空海の話とか。

……ってわけで、穴埋め空海がらみの考察。


えー、角川ソフィア文庫『仏教の思想9 生命の海<空海>』を読了したわけですが。
……何かこう、空海の思想、って云うか密教の思想か、って、言葉にするとすっげ単純明快ですね……
要するに、「世界はそれ自体が仏性そのものである」ってことだもんね。シンプルかつポジティブ極まりない。
しかし、ルネサンス自然魔術的なあれやこれや、とは、やはり若干切り口が違いますね。敢えて云うなら、イデア論をもっと引き付けて考えたカンジに近い……のか? いや、それともちょっと違うかもな……


しかし、これはぐだぐだと考えをひねくり回す顕教の人たちには難しいか……って云うか、最澄には理解できんだろう。
「私の目の前にあるすべては、実在にして、なおかつ仏性そのものでもある」っていうのは、何て云うか、一種の神秘体験的なものがないと、単純明快すぎて腑に落ちんだろうなァ、と云う。
だって、“煩悩即菩提”ですよ、煩悩持ったまんまで菩提に至るんですよ! (後世では、“煩悩即煩悩”ってのも出てきたらしいですが――って、これどこの宗派の考えだっけ?) これは、それまでずーっと“煩悩を捨て、執着を捨てて涅槃に至る”って云う考えできた他宗派の人たちにはショッキングだよね!
でも、うん、何となく入定(死ぬことではなく、修法すること)していかないと、“世界は仏性そのものだ!”ってのには行き着けない、ってのはわかるかも……
だって、“世界は空で、有も無もない”とかから、“世界は実在にして、すべてが唯一の仏性(=大日如来)から発したものである”(←ちょっと違うか……)に乗り換えるのは、中々激しい方向転換だと思うのですが。そんなの、神秘体験でもしないと実感できねェだろ、って云うね……


でもって、神秘体験的なものをする、ってのは、最澄みたいな筆授中心の考え方では厳しかろうなァ、と。
うん、密教は禅定や加持なんかが肝要、ってのは、この神秘体験的なものをするために必要なんでしょうね。
太陽が太陽であるってのは、まァ当然として、理屈として、太陽=大日如来である(厳密に云うと、単純な擬人化的なものではないと思うのですが)ってのは、太陽の光に仏性を重ねて見るための何らかの体験(ですから神秘体験的な)をしないことには、平易な言葉に堕してしまうような気が致します。
『仏教の思想』で云ってたロゴス的な言葉=日常の言語では、そんな風にしか云えないんだけど、パトスを含んだ言葉であれば、もっとこう、多重的に意味づけがされるんでしょうが……む、難しい……


でもまァ、要はアレだ、これも理趣経と似たようなカンジと云うか。
男女間の性的なアレコレを“菩薩の位”と書いた理趣経と、目の前のすべて+自分自身が仏性を秘めている、って言葉とは、同じように誤解される危険性を孕んだものだよなァ。
こう書いてたって、多分云いたいことの10分の1も伝わらないのはわかってるんですが――何しろ、私の今使ってるのは、日常言語=ロゴス的な言葉であって、ある種のポテンシャルを含んだパトス的な言葉、ではありえないもんなァ。
っつーか、“仏性”って言葉がそもそも難しいと云うか――いえ、言葉と云うか、その言葉の指し示すものがと云うか。
何かこう、ニュアンス的なところでは、絶対肯定されるべき何か、ってカンジなんじゃないかと思うのですが――“善”とか“正”とか“光”とか云っちゃうと、全然違う感じがするし、“真理”とも違うような気もする、理趣経的なアレコレを鑑みると……してみると“仏性”って、都合のいい言葉だな(笑)。
うん、絶対肯定されるべき何かであり、なお且つ人間からしてみると超越者(“者”の文字が誤解を生むもとだとは思いますが……人格的なものでもなさそうだしな)であり、かつ自分も隣りの誰かもその一部であるような大きな“生命”――“生命”かなァ……まァ、大枠で云えば“生命”か……
そんなもん、どうやって日常言語で表せと(苦笑)。
っつーか、何でここで密教談義に入ってるのか自分(苦笑)。


しかし、そんな言葉にし難い玄妙な世界の話ですので、それこそ修行して体験するしかないんだろうなァ――だからこその“密教”なんだとは思いますが。
でもね、思うんだけど、実はこれ、密教の手続きに従って修行しなくても、近い体験までは結構いけちゃうんじゃないかなーと。
あれですよ、ひかわきょうこの『彼方から』の“光の世界”。あれが、ある種の“目の前のすべて&自分自身も仏性そのもの”に近いノリなんじゃないかと思います。
ああいうのって、ある種の書き手(描き手)にとっては結構簡単にいきつける結論なんだろうけど、書き手でない人には難しかろうなァ――そうか、空海詩を書くから、だからそっちに親和性があったのかも?
どっちにしろ、ロジカルシンキング最澄には厳しいよね――って、空海もかなりロジカルな人のはずなんですが……そこが“大いなる矛盾の人”(by梅原猛)ってとこなのか、そうなのか……


† † † † †


ところで、空海と云えば、例の『三教指帰』(と、その元ネタの『聾瞽指帰』)なんですが……
何か、鬼の『豊玉発句集』的に恥ずかしいカンジなのは何故だ……
っつーか、何にも云い置いてなかった『豊玉発句集』はアレとして、『三教指帰』は“こんな若気の至りで書いたもの、他人に見せるもんじゃない”とか本人書いてるのに! こんだけ時間が経ってるとは云え、角川ソフィア文庫とかで気軽に読めちゃうと知ったら、本人死にそうになるんじゃないかな……
っつーか、むしろ死ねるカンジです。
とりあえず、若いころの空海を知るためには必読! とか云うらしいですが、絶対に読むもんか!
ホントマジ、よく叔父=阿刀大足に、あんなもん叩きつけたよな、空海。若さ、っつーか馬鹿さ故の過ち? 読み返して、手を入れてみたはいいけど、恥ずかしくって人前には出せなかったに1000点!
馬鹿さゆえの(以下略)が横溢してて、かつそれがわっかりやす〜いので、恥ずかしさでは『発句集』より上かもね。
とりあえず、他の著作(『遍照発揮性霊集』とか『高野雑筆集』とか)は、隣りのH市図書館に『弘法大師空海全集』が全巻入ってるので、見てみたいとは思いますが……
三教指帰』より恥ずかしいものが入ってたら……厭だなァ……(汗)


† † † † †


何か、考察というよりも自分覚書的な?
まァいいや、この項終了で。
次は――鬼の北海行、の前に、北辺の地に行ってきます!!