ――そうきたか……!
 まったく、この少年の発想力は、常人の及ばぬところに飛翔する――しかし、レオナルドにとっては、それは非常に魅力的な発想ではあった。
「なるほど、好きなものから、な」
 確かに、そうすれば、力の入り方も違ってくる――当然、“好きなもの”には力が入り、“そうでないもの”にはあまり入らなくなる――、そうなれば、中心のキリストから、外へいくに従って力の入れ具合が弱くなるのも、一種の効果として使うことが出来るかも知れない。
「……やってみるか」
 呟いて、やっとチョークを握ったレオナルドを、サライがにこにこと見ているのがわかった。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
『最後の晩餐』のあれやこれや。


やー、ホントはこの辺、きちんと聖書を見りゃあいいんでしょうけど、面倒なので「Pen別冊 キリスト教とは何か。」(もうじき本誌で「〜何か。2」が出ますねェ)を参考に。って、部屋に3、4冊転がってる聖書は何のために! ……うんまァそのうちちゃんと見ます……
サライはこんなカンジ。っつーか、このふたりはいつもこんなだな……
サラの科白は、沖田番が云ったのをそのまま貰いました。ま、こんなサラだよな。そして、こんな先生。いいのか、“ウォモ・ウニベルサーレ”がこんなんで……


馬場の古書感謝祭で、1974年の「美術手帖」をGet。アレです、モナリザ来日特集の号ですよ!
論考なんかは中々面白い(久保尋二とか書いてるし)んですが、図版がやっぱり悪いのが、ご愛嬌と云うか何と云うか。いやァ、こないだの「受胎告知」来日時の各誌特集号は、ホントに図版綺麗なのが多かったもんなァ――「芸術新潮」とかね。
まァまァ、1974年の「美術手帖」は、その時の生な声が聞けるようなカンジで、これはこれで面白いからいいんですが。


しかし、日比谷でやってるらしき、モナリザのアヤしい展覧会は、一体……
あれでアイルワース版とか(処分しちゃったとか云う)ルーブル所蔵だったサライの模写とかが来てたら、見に行ってもいいんだけど……印刷物で¥1,800-はちょっとねー……チケット貰うあてもないし、うん、アレはするっとスルーで参りたく。


この項、終了。
次は――すみません、また四郎たんの話で〜(汗)。