神さまの左手 34
レオナルドは、ようやっとモデルの選定に入ったようだった。
ようだった、と云うのは、有体に云えば、画帳を持って、街中をほっつき歩いているだけ、のように見えなくもなかったからだ。
西に行っては道行く人の姿を画帳に納め、東に行っては気に入った人にモデルを頼む、と云う具合で、下描きとしてはざっとした構図を描いたばかりであったのだ。
イル・モーロは、レオナルドのやり方にかなり不安を抱いていたらしく、頻繁に使いのものを遣しては、進捗状況を問いただしてきていた。
「や、先生ちょっと出てるんで」
弟子でもないサライとしては、こう云って誤魔化すしかなかったのだが。
――ちょっとは下描き進めろよ!
カルトンを描きこんでおいたなら、イル・モーロとても、こうも頻繁に使いのものなど遣さないのだろうに、と思わずにはいられなかったのだ。
この時期、レオナルドの生母であるカテリーナは、体調を崩して臥せっていたのだが――レオナルドは、世話は病院にまかせっきりで、見舞いに行くのもサライが代わりに行く、と云う親不孝ぶりだった。
――まぁ、こっちは仕方ないんだろうけどな。
レオナルドは、どうしてもカテリーナとの距離を埋められず、相対してもぎこちない応対しかできずにいた。一方のカテリーナにしても、ミラノの宮廷画家たるレオナルドを、自分の他の子どもたちのようには扱うことが出来ず、結局のところ、互いにぎこちない関係が続いていたのだ。
親子であるのに、言葉を交わすだけで緊張して、会話が終わって別れるとほっとする、など、普通の親子の関係ではありえないだろう。
――ま、俺んちよりはよっぽどましだけどな。
サライの母は早くに亡くなり、父親は金のことしか頭にない業突張りで、姉たちにしてもご同様だった。サライがレオナルドに引き取られたのは十歳のころのことだったが、あとすこし遅ければ、かれはどこぞの金持ちに、愛玩物として売り飛ばされてしまっていたに違いなかった。
それに較べれば、レオナルドとカテリーナの関係など、まだまだ良好だと云ってもいいはずだ。
現にレオナルドは、結構な金額になるはずの病院の入院費を、何も云わずに出しているではないか。
このふたりは、何かが掛け違っているだけなのだ、そこをうまく解してやれば、何とかなるに違いないのだ。
――それが俺の仕事ってわけだ。
サライは、レオナルドの弟子と云うことになってはいるが、実際に絵を描くための手伝いが出来るわけではない。顔料の調合法だって知りはしないし、そもそも絵が下手だ。
だが、ことレオナルドの身の回りのことどもを処理することにかけては、誰にも負けないと云う自負がある。
――俺がいなくちゃ、レオはからっきしなんだから。
サライと出逢うまでの四十年近くを、かれがどうやって生きてきたのかと心配したくなるほどに、レオナルドの日常生活はでたらめだった。
宵っ張りの朝寝坊で、思い立ったらすぐに行動に移さねば気が済まず、集中した時は怖ろしいほどに一事にのめりこむが、それが長続きせずに興味を他に移してしまう――
――こんな先生に、俺以外の誰がついてけるってぇの。
実際、レオナルドに弟子入りして、長続きしたものなどいないのだ。レオナルドの考え方は、ただ絵の描き方を習いにきただけの若者たちには、まどろっこしい上に難解に過ぎたのだ。そうとも、いったいレオナルド以外の何ものが、絵を描くのに物の見え方や落ちる影の色あいの違いまでを気にすると云うのか。木や草花のかたち、朝夕の光の違いとそれによる色の見え方の違い、人や動物の骨格と筋肉のかたちや動きまで――万物を解釈して、何かを描こうとするものがあるだろうか。
レオナルドだけだ、レオナルドだけが、この世界そのものに興味を向けて、それらすべてを描き出そうとしているのだ。
他のものたちは、そのことを知らないからこそ、“レオナルドは手が遅い”などと、勝手なことを云ってしまえるに違いない。
とは云え、
「……もうちょっと、先に進めといてくれたっていいんじゃねぇの?」
こうして留守番をしながら、イル・モーロの使者に云い訳をする、こちらの身にもなってほしいものだと、切実に思う。
――あーあ、今日は留守番やめちまおっかな……
これ以上、使者にくどくどと云い訳を並べ立てるのもうんざりだ。
気晴らしがてら市に出て、好きな菓子でも――
「……サラーイ!!」
「……げ」
レオナルドの声に、思わず肩をすくめる。今考えていた遊びのことを嗅ぎつけて、レオナルドが帰ってきたかのように思えたのだ。
だが。
「サライ、ちょっと来なさい」
画帳を抱えたままの大先生は、真剣な顔で云ってくる。
「何だよ、モデル探してたんじゃねぇの?」
さらりとした顔で問いかけるが、レオナルドはそれには答えず、腕を取って、ぐいぐいと引っぱってきた。
「いいから来なさい、お前が必要なのだ」
“お前が必要”――何と甘美な言葉。
その言葉の響きに、サライは、それまで留守番させられたことにうんざりしていたのも忘れ、頷いていた。
「わかったよ。で、何?」
「とにかく来なさい!」
レオナルドに引かれるままに、サライは、石畳の上を駆け出した。
† † † † †
ルネサンス話、続き。
最後の晩餐、下描き中。
そろそろカテリーナが(以下略/いや、まだ一年ほど余裕はありますが)なのですが、まァそんな先生で。
基本的にふらふらしてますが、それが大いなる飛躍の助走になるんだよ! と、力説してみる。
サライはね、そう云う先生を“神!”とか云いながらサポートすることに生きがいを感じてればいいと思います。
まァ、これからいろいろ変わってくはずだしね。もうちょっとしたら、いろいろね……ふふふふふふふ……