北辺の星辰 59

 心の区切りは、外からの力によってつけさせられることになった。
 宮古湾の敗戦の傷も癒えぬ四月六日、英国船アルビオン号が箱館に寄港してきたのだが――そこからもたらされたのは、薩長軍が九日に乙部村に上陸、侵攻してくると云う知らせであったのだ。
箱館には、各国領事館もございますので」
 と云ったのは、アルビオン号の通詞・松木正五郎と名乗る男だった。
箱館居留の外国人が戦いに巻きこまれたとなっては、後々国際問題に発展する可能性もございます。それを避けるために、新政府側の方々は、あらかじめ各領事館に通告し、退避の暇をつくろうと云うのでございましょうな」
「……それは、確かな話なのですか」
 副総裁の松平は、厳しい面持ちで問いかけた。
「左様でございます」
 松木の答えは簡潔だった。
「かく云う私も、英国領事館への伝言を承りまして、事態を知ったものでございまして。……実は、こちらへ参る前に、既にそちらへ退避勧告を致して参ったところでございます。小耳に挟みましたところでは、どこの領事館も、自国の民を守るのに、退去させるのに必死だとか」
 松木の言葉に、居並ぶ一同がざわめくのがわかった。
 さもあろう、箱館に居留する外国人に退去勧告を出すと云うことは、薩長の輩は、いよいよ蝦夷地に上陸し、この箱館まで進軍してくる心づもりであるということだ。つまり、上陸地である乙部村から箱館までの、広い範囲が戦場になると云うことでもある。
「……ともかくも、江差の松岡君、松前の人見君に、南軍侵攻の旨を伝えなくてはなるまいな」
 榎本は、冷静な声でそう云ったが――そのまなざしはやや落ち着きなく、かれの受けた衝撃がひとかたならぬものであることを物語っていた。
「それから、箱館までの途中の木古内や知内などにも兵を出さなくては。もしも、あのあたりを抜かれれば……」
 その先は、云われずともわかることだった。
 箱館がいくさ場になる――それはすなわち、幕軍の敗北を決することになるのだ。
 そうだ、もはや箱館府の中枢にあるものたちは、誰もが皆知っていた――自分たちの命数が幾許もないのだと。開陽が沈み、甲鉄艦の奪取にも失敗した。海軍はその戦力を減じ、陸軍とても万全の兵力であるとは云い難い。敗北は、もはや時間の問題なのだ。
 だが、同時に皆わかってもいた――この事実を、末端の兵たちに気取られてはならないことも。
 かれらは、心底から幕府を倒した薩長を憎み、“新政府”に下ることをよしとせずに、この蝦夷地までやってきた。かれらの望みは、薩長に下ることなく、幕臣として生きる道を得ることであり、箱館府に属すること、それを維持することで、望みが叶うと信じていた――すくなくとも、信じようとしていたのだ。
 であるからには、その箱館府の上層にあるものたちは、かれらの望みを実現させるものとしての振舞いを、決して捨て去るわけにはいかなかったのだ。
 だが、いずれ敗北の日はやってくる。
 その時をうまく迎えるには、ともかくも、心残りなく薩長軍と剣戟を交えることが必要だと思われた。
「……そろそろ、桑名、唐津、松山の御三方には、お戻り戴くより他ありますまいな」
 永井玄蕃が、ゆっくりと云うのへ、松平が頷く。
「後々の禍根ともなりかねませぬ故な」
 その意味は、歳三にもよくわかっていた。
 かつて、桑名藩の酒井孫八郎が云っていたとおり、それぞれの国許のものたちは、既に薩長の輩、すなわち“新政府軍”に恭順しているはずなのだ。
 だが、各藩の頂点たる藩主が幕軍側にあるとなれば、“新政府軍”のものたちは、藩主以下、家中すべてのものが幕軍側だと断じて、最悪の場合、御取り潰しにすると云い出すやも知れぬ。
 永井の云うのは、そのような事態に陥って、三家のものたちから徒に恨みを買うよりも、いっそここですっぱりとかれらとの関わりを絶ち、旧幕軍単体で、最後の決戦に臨むべきだ、ということだった。
「――御三方に関しては、松木殿、貴殿にお願い致して宜しいか」
 松平が鋭く問いかけるのに、松木はやわらかい笑みを浮かべてきた。
「私どもに異存はございませぬ」
「では、決まったな。御三方には、早々に箱館を脱して戴く」
 榎本が云った。自分に云い聞かせるかのようなもの云いであった。
「御三方の助力があれば、朝廷に我らの志をお認め戴くのにも宜しかろうと思っていたが……家中の方々と諍うことになるのもお気の毒だ、お戻り戴くよりあるまい」
 ――まだ、そんな考えを捨ててねェのか。
 歳三は、呆れるより他なかった。
 朝廷が、旧幕軍の“蝦夷地入植”を認めるはずがないことは、松平や永井、中島三郎助などにとっては自明のことだったろうに、榎本は、まだその希望にすがっているらしい。
 無論、その考えを榎本に吹きこんだのは自分であったのだが――当の歳三ですら呆れるほど、榎本は一途にその考えを奉戴しているようだった。
 ――“蝦夷共和国”なんぞ、砂上の楼閣だってェのになァ。
 徳川宗家の知行石高を二百万石から七十万石に削った“新政府”の輩が、手つかずに等しい蝦夷地の開墾を、旧幕臣に許そうはずはない。そのようなことをして、徳川宗家が力をもり返すなど、やっと政を主導する立場になった薩長土肥、特に長州が許すまい。
 榎本の楽天的な考えは結構だったが――そろそろ、現実を見定めねばならない時期に差しかかっていると云うのに、箱館府総裁がこんな様子では、今後の戦局が思いやられる。
 だがもちろん、その思いを口の端にのぼせることなどしはしない。
 その代わりに、
「……では、我々も出陣と云うことになりますかな」
 と、この先のことどもに水を向けてやる。
「左様」
 と、松平がやや冷ややかな声で頷いた。
薩長軍が乙部村に上陸することが確実となれば、江差松前が抜かれた時の防備として、木古内や二股にも兵を出すべきでしょう。それに関しては、大鳥先生、土方先生、指揮をお願い致します」
「承りました」
 協議の結果、木古内へは大鳥が、二股――江差からの間道の通る――へは歳三が、それぞれ出兵することになった。期日は四月八日――二日の後と決まった。
 ――あと二日。
 そして、三日後には、蝦夷地に戦火が燃え広がることになるのだ。
 その前に、どうしてもやっておかねばならないことがある。
「――松木殿、一寸宜しいか」
 退出しかけた松木に声をかける。
「はい、いかなることにございましょう」
 松木はにこやかに問い返してくるが――その両の目は探るような光を浮かべ、笑みなどかけらも含んではいなかった。
「少々お願い致したき儀がございまして」
「はて、私などにお力添えできることでございましょうか」
 量るようなまなざしを向けてくる松木に、歳三はにっこりと笑んで、自分の部屋へと差し招いた。


† † † † †


鬼の北海行、続き。
いよいよ二股口へ!
ありゃ、この章で鉄ちゃんの件をアレコレするところまでいけると思ったのに……次の章にいっちゃうか……え、次の次の章? (汗)
何かのびる、のびるわ……


でもって、お久しぶりですの松木さん。
憶えてらっしゃる方ありますかね、鉄ちゃんの話の時に出てきてた、英国船アルビオン号の通詞の人です。やっとフルネーム出せた!
っても、この名前は多分偽名っつーか変名だと思うんですけども。アルビオン号の乗員名簿とか残ってるのかどうか知りませんが、そっちには違う名前で載ってるかもね。
松木さんの顔は非常にはっきりしてるので、イラスト描いて載せたいくらいです(巧くはないんだが)。割と特徴があるんですよ、この人。巧く描写できるかしら……う〜ん。とりあえず、割と髪が薄いんだ……(苦笑)
っつーか、松木さんって多分間諜的なこともしてたんじゃないかと思うのですが、それであんな特徴のある顔で良かったんだろうか――気になります。


関係ありませんが、芥.川.賞W受賞のせいで、文春が売れ売れですね――重版かかって、うちにも追加と重版分とで結構な数(二桁ですが)入ってきましたが。
あれの朝.吹さんのインタビューとか読んだ母が「あの人、知り合いの編集者か何かから“小説書きませんか”って云われたそうよ。才能のある人は、どうしてても見出されるものなのねぇ」と私に云うのです――悪かったな、才能なくて!!! 誰にも見出されませんよ、どころか、前投稿とかしてた時も、かすりもしなかったよ!!!
母は、私がノートを持ち歩いてると「まだ書いてるの」的なことを申すわけですよ――ええええ、まだ書いてんだよ、芽が出なくてもな!
正直、今回の芥.川.賞は、西.村氏の方がインタビューとかもすとんと落ちてきたカンジ。朝.吹氏の方は、ちっとも胸に響いてこなくってどうしようでした。
まァ、西.村氏の方が本売れてるっぽいので、結構私と同じ感覚の人が多かったんだろうな、ってことで。
とりあえず、水.嶋.ヒ.ロじゃなくって齋藤何とかのアレが(やっと)回ってきたので読んでますが、主人公、四〇歳とは思えねェなァ……何て云うか、感性が若造だ。いってて23〜4くらい? その段階で何かこう……[イマドキのラノベの軽いヤツ+ケータイ小説]÷2、ってカンジのハナシだなァ。文章も拙い。投げ捨てるほどではないけど、それは水.嶋.ヒ.ロだと思ってるからか? とりあえず、買わなくて良かった。


さて、自分も頑張りましょうかね。
この項、終了。
次は源平話〜。